あたためますか?

 昨日も残業、今日も残業、もちろん明日も残業。

 週末は次の出張に備えて資料を作らなければならない。

 社会人6年目。

 28歳にもなって結婚はおろか、彼女すら居ない。

 仕事が忙し過ぎて体力も気力も奪われ、誘いを断ってばかりの友人とは一年近く連絡を取っていない。

 一体、私はなんのために頑張っているんだろう。

 最近はもう本当に分からなくなっている。

 唯一の楽しみといえば、仕事帰りにコンビニで好きな晩飯を選ぶ瞬間だけ。

 もちろんそれだけでは飽きるので、飲食店やスーパーの惣菜を食べたい時だってある。

 だが当然のように終電近くになる帰り道、コンビニ以外に開いている店などほとんどない。


 腕時計を見ると、時刻は午後11時54分。

 今日もいつも通り、行きつけのコンビニに入店していたらしい。

 らしい、と表現したのは、もはやルーティン化した行動をいちいち意識するほど、身体にも心にも余裕がないからだ。

 疲れ過ぎて風呂に入ったか入っていないか、薬を飲んだか飲んでいないか。分からなくなったなんて経験あるだろう?

 私はまず、弁当が陳列されているコーナーを物色した。カレーに牛丼、うどん、グラタンにたこ焼きなんかもある。

 最近のコンビニは本当に品ぞろえが豊富だ。

 いつもなら数種から迷うところだが、どうもいまいち食欲をそそられない。

 どうやら今日は本当に疲労困憊らしい。

 唯一の楽しみまで、結局疲労に奪われてしまうとは。

 仕方なく冷蔵棚へ移動する。

 なにも口にせず寝るという選択の方が楽なのだが、以前にそれをやり過ぎて倒れたことがあるからな。

 私は棚から栄養ドリンクとゼリー飲料を1種類ずつ手に取ると、うつむいてため息を吐きながら足を進める。

 そしてレジに着くと商品を置き、決済アプリを開くためスマホを取り出し、ロック解除ナンバーを打ち込もうとした。

 すると、正面から


「あたためますか?」


 はつらつとした女性の声が聞こえた。

 店員が客に愛想良く挨拶をする。当たり前のことかもしれないが、やはり気持ちがいいものだ。

 とりあえず、あたためはお願いするとして。

 それと、袋の購入を伝えておかないといけない。

 店員によってはこれくらいの品数だと聞いてこないから、もう1度袋代の会計をやり直さなきゃいけなくなって互いに面倒だからな。


 って、あれ?

 ……ちょっと待てよ。

 

 私が買ったのって、栄養ドリンクとゼリー飲料だよな?

 あれか? もしかして私が忙殺されて時事に取り残されているうちに、温めるタイプのゼリー飲料が登場していたとか?

 でも、手に取ったのはたしかいつも飲んでいるものだったはず。

 店員が間違えて聞いてしまったのかと、スマホから顔を上げて、視線を正面に移す。


 そして、目の前のとんでもない光景に目を見開く。


 立っていたのは声から想像した若い女に違いなかった。

 ただし、信じられない風貌をしている。

 いや、風貌と表現していいのか。

 炎。

 女の髪から足先までを隙間なく真っ赤な炎が包みこんでおり、なぜ女がその状況で人型のシルエットを保てているのか分からない。


「熱っ!」


 思わず声が漏れた。

 女の存在を認知した瞬間、周囲の空気が一気に高熱を帯びたからだ。

 なんだこれ、どうしたらいい?

 とりあえず消火器か?

 コンビニの消火器って、一体どこにあるんだ?

 先に救急車を手配するべきなのかもしれない。

 ……というかこいつ、人間なのか?

 最後にそんな考えが浮かんだ刹那、炎の中に見える女の目と私の目が合う。

 それと同時に、こちらが"気付いたことに気付いた"女が舌打ちをする。

 

「ちっ! あと少しだったのに」


上昇し続ける熱気で、見えている景色がゆらゆらと歪み始めた。

それが一気に加速し視界が渦を巻いたかと思うと、炎の女は燃え尽きるように消えてしまった。



 ――なんだったんだ、今の。

 コンビニ内にいたはずの私の目前に今あるのは、シャッターが降りた貸テナント。

 白昼夢でも見せられたのか?

 しかしいつの間にか右手に握っていたらしい栄養ドリンクが、その可能性を否定する。


 じゃああの時もし、買おうとしたのがいつも通り弁当や惣菜だったら?

 店員の顔を見る前に、お願いしますと答えていたら?

 炎の女は実在し、おそらく選択肢次第で私はそれに害されるところだった。

 なんの妖怪や都市伝説なのかは知らないが、最悪殺されることも充分に有り得ただろう。

 自分の身に起きた事実を噛み砕いていくと、ある地点でどっと汗が滝のように噴き出した。

 続けて、歯や手足がすごい勢いでがたがたと震え出す。


 そんな私に呼応するように。笑うように。

 空のテナントのシャッターが風を受けて、カタカタと揺れた。


 はは、五体満足で生きている。

 運が良くて無事だった。

 死んだ方がマシだと思うくらいの毎日を、死んだように送っていたくせに。

 恐ろしい体験が、怪奇現象が、あの炎の女が。

 いや。それに殺されるのが怖かった。


 私は震える身体で持っていた栄養ドリンクの蓋を回すと、勢いよく喉へ流し込む。


「あ。これって代金支払ってないけど、犯罪になるのか?」


 独り言ちた私は明日、会社に辞表を出す事を決めた。

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