命懸け

 グレアがターゲットにしたのは連斗だった。

 傍観者として二人の戦いを静観することしかできない無害な貧弱者ひんじゃくものに向けられる本物の殺意。一瞬何が起こったのか理解できなかった連斗だが、すぐに己は殺人鬼に魅入られた被害者なのだと知る。


 茶目っ気たっぷりの指鉄砲から生まれる透明な銃弾が、どれだけ凶暴でトチ狂った威力であるかは嫌という程目撃している。怪物を破裂させる性能なら脆弱な連斗が喰らえば肉体はおろか骨も残らないだろう。


 それが、いままさに、連斗へ向けて発射されたのだ。


 背筋に悪寒が走る。

 おぞましい気配に本能が臆し、生命の危機を悟る。


 やばい――死ぬ!?


 そう判断しても連斗は足が竦み咄嗟には動けない。まさに蛇に睨まれた蛙だ。

 なまじ眺めているだけで終わると高を括っていた恐怖に晒され、初めて怪物と相対したような感覚が呼び起こされる。


 忘れかけていた諦観。

 心を黒く塗り潰す絶望。


 全て今日、身体に沁みつかせ学ばされたというのに……。


 いつから勘違いしていたのだろう。

 自分が安全圏にいるなどと。

 彼女にとって連斗を殺すなど造作もないことだ。

 油断すれば死ぬ。

 そんな当たり前のことさえ見落としていた己の愚鈍さを後悔する。


 緊張で喉が渇く。

 どくん、どくん、と心臓が跳ねる。


 ――死ぬ? これで死ぬのか……嫌だ、こんなところで死にたくない! 


 自らの過信が招いた結果だというのに、生へと縋る心の弱さが露呈ろていする。

 だが、願うだけで身体は硬直し避けるというコマンドを実行できない。


 あと何秒自分は生きていられるのだろうか。

 透明であるが故に、いつ弾丸が身を穿つかも分からない。

 抵抗は無駄。グレアが動作を完了してから数秒は経過している。回避のタイミングはとっくに見逃しており、どう足掻いても間に合わない。


 着実に〝死〟という概念は迫っているというのに、いつ死ぬか判断できないせいで走馬灯すら連斗は見えなかった。


 そして――連斗の眼前でそれは炸裂する。


 ……ズバンッ!?


 鼓膜を割るような破裂音が響き渡り、連斗は反射的に目を瞑る。

 グレアの弾丸が命中したらしい。

 何度か聞いたため耳が記憶している。否、いままでと比べても遥かに大きな衝撃音だ。グレアが意図的に威力を上げたのか、どちらにせよまともに喰らって生き延びる道はない。


 死んだ……グレアに殺されたんだ。


 無意識のうちに〝死んだ〟と結果を解釈する連斗だったが、それには違和感があった。


 痛みが、ない。

 確実に撃たれたはずなのに、いつまで経っても不自然なくらい痛みが襲ってこないのだ。

 あまりの肉体損傷に感覚が麻痺したのか。死ぬ間際は、脳内麻薬が分泌され最高の快楽が味わえるというネットかどこかで齧った知識がよぎる。が、そもそも脳内麻薬という線が間違いで、連斗の身体は至って正常だった。


 感覚器官はまともに機能しており、脱力感こそあれど自分で自分を支えられている。

 頭も腕も足も胴体とはしっかり接続され、木端微塵に吹き飛ばされた形跡もない。

 即ち連斗はまだ生きているのだ。


 それは何故か。

 グレアの殺気は容赦なく連斗を殺そうとしていた。嬉々として人を殺すような奴が情けをかけるとは到底思えない。

 ならどうして自分は生きているのか。

 その理由を探るためにも連斗は、恐る恐る閉じていた目を開いてみる。闇が明け、連斗の視界には暗黒色の床とそこに滴る赤い滲みが最初に映った。


 ――ピチッ、ピチッ。


 現在進行形で赤い雫は垂れ、斑紋を広げている。

 赤い雫の正体は、血液だ。

 怪我をした感触がなく、自分のものではないと判断する連斗。


 では、一体誰の血なのか!?

 訝しみながら連斗は視線を上げる。


 そこには――


「だい、じょうぶ……ですか? お怪我は、ありませんか?」


 滑らかな肩を上下に小刻みに揺らし、荒い呼吸を繰り返す細身な背中があった。

 途絶え途絶えな弱々しい声とボロボロに裂かれた制服。全身の至る箇所に裂傷や打撲を作り、血を地面に滴らせていた。

 そんな見るからに傷だらけな人物は、連斗を守るようにグレアとの直線ラインに割って立っている。


「東雲さん……どうして?」


 誰によって助けられたのかすぐに看過した連斗は、茫然と彼女の名前を呼ぶ。

 優莉が佇むその位置はちょうど数瞬前にグレアの技が爆ぜた場所である。どうして連斗が無事だったのか。その疑問の答えが、目の前にあった。


「言ったはずです。あなたは……私の命に、代えても、まも――」


 言葉の途中で、優莉はガクッと崩れその場に膝をつく。同時に両手から力が抜け、握られていた銃と刀も落としてしまう。怪物に腕を噛み砕かれても離さなかった武器を手放すとは、相当なダメージ量らしい。

 当然だ。優莉は不意打ちでグレアの弾丸を一発貰い、既に重症を負っている。他者を庇う余裕なんて最初からない。それなのに無理をして、重態を盾に連斗を救ったのだから肉体的には限界のはずだ。


 優莉の技術なら刀で凌いだという可能性もあったが、傷の具合からして身を挺して弾丸を受け止めたに違いない。グレアが撃った時、連斗との距離はそれなりに開いていたため駆けつけてから防御体勢を取る猶予がなかったのだろう。


 なんにせよ優莉はもう戦える状態じゃない。

 せめて肩を貸すくらいの助けはできるだろうと連斗が近寄ると、不意に前方から拍手が打たれる。


 誰の仕業かは予想はついているが、一応目線をやる。

 想像通り、そこにはグレアがいた。ひょいっと身軽な足捌きで下駄箱の山から降りると力尽きた優莉を俯瞰ふかんして、ニヤケ面を晒す。目論見通りに事が運んだとばかりのリアクションだ。


「さっすが正義のヒーロー。期待は外さないね。そこに棒立ちだった彼の命が危ぶまれれば真っ先に助けに来るって信じてたよ!」


 連斗を殺そうとしたのはブラフであって、本命はしぶとく粘る優莉を着実に追い詰めること。そのための謀略だが、グレアにしてみればどう転ぼうと不利益はない。仮に優莉が見捨てる選択をしても虫けらが一匹死ぬだけで、盤石な布陣は覆らないのだから……。


「まっ、守るべき人を目の前で殺される無力感に苛まれる姿を見るのも一興だったから、私的にはどっちでも良かったんだけどね」


 グレアの不謹慎な発言に連斗はゾッとした。

 彼女の企てた策略の裏には、アリでも殺すような感覚で人を殺す残虐性しかない。連斗の生死はおまけで、囮や人質としての利用価値も抱いていなかった。


「き、さまぁ! がっ、げほっ、がほっ!!」


 狂った倫理観でものを語るグレアに優莉は怒りで歯をガチガチと震わせ立ち上がろうとするが、咽込み血を吐く。


「その様子だと内臓まで損傷してるんじゃない? そんな傷で私の手から彼を守れるの?」


「……その点に関しては心配には及びません――既に手は打ってあります」


 言って、優莉は連斗の足元を見る。釣られてグレアも彼女の目線を追うと、ほぅと関心したように声を上げた。

 

「何だこれ、御札?」


 目を瞑っている際に貼ったのだろうか。いつの間にか連斗が立つちょうど真下には解読不能な文字と幾何学的な紋様が施された御札があった。

 たまたま落ちていたわけではなく、明らかに人為的に設置されたそれをどうすべきか迷っていると優莉が不意に振り向き微笑む。


「安心してください。あなたは私が守りますから」


 もう何度も聞いた優莉の台詞。血だらけでボロボロの姿になりながらも一片の揺らぎない彼女の決意に連斗は感銘を受ける。

 同時に守られているだけのもどかしさと自己犠牲も厭わず信念を貫かんとする優莉の危うさを察してしまう。


 ここで死のうが、誰かさえ守れればそれでいい。

 悲壮な覚悟を優莉の瞳に見た連斗は、殆ど無意識でか細い背中に手を伸ばす。

 止めなければ、彼女は無謀を繰り返す。そう直感した連斗の視界でカッと眩い閃光が弾けた。


「なっ!?」


 予想だにしなかった光に目を覆う連斗。世界が白く塗り潰される直前、足元にあった御札から眩い光が漏れ出したのを見た。


「……っう! 何だよいまの光は?」


 光はほんの数十秒で収まった。

 ぼやきつつ連斗は網膜を焼かれぬよう固く閉ざしていた瞳を恐る恐る開く。すぐには視力は回復せず、手探りで状況を把握すべく右手を突き出すが、その道中でカツンと硬い何かが掌に触れる。


