人間、消します

「もう、限界だ」


 アルコール度数の高い缶チューハイを煽りながら、そんな言葉が口からこぼれた。

 最愛の妻には離婚され、パワハラ上司によって職場での扱いはまるで腫物。あまりの辛さに縋った友人は、ついに今日約束した飲み屋へ現れなかった。


「なんだ、あれ?」


 絶望感に身をまかせて目的もなくふらふらしていると、私はいつの間にか繁華街を抜けており、薄暗い路地裏へ足を踏み入れていた。 

 前を走るネズミが清潔感を失くし、空き室ばかりのテナントが静寂を増している。

 ここら辺りには何度も来たことがあるけれど、こんな場所あったか?

 そして、あそこに佇む奇妙な屋台。赤い暖簾を掲げるシンプルなデザインのそれには、唯一明かりが付いていた。

 

「いらっしゃいませ」


 興味本位で少し近づいただけで、声をかけられた。足音で察知されたのだろうか、高くて細い女の声。反応して暖簾の方に目線を移すと、そこには小さく、


【人間、消します】


 という文字が描かれていた。

 怪しいうえに物騒だ。ましてやここは繁華街の裏通り、本当にやばい商売の可能性もある。

 しかし私は、いつの間にか引き寄せられるように暖簾を潜っていた。


「ふふ、ふ、どうぞおかけください。私はナツメと申します」


 木製の椅子へ着席を促したのは、声から想像した通りの若い女性。

 屋台に似つかわしくない着物のような衣装を着用しており、下手な笑い方と人形のようにぎこちない笑顔が印象的だ。


「えっと、ここはなんのお店なの?」


 ナツメが小綺麗だったので、私は冤罪の被害や美人局など、色々なパターンを予想した。


「はい。貴方を苦しめる人間を一人、消してさしあげます」


 しかしナツメは、至極真面目な顔でそう答えた。

 馬鹿馬鹿しい、ほぼ間違いなく与太話だ。ポッと入った路地裏でそんな商売がまかり通るほど、日本の治安は悪くない。

 ――だが。

 看板を見た時から、本当は少しだけ期待していたその言葉。

 人間を消す、それがもし本当だったら。ナツメの妙に浮世離れした妖艶な雰囲気が、有り得ない話にほんの少しの説得力を生じさせる。

 私はかすかに浮かんだ手汗を握りながら、話を続けた。


「本当にやってくれるのか? 料金はいくら?」

「ふふ、ふ、料金なんていりませんよ。ただし、一人だけ。消すのは一人だけです」


 そんな都合の良いことがあるものか。こんなのどう考えても裏があるに決まっているし、関わらないほうが良い。今すぐ屋台を飛び出して一目散に逃げるのが正解だと分かっている。

 だがそれでも、私の頭には咄嗟に3人の顔が浮かんだ。

 私を切り捨てた妻、私の居場所を奪った上司、私を裏切った友人。

 ……そうだ。どうせもうどうなってもいい人生じゃないか。

 私を絶望に追い込んだ人間を抹消してくれる可能性があるのなら、いまさら詐欺や犯罪に関わったところでどうということはない。

 このまま煮詰まってしまえば、行き着く先は自分の手を汚す事かもしれないのだから。

 ただ、全員を同じくらい恨んでいる私には一人へ絞るということだけが難しい。

 ――そうだ。それなら、他人に判断してもらおう。


「今から3人、消して欲しい人間の話をする。良かったら、その中からあんたが選んでくれないか?」

「ふふ、ふ。貴方の人生なのに、私が選んで、貴方を今後1番苦しめるであろう人を消してしまう。それでいいんですね?」


 なんだよ、トゲがある言い方だな。まぁでも、下手に刺激して断られてはたまらない。

 私はナツメに自分の人生を狂わせた3人の話をする。


 1人目は、離婚された元妻だ。

 5年も寄り添った仲だというのに、私のたった1度の不倫を許さず離婚を突きつけてきた。

 しかもその不倫は会社で経理を務める女の方から誘ってきたものなのに、いくらそれを説明しても聞く耳を持たず弁護士まで介入させる始末。

 結果、私は離婚され、女は会社を辞めてしまった。もう少し元妻に思いやりがあれば、誰も嫌な思いをしなくて済んだのに。


 2人目は、パワハラを繰り返す会社の上司。

 不倫の件を知ったこの男は事あるごとに私を叱責して、私の精神を蝕んだ。

 やれもっと責任感を持てだの、やれ倫理観を養えだのプライベートにまで容赦なく口を挟む。

 やってしまったことは取り返しがつかないが、罪と向き合い真っ当な人間に変わって欲しいと言ってきた時は、人格否定で労基に駆けこもうと思ったほどだ。

 

 3人目は、裏切者の友人。

 小学生からの仲で、幾度となく遊んでやったにも関わらず今回絶望している私に手を差し伸べなかった。

 たしかにまだ借りている金を返していなかったり、酔った勢いで嫁を口説いて怒らせたりした事もあったが、それとこれとは話が別だろう。

 親友が困っているのなら、迷わず手を差し伸べるべきに決まっている。

 

「……以上ですか? 貴方が消したいと思っている人間は」


 特に頷いたりすることもなく、黙って話を聞いていたナツメが口を開く。


「あぁ、そうだけど。それで、消すべきだと思う人間は決まったのか?」

「もう一度聞きます。私が選ぶのは、貴方を今後も一番苦しめるであろう人間で間違いありませんか?」

「だから、そうだと言っているだろう。さっさと頼むよ」

「分かりました。では、消しましょう」


 そう言うとナツメは、右手を伸ばし私の首を掴んだ。

 華奢な腕からは考えられないほどの怪力。喉を握り潰されるんじゃないかと思うほどの痛みと苦しさが、一直線に身体を伝う。

 抵抗は意味をなさず、75kgある私の身体は片手で容易く宙に持ち上げられた。


「ぐっ! やめろ、離せ! なにをするんだ!」


 締まる喉からなんとか声を絞り出す。


「なにって、貴方を今後も一番苦しめるであろう人間を消そうとしているんです」


 は? 何を言っているんだ?

 いや、一体なんなんだこいつは!?

 その質問に答えるかのようなタイミングで、ナツメの首がペキッと妙な音を立てて垂直に曲がった。およそ、有り得ない方向に。


「人間……じゃない」

「ふふ、ふ。貴方にそう言われるのは、少し癪です」 


 腕の力は一向に緩まない。

 痛い、苦しい、辛い。

 呼吸が上手く出来ず、頭の中が白くなり意識が保てない。

 駄目だ、狂ってる。なぜ俺がこんな目に遭わなければならないんだ。死ぬべきは、消えるべき人間はもっと沢山いるだろう!


 歪んでいく視界の中、最後に映ったのは【人間、消します】という看板の文字。

 そして、なぜかナツメの細く歪な笑い声だけが鮮明に聞こえた。


「ふふ、ふ」

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