地獄
異変が起きてから僅か数分。
蛍光灯の明かりはあるのに、薄暗く陰鬱とした雰囲気が漂っている校舎の階段を駆け上がり、連斗は自身の教室がある二階へ急いでいた。
漆黒のヴェールを目撃してしまったのが原因か、さっきから妙な胸騒ぎがしてならない。最悪の事態が起こりそうな漠然とした不安が脳髄を満たす。一刻も早く他生徒や透也と合流したい気持ちを逸らせ、一息で連斗が階段を登り切ったその矢先。
――ズルッ、と連斗は階段の踊り場から教室に続く廊下を曲がろうとして液体のようなものに足を滑らせた。
「がっ!?」
焦っていたため咄嗟に崩れる身体を体幹で支えられず、大胆に転んでしまう。
「いっつ~誰だよこんなところに水を撒いたのは……」
非常事態だというのに腹立たしい。連斗は打ちつけズキズキと痛む身体を労りながら起き上がろうとして、ある疑問を覚えた。
床についた右手に触れる感触。水にしてはやけに生暖かく粘性を持って手に絡みついてくる。不思議に思い、立ったついでに床に視線を注ぐとそこにはドロドロとした赤黒い液体が床一面に広がっていた。
……血だ。バケツでもひっくり返したような夥しい量の血液が踊り場で池を作っている。遅れて連斗は右手を確かめると、当然の如くベッタリと血が付着していた。
「う、わああああぁぁぁぁッ!?」
驚愕のあまり腰を抜かす連斗。慌てて自身の身体を触り、外傷がないか確認する。ワイシャツにズボンに顔と至るところが血で汚れてはいたが、出血箇所はない。ならばこの大量の血液の正体は一体……。
「はぁ……はぁ……はぁ……」
生々しくグロテスクな光景に戦慄し、連斗はバクバクと加速する心臓を必死に押さえる。ひたすらに肩を上下させ、浅い呼吸を何度も繰り返す。その度に鉄の臭いが鼻を突き猛烈な吐き気に見舞われる。
「うっ……」
中途半端に食べていた弁当が逆流しそうになり連斗は急いで呑み込む。胃液の混ざった酸っぱい味が喉を通過する。
(血、血だよな。なんでこんなところに血が――!?)
不快感に顔を歪めながらこの事態をようやく反芻した連斗は、混乱気味に視線を動かす。
そしてこの血溜まりは、本物の地獄の前座だと知る。
開かれた教室棟の廊下。そこには普段の平穏な景色が跡形もなく消えていた。
「…………あ、あぁ」
本物の地獄とはひたすらに赤かった。床や壁、天井に至るまで血痕で埋め尽くされている。まるで精神に異常をきたした画家が赤い絵の具で出鱈目に描いたような風景。見ているだけで狂気に侵されそうな光景に連斗は思考が麻痺してくる。さらに悍ましいことに、血痕の先には幾つもの肉片や腕や足といった人間の身体のパーツが無造作に散乱しており、より一層醜悪さに拍車をかける。
衝撃のあまり連斗は言葉を失ってしまう。
これだけで充分恐怖は足りているというのに、連斗の視線はそれ以上の存在を捉えていた。
鮮血に濡れた廊下の奥に映る巨大な陰。薄暗い景色に自然と溶け込む漆黒の塊は、物々しい気配を漂わせながら堂々鎮座している。
――獣だった。
僅かな光をも呑み込むどす黒い体毛に強靭に発達した四肢。剥き出しの犬歯と細長の頭部に生えた二対の耳。
特徴的には生物学でいう〝狼〟と酷似しているが、明らかに現実離れした要素が二つある。
一つは、目測でも三メートルは裕に超える
(なんだよあれ! ば、化け物ッ!?)
生物の常識から逸脱した姿はまさに怪物。遠巻きからでもはっきりと断定できる程異質で凶悪なビジュアルの狼は、少なくとも四体確認できた。
漫画やアニメの世界から飛び出してきたような怪物は、現実の学校を徘徊しては床に落ちた人間の腕や足を豪快に貪り喰っている。
はぐ、くちゃくちゃ。
はぐ、ぐちゃぐちゃ。
はぐ、ぐちゃくちゃ。
顎を大胆に開き人肉を噛み千切る怪物の仕草に、距離的に聞こえるはずのない不愉快な咀嚼音が脳内で勝手に連想され再生する。
(やばいッ、駄目だ。逃げろ、逃げなきゃやばい!)
凄惨な食事シーンを見せつけられた連斗は、パニック状態に陥るも本能だけはひたすらに同じ結論を告げる。
……逃げろ、と!?
一心不乱に人肉を喰らっている様子からして怪物の捕食対象に人間が含まれているのは確実。四頭と数で圧倒しているのに加え、人間より遥かに巨大な図体を誇る怪物にフィジカルで勝負を挑んで敵う訳がない。
幸い怪物共は餌に夢中ですぐ傍の階段を降りれば現状の危機は回避できる。連斗が教室に戻る目的も忘れ、即座に踵を返そうとしたその瞬間。
女子生徒の悲鳴が聞こえた。
「いやあああああああぁぁぁぁぁッ!!」
悲鳴に続き、連斗のいる階段の踊り場から一番近い教室の扉が破壊され、中から新たな狼と女子生徒が飛び出してくる。
「なっ――!?」
いきなりのことに絶句し、硬直する連斗。その目の前をゴロゴロと転がっていく女子生徒は、教室とは反対の窓側の壁へと乱暴に打ちつけられる。
「うっ……」
派手に激突した彼女だが、辛うじて意識は保っているようでくぐもった声を漏らす。
心配になり彼女に見遣る。その拍子に連斗とばっちり目線が重なった。
「お願い、たすけ、て……」
彼女は恐怖と絶望に表情を染めながら連斗に手を伸ばし助けを乞う。彼女は足を負傷しており、自力では立ち上がれない様子だった。
他クラスで面識もなかったが、見捨てるわけにはいかない。連斗は条件反射で彼女を救出しようと一歩踏み出して、止まる。
怪物が彼女のすぐ傍まで迫っていた。教室の扉を破壊した五体目だけでなく、新たな獲物の登場に落ちた肉を貪っていた残りの四頭までもが歓喜に喉を鳴らしながら彼女に群がる。
無理だ……。
困惑する思考がこんな時だけ冷静な判断を下す。力なき正義感を晒したところで二次被害を招くだけだ、と。
連斗が臆しているとあっという間に彼女は怪物に取り囲まれる。
「お願い、早く、早く助けて!」
怪我をした足では怪物の包囲網を脱出できず、彼女は涙混じりで声を振り絞り連斗に懇願する。が、とっくに手遅れだった。
「いたい! 痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛いッ!!」
五頭の怪物が一斉に首を折り、包囲した獲物に喰らいつく。
はぐ、くちゃくちゃ。と今度は妄想ではなく、鮮明な咀嚼音が連斗の鼓膜を通し脳まで伝わる。
血が、肉が、体液が。彼女の身体から噴水のように吹き出て辺りに飛び散る。
怪物の鋭い牙が肉を抉る度、彼女は激痛に悶え喉が張り裂けんばかりに絶叫する。恐怖に負け連斗が静観しているとやがて腕や足が千切られ、胴体から離れたあたりで断末魔が止む。
大量に血液を失いショック死したのだろう。全身の筋肉が弛緩し、彼女はみっともなく失禁していた。
死んだ……。
人が理不尽な暴力に殺される瞬間を初めて間近で見てしまった連斗は、堪らず膝から崩れる。
「うっ、げぇぇぇぇぇぇ~」
一度目は呑み込めても二度目は絶えられなかった。胸から湧き上がるムカつきをそのまま床にぶちまける。
血で汚れた床に連斗の嘔吐物が混ざり、最悪の臭いを生む。
「げほっ……げほっ……」
ひたすらに吐き続け、胃の中が空っぽになる。独特の酸っぱさが口内に残り、気持ち悪い。
――見捨てて、しまった。
散々吐き、物理的にスッキリしたことで連斗は改めて自分の決断を振り返り、後悔する。悲痛に濡れながら助けを求めた彼女の表情が、激痛に悶え絶望に歪んだ彼女の表情が脳裏に焼きついて離れない。
例え相手が怪物で。いくら自分が非力で無力な存在だとしても獣に喰われる人間を黙って眺めているのは、死ぬほど後悔した。
だが、ほんの一刻の感情。これまでは傍観者に過ぎなかった連斗に、ギロリと怪物たちの赤黒い眼光が注がれる。
飢えた捕食者が格好の獲物を捉える眼差し。睨まれただけで全身の毛が粟立つ。
未だ空腹に収まらない怪物たちの眼力は執拗に連斗へ語る。
――次の獲物はお前だ、と――
「……ッ!?」
刹那、連斗は弾かれたように動いた。
見捨てた彼女への後悔など忘れ去り、生存本能に従う。脱兎の如く身を翻し、連斗は一目散に逃走した。
(ふざけるな! あれは本気でヤバい、殺される! 間違いなく死ぬッ!?)