 優莉に届いた? 否――人間の感触ではなかった。コンクリートブロックのように硬く滑らかな触り心地。例えるならそれは壁で、こんなものが目の前にあったかと連斗が疑問を募らせている間に、徐々に視界が晴れてくる。


 やがて白一色だった世界に色が戻り、連斗は自分が触れていたものの正体を目にする。


「どうなってんだ、これ!?」


 半透明な壁だった。ほんの僅かな色を帯び、殆どが景色と同化した不可視な壁に連斗は四方を囲まれている。


「大丈夫です。それは私の用意した結界です」


 動揺する連斗に優莉が告げる。結界という言葉を証明するように連斗の足元には御札に描いてあったのと同じ紋様がサークル状に広がっており、そこを中心に不可視な壁は展開していた。


「そこにいる限り敵の攻撃はあなたに届きません」


「へぇ、それは凄いね」


 優莉が結界の防御性を自負し、グレアが興味を示す。


「面白そうだから試してみよっか!」


 すかさずグレアが指鉄砲を作り、バンッと可愛らしい掛け声を放つ。

 期せずして二度目の弾丸が連斗に迫る。結界内に閉じ込められ、当然逃げ場がない。結界といっても怪物を破壊するグレアの攻撃を本当に凌げるのか、優莉を信頼しきれず咄嗟に目を瞑る。


 バチンッ、とグレアの弾丸が障壁と激突し火花を散らしたのは、それから数瞬後の出来事だった。

 グレアの弾丸は透明なため視覚的には判断できなかったが、障壁の一箇所が何かとぶつかり弾こうとスパークしていることから攻撃を阻止していることが分かる。


 結局、弾丸は連斗に到達する前に威力を失い不発に終わる。結界の防御力がグレアの攻撃に勝ったのだ。

 優莉の言う通り、ここにいる限り安全であることが証明される。


「ありゃ、思った以上に硬い結界だな。でも、そんな大層な結界を作ってあなたの方は大丈夫なの? かなり霊力をその結界につぎ込んだんじゃない?」


「……ぐっ、はぁ、はぁ」


 グレアの指摘は正しく、結界を生み出した本人である優莉は相当な負担を抱えており、両手を床につけ起き上がれずにいた。

 あからさまに体調へ異常をきたし、青ざめた顔で過呼吸のような切迫した呼吸を繰り返す。


「東雲さん、大丈夫ですか! 東雲さんッ!?」


 慌てて優莉に駆け寄ろうとして連斗は結界に行く手を阻まれる。グレアの一撃を防ぐ堅牢な障壁は、連斗にとって檻に等しい。絶対的な安全を保証する代わりに行動を制限された連斗は、傷つき動けない優莉に手を差し伸べられないもどかしさに歯嚙みする。


「はぁ……はぁ……ご忠告ありがとうございます。ですが、生憎あなたを仕留めるくらいの霊力は残してありますので安心してください」


 素人からしても限界だと分かる状態なのに、優莉は尚も弱音は吐かずグレアの心配を悪態で跳ね退ける。


 優莉はまだ折れてはなかった。グレアの挑発を煽り返すと落ちた銃を拾おうと右手を伸ばす。

 が、その手が柄を掴む瞬間、不自然に捻じ曲がる。

 まるで鎖にでも繋がれたように優莉の右手が意図した方とは逆に引っ張られる。


「ぐっ、あぁ!」


 突然の出来事に優莉は苦悶の悲鳴を上げる。手首を脈ごと縛られているのか指先から真っ青に変色していく。

 これもグレアの仕業か、と連斗が正面を睥睨へいげいする。


「つ~かまえた!」


 グレアは藻掻く優莉の姿を眺めながら舌舐めずりをし、恍惚とした表情を浮かべている。

 疑う余地もなく彼女が関与していると確信した連斗。どうにかして優莉を助けなくてはと考えつつも結界内にいる限り何もできなかった。


(なんだよ、これ……透明な何かで東雲さんを引っ張ってるのか!? くそっ、ここにいちゃ助けられない――)


