行かないで
嫌だ。怖い。お願い、早く家に着いて。
なんで毎回こんな思いをしなきゃいけないの。
私はこの林道へ入る少し前から立ち漕ぎへ切り替え、全力でペダルを踏み抜いていた。
伝う汗はその疲労によるものなのか、不安による脂汗なのか分からない。
塾に通い始めてから一ヵ月が経過したが、この道への恐怖は慣れるどころか日に日に増していくばかり。
こんな田舎道だというのに電灯の類は一切なく、夜の闇が意気揚々と跋扈している。周囲に建物がないので、夏の生温い風が直接肌を蹂躙する。なぜかここら一帯を通過する時だけ、虫の声が聞こえない。
初めて通った時から、とにかく不気味で仕方ない。私が幽霊や妖怪なら間違いなく住処に選ぶだろう。
どうしてこの道を通らないと家に帰れないの?
どうして同じ道を通る友達がいないの?
どうして木曜日はお母さんが迎えに来られないの?
頭の中を疑問で満たし、考えを巡らせることにより少しでも恐怖を和らげようと試みる。
「行かないで」
全身が大きく脈打ち、びくんと跳ねる。
無理矢理動作させていた足が止まってしまい、よろめく自転車を支えるため思わず地面へ片足を着く。
聞こえた?
行かないで、って。
なにそれ、どこから誰がなんのために?
そもそも私以外この時間にここを人が通っているのなんて見たことないし、気配もしないけど。
でも、聞こえたよね?
いや、気のせいだよ。
気のせいだろう。そう思い込みたかった。
思い込むしかなかった。
自分の呼吸が五月蠅いほど荒い。足の震えが全身へ伝わり鳥肌が頭から爪先へ抜ける。
私は必死でそれらに抗い、なんとかペダルの上にある足へ力を込めた。
直後。
自転車は右へ大きく傾き、私の身体と共にガシャンと大きな音を響かせ転倒する。
「痛っ!」
ぐっ……。
下敷きになった右手が痺れる。捻った足が鈍く痛む。
でも、どうして?
おぼつかなくてバランスを崩した?
それともチェーンが外れた?
いや、違う。
音がしていないから。前者にしろ後者にしろ、ペダルが空回りする音がしなくちゃおかしい。
自転車の方を見た私の目へ、答え合わせ。
闇の中、青白く光る手首が切り口からだらだらと血を滴らせている。
それが、私の自転車のチェーン部分を掴んでいた。
「ねえ、行かないでよ」
言葉と共になにかがこちらへ転がってきている。
それが蛇のような鱗に鋭い歯を生やした、女の青白い頭部だと理解したところで、私は意識を失った。
「きゃああああ!」
目を開けると同時に、叫び声をあげた。
意識してじゃない。本能的に、おそらくそうしないと恐怖に身体が耐えられなかったからだ。
「こらこら藤咲、居眠りなんてしてたら月謝が勿体ないぞ。それと授業中に終わらなかった分は宿題だからな」
――え?
先生の一言で周囲を見渡してみると、馴染みの塾仲間達が私の方を見てくすくすと笑っている。
見慣れた黒板に、見慣れた問題集。
おそるおそる時計に目をやると、授業が終わる十分前。
……あぁ、そうなのか。
良かった。本当に。
宿題が増えようがかまわない。
この後どんなからかわれ方をしようがかまわない。
あれが夢であったなら、いつもは気にする事でも全て些細な事に思えた。
ただし、帰りはお父さんに電話しよう。
何時になってもいいから、迎えに来て欲しいって。
「ところで藤咲、どうして行かないでって言ってるのに行こうとしたんだ?」
私が目を見開くと同時に、部屋中の首が青白く光りぼとりと転げ落ちた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます