第17話 おおはしさや
小夜は食事、トイレを切っ掛けに、爆発的な成長を遂げる。まず集中力が付き、絵本の読み聞かせを最後まで楽しめるので、語彙がかなり増えた。粘土で立体的な物を作る事も出来る。絵だって俺らしき物体が描けていた。ただ『わんわー』は『わんわー』のまま。でも昔よりは一緒に行動する頻度が減った。ままごとセットのメシは貰っているようだが、小夜が床で遊んでいる間、わんわーだけベッドで寝かされている事も多い。
俺は「そろそろいいかなぁ」と思い、保育士にも相談して、以前に購入した『こどもステーションで習う国語・算数・英語~対象年齢:四歳から六歳~』をロッカーから取り出してみる。小夜はすぐに興味を持って飛びついてきた。
「これ、なぁに?」
「こっちのペンをな、こうやって持つんだ」
「うん」
「そうそう、上手いぞ――んで、モニタの電源を入れるっと……うわぁ!」
けっこう派手な音を立て『こどもステーションで習う国語・算数・英語』が起動する。小夜は画面に釘付けだ。やはり子供の興味を惹くように出来ているのだろう。
こどもステーションの国語は、『あいうえお』の読み書きや、『いぬ』『おひさま』など身近な単語の反復練習だった。算数は『1~10までの数字』の読み書き、あとは『1+1』などの足し算のみ。英語はアルファベットの大文字の読み書きだけで単語などは無し。そんな内容で思ったより普通だ。
この教材は正解すると派手に光って、白い天井に花火が上がる。逆に不正解だと、案内役を務める犬のキャラクターによる「ざんね~ん」というしょんぼりした声が響く作りだ。
小夜は花火よりも犬を気にして、かなり真面目に取り組んでいる。こっちの犬には『いぬはし』という名前を付け、可愛がった。
(ん? いぬはし……? 『おおはし』に近くねぇか?)
そういえば俺は、自分が健治と呼ばれたのを確認しただけだ。小夜がきちんと『おおはしさや』と言えるようになったのかは判っていない。保育士に確認すると「ぜひ確かめてみてください」などと言われた。
かなり気になった俺は、算数に夢中な小夜に話し掛ける。
「なぁ、お前の名前は何だ?」
「おおはしさや」
「うおっ……! マジかよ……! じゃあ俺が『小夜』って呼んでたの、きちんと解ってたんだな……!」
「うん。わたし、さや」
「じゃあ、じゃあ俺のことも解るか……!?」
「さいとうけんじ」
保育士によると、こうやって小夜が自覚したのは食事やトイレを切っ掛けにした発達の後らしい。ちくしょう、早く言えよ。 その日の面会後、俺が教会で号泣したのは言うまでもない。
しばらく経つと保育士が、俺に向かって嬉しい報告をしてくれた。もう小夜は保育士が面倒を見るレベルを超えたというのだ。つまり、小学校へ行く学力や生活能力を持っていると。俺は多大なる世話をしてくれた保育士に礼を言った。明日から保育士は来ない事になったので、至急この時代の小学校について調べねば。
俺は教会からの端末を弄ろうとして、ふと大きな問題に気づく。
(小学校に行くなら、退院しねぇとなぁ……?)
小夜は見る限り健康な感じだし、そろそろ平気じゃなかろうか。俺は診察室へ行き、医師に小夜を退院させて欲しいと申し出る。
それに対して医師の返答は最悪の部類だった。
「検査で小夜さんが叩き出す数値は悪いまま、これは幼少期の劣悪な環境が影響していて自然回復しません。更には、背が伸びるなど体格が良くなると内臓の負担が増え、様々な影響が考えられます。例えば透析が必要になったり、起き上がれないほどに衰弱したり、いきなり心臓が止まってしまう等々です」
「おいおい、冗談だろ?」
「残念ながら真実です。なので、身体への負担が高い小学校は諦めてください」
その言葉に俺は項垂れる。奥歯なんか噛み締めすぎて痛いほどだ。
そんな俺に医師は続けた。
「小夜さんがこのまま入院していても構いませんが、もう一つ選択肢があります。退院して通院に切り替え、比較的小夜さんの身体が小さいうちに負担が軽い旅行やレジャーなど楽しい思い出を作り――いよいよ具合が悪くなったら、入院のち手術へ移るという手です。内臓の代替品は埋め込み式が幾つかありますから、それが上手く働けばまた通院に切り替えられます。ですが、上手く働かない場合は諦めていただくしか……」
「諦める!? 諦めるって何だよ!?」
俺は立ち上がったのだが、医師はそのまま動かない。こんな修羅場は慣れているのだろう。
「ええと、その他にも問題はあります。脳だけは代替が不可能で、というか、小夜さんの場合、これ以上脳の萎縮が起こるなら認知症のような症状が出ます。物忘れなどが有名ですけれど、さらに酷くなると幻聴・幻覚・妄想などの統合失調症も現れ、人格変化が起こります。また、排泄が正しい場所でできないといった、人間が人間らしく生きるための行動ができなくなったりもします」
「さ、小夜はな、やっとトイレに行けるようになったんだ!」
「そうですね。しかし認知症が酷くなれば逆戻りです。これを治療する薬は今の所ありません。ただ、強力に進行を遅らせる薬がありまして、小夜さんは既にそれを飲んでいます。あとは――絵や読書を楽しんだり、幸せな思い出作りは薬以上に脳の萎縮防止効果があったりしますよ。なので、私としては、その療法プラス思い出作りという意味での退院なら良いんじゃないか? と考えますね」
呆然と診察室から出た俺は、小夜にどんな顔をして会えばいいか判らず、そのまま教会へ帰る。メシも食わずに勢いで不貞寝、それを二日くらい。でも三日目になったら頭がスッキリしていた。
ごちゃごちゃ考えたところで、小夜にとって一番良さそうなのはあちこちに連れて行って、ゆったり楽しませてやることだ。それが確実に出来るのは身体が小さい今だけであり、後は可能性に賭けるしかない。それらの事実から俺が逃げて、どうするというのだ。
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