第14話 わんわー
この、頑張って作る俺の笑顔から読み聞かせという流れは、ずっと続いた。俺の方が飽きてしまうので、ある程度読み聞かせたら他の本にしていく。でもお気に入りと思われる物は毎回必ず読んでやった。小夜の場合は『スネークとダンボール』がそれに該当する。
そんなある日のこと。俺にとって待ちに待った瞬間が訪れた。ついに小夜の拘束が解かれ、カプセルからも出られたのだ。
前日まで何の通告も無く、病室に入ったらいきなりその状態。小夜は普通のベッドの上で俺を出迎え、ぎこちなく笑っている。いつも俺が笑顔を見せてから読み聞かせをしていたので、この機会に真似を始めたらしい。今まで無表情だった小夜なので驚くべき変化だが、二百年前は営業職で、お仕事スマイルが板に付いていた女なので微妙な気分だ。
(……いやいや、こいつは二十四の小夜じゃねぇんだ。見ろよ、あんなに悲惨だったガキが、ヘタクソだけどちゃんと笑ってやがる……すっげぇ撫でてやりたいが我慢しねぇと)
俺は小夜に笑顔を返し『今お前はこんな風な表情をしているぞ』と教えてやる。小夜は練習しているようだったので、しばらくすればもっと上手に笑えるはずだ。
俺はニタニタしている小夜へ、クレヨンを出してみた。すっかり忘れてしまったかと心配したのだが、そうでもない。むしろ待ちわびていたように黙々と描いている。内容は俺の赤丸ほっぺ。まったく前回の続きだ。
小夜に「上手いなー」なんて声を掛けると、描けば俺が喜ぶのを知ったのか張り切っている。画用紙一杯に赤丸を描き、わざわざ俺の目の前に突き出して見せてくるようにもなった。俺はもちろん褒めてやる。小夜は調子に乗って、他の色も使い始めた。つまり、青や黄色のほっぺが量産される。
この発達は育児書から得た情報によれば三歳程度の内容だ。
(すげぇ進歩だが……でも描くモンは俺のほっぺだけなんだよな……花は茎しか興味ねぇし、こいつには簡単な線の絵本なんかを見せてやるといいかもしれねー)
育児書と小夜関係の小難しい書籍、読み聞かせ用の本ばかり並ぶ端末を見ると、絵本もダウンロード出来るようになっている。俺は幾つかシンプルな線の絵本を用意し、小夜に見せてみた。小夜は絵を指でなぞっている。その中に茶色い犬のキャラクターがあったので「そういえば」とロッカーから同じく茶色い犬の縫いぐるみを出し小夜に与えた。
「おい、絵本と同じ犬だぞー、い・ぬ」
「いーうー?」
「惜しいな。い・ぬ」
「い、う?」
小夜に『いぬ』という発音は難しいらしい。俺は諦めかけたが、育児書にちょっとした内容として記載されていた物を思い出す。
(そうだ! 幼児向けにはもっとこう、言いやすい単語があった!)
俺は念のため育児書を見る。よし、間違いない。
「ええと、犬は『わんわん』だ。そういや聞いたことあるな、通りすがりのチビ助がわんわんって言ってるの」
「わんわ?」
「わ・ん・わ・ん」
「わんわー!」
小夜はそう言いながら、ぎゅーっと縫いぐるみを抱いた。今まで「うー」「あー」しか言わなかったので感動もひとしおだ。
「……まぁいいか。よし、こいつの名前はわんわーだ」
「わんわー!」
「大事にしろよ」
それから小夜はどこに行くにもわんわーと一緒になる。絵も丸いほっぺから進化、わんわーらしきものを描くから、茶色のクレヨンばかり減った。俺は他にも興味が行けばなぁと思い色々な絵本も見せるが、わんわーしか描かない。
その頃になると小夜は発達が遅れているだけの、至って普通な子供に見えた。相変わらずオムツなので「トイレの練習でもしたらいいんじゃないか」と思うが、よくよく考えたら未だ歩けなくて、ベッドの上に居るだけなので無理だ。
(せめて床におまるを置いて、という程度にしてやらないとなぁ……)
俺が自分に掴まらせ、歩く練習でもと思うが、これは『不用意な接触』になってしまう気がする。なので俺はわんわーの縫いぐるみを掴み、それで誘ってベッドの上に立たせてみた。小夜は数歩でぺたりと座り込み、前途多難だ。これは毎日ちょっとずつやろう。俺にわんわーを取り上げられ、半べそをかいている事だし。
(ったく、小夜はわんわーにしか興味が出ないな……縫いぐるみといい、絵といい……)
俺は小夜があまりにもわんわーばかりなので心配になり「そういえば」と積み木を出す。こちらの方はひょいひょい積んでいき、いつぞやは持てなかった一番大きな積み木も余裕だ。もうちょっと早く出してやればよかった。玩具を使わせる順番など俺にはよく判らない。
小夜は割と積み木を楽しんだ。不安定なベッドの上だと積みにくいと気づいたりして、ベッドに付属した食事用のテーブルを使ったりもする。
(マジかよ……すげぇな。またやれる事が増えた……!)
俺が小夜の工夫振りに驚いていると、小夜が手持ちの積み木を一列に全部積む。形を作るという考えこそ出ないが、高さは申し分ない。
そこに昼メシがやって来る。何を思ったのか、小夜はわんわーの口に自分のメシを突っ込もうとした。俺としては、わんわーにメシを食わせたい小夜の気持ちは理解できるし、それも素晴らしい発達なので阻害したくない。しかし大好きなわんわーが洗濯行きになったら悲しむと考え、とりあえす止めさせて「うーん」と考えた。五分くらいは難しい顔をしていたと思うが、そういえばママゴトセットがあったと思い出す。
俺はいそいそとママゴトセットを出した。それには食い物がたくさん用意されている。
「いいか? これがわんわーのメシだ。わんわーはコレしか食えねぇ」
「わんわー、めし?」
「すげぇ、二語文ってやつだ……二歳半から三歳くらいで出るって知識を俺は仕入れてんだぞ、この野郎……!」
小夜をぐりぐりと撫でたかったが、それは自重。ひたすら言葉で褒め、わんわーのメシの支度をしてやる。小夜も理解してくれたようで、自分のメシとわんわーのメシは区別していた。
「やったなー、小夜。ここまで来たか!」
「さ……?」
「あっ、やべ! うっかりしてたぞ!」
そういえば俺はこいつの名前を覚えさせていない。看護師や担当医も、その辺が抜け落ちているようだ。俺は小夜にメシを食わせてから、小夜の胸の辺りを指差す。
「いいか、お前は、おおはしさや」
「おーや」
「ああ、いや……お・お・は・し」
「おーし」
「じゃあ……さ・や」
「さー」
このパターンは『わんわん』が『わんわー』になった流れを踏襲している。つまり『おーや』と『おーし』『さー』のどれかを取るべきだ。俺は『おーや』は大家みたいだし、『おーし』は掛け声みたいたしで『さー』を選ぶ。
俺はついでにと思い、こっちの名前も覚えさせることにした。小夜がこちらを注視している時を見計らい、自分の胸をトントンと叩く。
「俺は健治。健治ってんだ。よろしくな」
「けっじ!」
「け・ん・じ」
「けーじー」
「ああ、もう取り敢えずそれでいいわ……『けーじー』な。そう認識してくれただけで俺は嬉しいぜ」
小夜の舌足らずに対しては、俺もしっかり学習していた。いつか全ての言葉を、きちんと口に出せるようになってくれればいいのだが。
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