キャンパスの光
一日の授業が終わり、眼鏡を外して軽く伸びをする。窓の外、夏めく木漏れ日が心地良かった。
「ちょっといい?」
振り返ると、男の子が声をかけてきた。
「なん、ですか」
怪訝そうに答える私に、彼はポリポリと黒髪に茶色メッシュの頭をかいた。
「授業、全然頭に入んなくてさ。レポート作るの苦労しそうだから、ノート、コピーさせてもらえないかなって」
私は素朴な疑問をぶつけた。
「どうして私のを?」
「だって、えらく熱心に書いてたから。すげぇなと思ってさ。急で申し訳ないけど、頼むよ」
そう言って、両手を合わせる。
そこまで言われると、私も悪い気はしなかった。
「別にいいけど」
私はびっしり書いたノートを渡した。
「サンキュー! 待ってて」
彼はそう言うなり、教室を飛び出していった。
私は恋愛をした事がない。中高と女子校だったし、無口で暗かったから友達も少なかった。大学でもサークルに入らず、同年代の男の子と話したのも今日が久しぶりだった。
「お待たせ!」
しばらくすると、彼が戻ってきた。
「助かったよ、ありがとう」
「どういたしまして」
私はノートを受け取ると、鞄にそれを詰めて席を立った。
「いたいた。何やってんの?」
ちょうど、学内唯一の友達が教室にやってきた。私はそれを無視するように外へ出る。
「あ、待ってよ!」
友達は、訳もわからず私を追いかけてきた。
正門に向かって二人で並んで歩いていると、友達がニヤニヤしながら言った。
「知ってるよ、さっきの彼。同じ二回生で、結構人気ある人だ」
「そうなの?」
空調の効いた校舎を出たから、真夏の陽気がやけに体を火照らせる気がした。
「もしかして恋の始まり?」
「まさか」
私なんて、誰からも見向きもされない。昔からそうだったんだから。
私は自分にそう言い聞かせながら、正門をくぐった。
数日後の昼。学食でお気に入りのハヤシライスを注文し終えた時だった。
「それ、会計一緒で」
驚いて隣を見ると、先日の彼だった。
「ちょ、ちょっと!」
「ノートのお礼さ。……迷惑?」
「迷惑じゃない、けど」
「ついでに一緒に食おうよ」
「……でも」
「いいからいいから」
彼が笑った。
うまく説明できない感情を覚えながら、私は言われるがまま彼と同じテーブルについた。
「案外気があるんじゃないの?」
構内のカフェでお昼の事を話すと友達が言った。
「ただのお礼だよ」
「化粧っ気無いけど、綺麗な顔してるもんあんた」
「茶化さないで」
彼の事なんて、なんとも思ってない。でも……でも、じゃあなんで友達に話してるんだろう。
私は、汗をかいたグラスに残ったアイスティーを勢いよく飲み干した。
それからの私は、構内で自然と彼を探すようになった。見かけると身を隠して、目で追うだけだけど。
そして、彼が男女問わず友達が多い事がよくわかった。誰にでも明るく笑いかける彼を見て、思っていた通り、私とは住む世界が違う事を知った。
ある日、彼が女の子と二人で帰っているのを見かけた。私は慌てて隠れて、それをやり過ごした。
「……バカみたい」
自分が情けなくなった。彼の事が気になり始めていた事にか、何かを期待していた事にか、それすらもわからず、ただ、胸が苦しかった。
母さんが、自分の価値は自分で作りなさいと、昔からよく言っていた。だから私は勉強に打ち込んできた。皆が謳歌する青春は私に無関係なもの。わかっていた。わかっていた、はずなのに……。
「久しぶり」
校舎の裏に一人佇んでいると、突然彼が声をかけてきた。
「な、なんで……」
「なんでって、見かけたから。なんか最近、避けてない?」
「そんな事……。彼女、待たせちゃ悪いよ」
「彼女? ああ、サークル仲間さ」
「そう、なの」
「俺、なんか気に触る事したかな」
「ううん。なんにも」
「そっか……。なら、いいんだ」
そう言って踵を返す彼の表情は、どこか寂しそうに見えた。
「あ、あの!」
私は意を決して彼を呼び止めた。
「……うん?」
「あの時、なんで私にノート借りたの? 単なる気まぐれ?」
彼は少しだけ困ったような顔をしてから言った。
「笑わないでくれる?」
「うん」
「光に、見えたから」
「……え?」
「真剣にノートをとってる君の横顔がさ。……輝いてる光に見えたんだ」
鼓動が、速くなる。頭が、ぼうっと熱くなる。
光に? 暗くて無口で、誰にも興味を持たれないはずの、私が?
「また、ノート見せてくれる?」
彼は少し恥ずかしそうに言った。
私は今にもこぼれ落ちそうな涙を堪えながら、精一杯に強がって笑った。
「……時々、ご飯おごってくれるなら」
澄み渡るキャンパスの青空から、キラキラと眩い光が降り注いでいた。
—了—
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