第9話 黒

 翌日、俺は小夜の病室へ入った。カプセルでの治療が重要なので、直接の面会は一日につき一時間までと決められている。

 看護師がカプセルを開けると、医者の言う通り少しふっくらした小夜が出迎えてくれた。小夜は俺の事を覚えているようで、無表情だが盛んに「あー、あー」と言っている。その時に俺を指さしたから、生後九ヶ月くらいの発達はあるようだ。確か育児書にそういう記載があったような気がする。

 そんな小夜に俺は積み木を勧めてみた。俺が手本を見せ一つだけ積むと、小夜はガクガクした手で一番大きな積み木を掴む。

(重たいのか? いや、握力が足りねぇ可能性も……もっと軽くて細い積み木にすりゃあ良かった)

 反省した俺は、サッと積み木その他を小夜のロッカーに片付ける。でもクレヨンと画用紙は残した。このクレヨンは積み木ほどの重さが無いので、小夜の弱った腕や手のひらでも大丈夫なはずだ。

 俺が小夜の傍にクレヨンの箱を置くと、小夜は真っ先に黒いクレヨンを掴む。そのままぱくっと食べようとするから慌てて止めさせた。

「これは食い物じゃねぇよ、こうやって使うんだ」

 俺は黒いクレヨンを小夜の手ごと専用の画用紙に持って行き、すうっと横線を引く。小夜はそれを真似て、のたくったミミズを量産した。これだけで俺は感激だ。『クレヨンは食い物じゃなくて画材』と覚え、『真似する』行為をしたのだから。

「なぁ小夜、楽しいな!」

「うー」

 小夜は無表情のまま「うー」「あー」しか言わないけれど、ずっと描いているから夢中なのが判った。小夜は飽きずに同じ色――黒を使い、一枚の紙を埋め尽くしている。俺には早くも「他の色も使ってくれたらいいなぁ」などの欲が出てしまった。黒だけじゃなくて、例えば四季折々の花の色、樹木の葉や草の緑、空や海の青なんかはどうだろう。

 そこで俺はハッと気づく。

 小夜がいつからあの小屋に閉じ込められていたのかは知らないが、今も小夜の世界は黒一色なんじゃなかろうか。試しに俺の紅い頬を指差しクレヨンの箱を見せてみると、首を傾げて黒いミミズの作成に戻っていく。この事から、小夜は現在の環境で得た色を、目に映すだけで認識していないという嫌な可能性に突き当たった。

(今度の見舞いには花を買ってきてやろう……なるべく自然な沢山の色を見せてやりてぇ)

 そう考えていた辺りで看護師が現れ、一時間が来たのだと知る。あっという間だ。小夜は看護師によりクレヨンと画用紙を取り上げられ、手際良くカプセルに仕舞われた。俺は看護師に「クレヨンと画用紙を残しておけ」と言ったのだが、医者から何も聞いていないと断られる。あとで苦情を入れねば。その一方、小夜はトントンとカプセルを叩き、寂しそうな様子で俺を見つめていた。

「なぁに気にすんな。カプセルが閉まっても、お前さんが寝ちまうまでは居るからよ」

 どかっと椅子に座った俺に、看護師が「明日は小夜の手術日」だと教えてくれる。局所麻酔で済む簡単な物なので、俺に対し医者からの報告は無い。それが却って俺を安心させた。

 手術は経過を見ながら二回行われる予定で、まずはケツの穴から。次はケツの床ずれ。たったの二回で小夜の酷いケツが治ってくれるのだから嬉しい。


 その翌日、小夜はケツの穴の手術に向かった。簡単とはいえ何時間も掛かるのかなと思っていたら、その辺は医療の進歩で一時間足らず。ただまぁ回復にはそれなりの時間が掛かるらしく、小夜には苦しい日々が待っている。

 術後、俺は病室の小夜に付き添っていたのだが、陰部に刺激を受けたと感じたらしい小夜は、カプセルの中で股を開いていた。悲しい反射行動だ。俺は小夜のカプセルをコンコンと叩く。

「もう止めとけ、痛い思いをしなくてもメシは食えんだぞ」

「うー……」

 小夜が細い手足でもだもだと暴れる。そこへ看護師が来て、小夜を安静にさせておくよう怒られた。術後の付き添いも小夜には不要だそうで、次の面会は三日後くらいと設定される。せっかく毎日見舞うと決めた俺にこの仕打ちは酷いが、俺が治療の邪魔というなら従うしかないのだ。

「じゃーまたな、小夜」

「あうあうー……」

 小夜は寂しそうだ。「ケツが痛くて不安なんだろうな」と思えば俺の心が悲鳴を上げる。

(次は三日後か、なげえなぁ……)

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