 そうやって連斗が手をこまねいている間にも優莉の腕はどんどんと伸ばされる。段々と冷たくなっていく指を折り、腕ごと引っ張り返して必死に抵抗する優莉だったが、狼に噛まれ元々重傷な状態では簡単に力負けしてしまう。

 やがて踏ん張り切れなくなった優莉は、何かに引かれるまま空中に浮かび、宙吊りにされる。


「っう、ぐっ、あぁ、ああぁぁ!!」


 足をバタつかせ未だ抵抗を続ける優莉。しかし、空中をいくら蹴ったところで謎の外力から逃れられない。

 いつの間に左手まで拘束された優莉は、地面に足が届かない絶妙な高さで宿敵であるグレアの元まで運ばれる。


「こんにちは。やっときちんとお話できるね」


 縛り上げられたような格好で空中に固定された優莉は否応なしにグレアと対面させられる。

 一体グレアはどんなトリックを使って優莉を捕らえたのだろうか。

 透明な弾丸を放つくらいだから念動力のような能力を有していても不思議ではない。しかし、連斗の誇大な妄想に反してグレアが用いた手段はシンプルなものだった。


 ぎょろり。捕まった優莉を凝視していると不気味に突出した眼球と目が合う。

 それはちょうどグレアの真後ろに控えていた。


「それでどう、私の罠に掛かった感想は? 実は最初に守護獣を召喚した時にこの子も一緒に呼び出してチャンスが来るまで待機させていたんだ!」


 嬉々として戦略を披露するグレアに応じて、ぎょろぎょろと動いていた眼球がその実態を現す。

 スゥとグレアの後ろにあった景色が漆黒を帯びる。擬態というやつだろう。風景との同化を段々と解除していくと、そこには凹凸のある鱗と四足歩行の外郭が映る。


 優莉を捕らえていたものの正体はカメレオンだった。狼やカラス同様現実離れした巨体を誇り、長い舌を駆使して優莉の両手を塞ぎ宙吊りにしている。


「それで、どう? 見事に私の罠に掛かった感想は?」


「……最初に言ったはずです。あなたと話すつもりはない、と」


 窮地に追い込まれているはずの優莉は、冷徹に無表情を貫き、彼女の質問を撥ねつける。


「もうっ、連れないんだからぁ。でも、そんな顔が苦痛に歪む瞬間も見てみたいかなぁ」


 グレアが不穏な発言を漏らす。

 かといって早々には殺さず、大胆に破けた制服から露出する痣だらけの優莉の腹部をグレアは軽く指先でなぞる。


「うわっ、それにしても間近で見るとすっごい痛そう……よく泣かなかったね、えらいえらい」


 子供でもあやすような柔和な笑顔で、前置きも脅迫もなしで唐突に。グレアは触れていた優莉の傷跡にブスリと親指をねじ込ませた。


「あぐっ、っう、あぁ!」


 グレアの親指が皮膚を潰し、ぐりぐりと肉を抉る度、優莉は目を大きく見開き口から苦悶の声を発する。例え指一本分の太さといえ、腹の肉を掻き混ぜられるなど常人には到底理解の及ばない激痛だろう。それを優莉は発狂せずに耐えている。


 数秒かけてじっくりと肉を混ぜたところで、ズボッとグレアが親指を引き抜く。彼女の指にはベッタリと赤黒い血が付着している。

 グレアは何の躊躇もなく血を舌で舐め取りながら満足そうに表情を綻ばせる。


「良かったぁ。ちゃんと痛がってくれて。でも凄い精神力だね、こんなに喰い込ませているのに悲鳴を上げないなんて……もっと虐めたくなっちゃうよ」


 ついさっき抉った箇所に、今度は例の指鉄砲が向けられる。


「おいっ、やめっ――」


 凄惨な状況へ絶句し、愕然とする連斗の目の前で、グレアは引き金を引く。


「バンッ!」


 拘束状態からのゼロ距離射撃。しん、と一瞬の静寂を挟み優莉の腹部から鮮血が噴き出した。


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