海を見たくて
季節を彩る花々を、美しいと感じられなかった。私の魂が醜く汚れていくのがわかったから。誰かが語る明るい未来は、誰かの犠牲で成り立っていると知った。私の深い闇と痛みをこの世の誰も気に留めていないと思ったから。
不登校になってひと月が過ぎたある朝、父さんが無理矢理部屋から私を引きずり出して、何度もぶった。
どうして何も言わないんだ、なぜずっと部屋にこもったままなんだ、と。
だから、私は叫んだ。
「……いじめられてるの! ずっと、ずっと我慢してきたの。でも、もう無理なの! ぶつならもっとぶって。私を殺して! 父さん!」
父さんの、手が止まった。その表情には、大きな驚きと、激しい後悔が浮かんでいた。
母さんはすぐさま私を抱き寄せ、わんわん子供のように泣いた。私の方は、もうとっくに涙が枯れていた。
誰にいじめられてるのかとか、担任は知っているのかとか、父さんは沢山質問したが、私はそれ以上何も答えなかった。
「エリ。ユカちゃんが来てくれたわよ」
それからまたひと月が経ち、梅雨が明けた。電気もつけず、強い西日をカーテンで遮った部屋のドアの前で、昨夜も一睡もできなかった私に母さんが言った。
ユカは何度も連絡をくれていたけど、私はそれをシカトしていた。
「会いたくないって言って」
私は久しぶりに熱くなった目頭を押さえ込むように、震えた声で答えた。
「エリ。お願い。エリと、一緒に海を見たくて」
ユカはすでにドアの前にやってきていた。
「ごめん。帰って。ごめんね」
私は何かから逃げるように布団にくるまって言った。
「エリ! ユカちゃん、せっかく来てくれたのに……」
「いいんです、おばさん。また、来ますから。……エリ? ご飯、ちゃんと食べてね」
ユカはそう言い残すと、母さんに挨拶をしてうちを後にした。
静かになった部屋の中。私は、なんとはなしにスマホへ手を伸ばして、布団の中で写真フォルダを開いた。
中学の入学式まで遡る。画像をスワイプしていると、ユカと近所の海をバックに撮った笑顔のツーショット写真で手が止まった。
「ユカ……」
この時は、まさかあんな地獄のような日々が始まるだなんて思っていなかった。一年の半ばで目立つ派手なクラスメイトに目をつけられ、二年でまたその子と同じクラスになり、いじめは更にエスカレートした。
「いじめられる側にも原因がある」。どこかの誰かが言った言葉が蘇る。その人はきっと、いじめられた事がないことだけは確かだ、と私は思った。
その後も週に二度、三度とユカはうちにやって来たが、私はユカに会えなかった。
不登校の決定的な原因は、私を庇ったユカにいじめが飛び火したからだった。ユカはそうなる危険性を知っていながら、抵抗できない私を見かねて守ろうとしてくれたのだ。
それから、いじめの標的が私からユカに移った。私は胸が張り裂けそうになった。怖くて、怖くて、何もできなかった。自分に嫌気が差し、自分の弱さに愕然とし、私は学校へ行けなくなったのだ。そんな私に会いに来てくれるユカ。私には、合わせる顔が無かった。
そして、最後にユカが来てから二週間が過ぎた。
「エリ。ユカちゃんが」
いつものように真っ暗な部屋。カーテンの隙間に目をやると、外にも光が無い。ユカが来るのはいつも夕方だった。
……今、夜なの?
そう思った時だった。
「落ち着いて聞いてね、エリ」母さんは自分を落ち着かせるように一呼吸置いた。「ユカちゃん、先週から行方不明になってて……今朝、波止場で見つかったそうよ」
……え?
心臓が止まりそうになる。
私は布団を蹴り上げ飛び起きると、ドアに駆け寄って勢いよく開いた。
「母さん、波止場でって、ユカ、ユカ、まさか……」
母さんはしわくちゃな顔をしながら私を強く抱き寄せ、何度も何度も背中をさすった。
「エリ、大丈夫。大丈夫だから」
何が大丈夫なのかわからなかった。全身の血が瞬時に冷たく凍っていく。ブルブルと肩が震えだす。
「ユカ! うそ! そんな……。ユカ! ユカァァァァッ!」
優しかったユカ。強かったユカ。私を、守ってくれたユカ。
(エリと、一緒に海を見たくて)
ユカ。辛かったんだね。苦しかったんだね。きっと、弱虫の私なんかよりずっと。ごめん。ごめんね。
枯れていた涙が溢れ出す。動かなくなっていた心が、かつてない痛みと共に急激に息を吹き返す。
「ちょ、ちょっとエリ!」
私はショックで体が動かなくなる前にと、驚く母さんの制止を振り切って勢いよく家を飛び出した。
涙を拭い、潮風を全身に浴びながら月の下を駆け抜ける。
私は走った。
私は急いだ。
二人で写真を撮ったあの海辺へ行けば、ユカが、今もまだ私を待ってくれているような気がして。
—了—
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