内心で悪態を吐きながら連斗は慌てて登ってきた階段を一段飛ばしで蹴り降る。道中、獣が吠える声が聞こえた。次いで、巨体が廊下を駆ける足音もして、連斗の恐怖心をこれでもかと煽る。
「お、追ってきたッ!?」
それだけで怪物たちが追跡してきたのが分かる。怯えて涙目になりながら連斗は必死に階段を下っていく。
タッ、タッ、タッ、と小気味よくリズムを刻んでいると狭い通路が開ける。
連斗が逃げた先は、二階まで吹き抜けになった高い天井が特徴の昇降口だ。校庭へ繋がるガラス張り扉と全生徒の靴を収納する下駄箱があるだけのシンプルな空間。しまった、と連斗は咄嗟の判断の誤りに気付く。
天井が無駄に高い割に無駄な備品が殆ど設置されていない昇降口は身を潜めるには最も不向きな場所だ。
敵は獣の姿をした怪物。純粋な鬼ごっこで振り切れるはずがなく、隠れてやり過ごすのが策として合理的なのだが……生憎昇降口は開放的で、唯一の小部屋である物品庫は施錠されていて鍵なしでは入れない。
要するにここは、怪物にとって獲物を仕留めるに最適な環境なのだ。
背中を刺す殺気は、すぐそこまで迫っている。
絶好の狩場を提供しようが何だろうが、逃げなければ確実に死ぬ。連斗は自身の失態を嘆きながら獣の気配から離れようとする。
「――なっ!?」
ひとまずは特別棟に避難すべく、昇降口から連絡通路を目指そうとした連斗だったが、下駄箱の陰からヌッと漆黒の毛並みが覗き、立ち止まる。
二階で生徒を喰らった例の狼の別個体だ。一体全体何頭が校舎に侵入しているのか。昇降口もすっかり根城にしているらしく計五体の怪物が姿を現す。
終わった……そう諦観する連斗を怪物たちが退路を絶つように包囲網を敷く。ジリジリとにじり寄ってくる獣の群れと対峙し、連斗は後退を余儀なくされる。
それはつまり、降りてきた階段側へ戻されるということで――
「グルアァァァァァ!!」
二階にいた個体もこのタイミングで追いつく。正面を怪物に塞がれたことで、背後に配っていた警戒が解け油断となる。
怪物は階段で加速した勢いをそのままに連斗へ突進する。
「……がっ!?」
寸前で身を捻るも回避は間に合わず。ダンプカーにでも激突されたような凄まじい衝撃が連斗を襲う。人間を遥かに凌駕する巨体から繰り出されたタックルに連斗は数メートルと吹っ飛ばされる。
あまりに突然の出来事に、一瞬何が起きたのか理解できなかった。自分が宙を舞っていると自覚した頃には、ビニル製の廊下をバウンドしながら転がっていた。
「ぐ、あ、あぁ……」
何度も頭を打ちつけたせいか意識が朦朧とする。全身に打撲痕と擦過傷を作り仰向けに寝たまま動けなくなる連斗。が、すぐにその意識は右肩を突き刺す激痛によって覚醒させられる。
「があああああああああぁぁぁぁぁぁぁ!?」
ガブリッ、と連斗の右肩に鋭く尖った獣の牙が肉深くに食い込む。どうやら突進してきた個体が、他の狼を待たずして連斗に噛みついたらしい。
いままで体感したことのない壮絶な痛みに、連斗は視界を涙で濡らし、喉が潰れんばかりに叫び散らす。
「がああああぁぁぁぁぁぁ、やめろ! 離せ、離せ!?」
怪物の咬合力は尋常ではなく、肉を抉るどころか骨まで砕いてしまう圧力だった。激痛に混ざりギシギシと骨が軋む嫌な音が肩から鳴る。
ジタバタと足で藻掻き、せめてもの抵抗を試みるも怪物という圧倒的存在の前には無意味に等しい。
やがて昇降口にいる別の個体も獲物を喰らおうと寄ってくる。
死んだ……他の誰かでもない、自分自身の最期を悟った連斗は走馬灯を見た。
代わり映えしなかった平穏な毎日。
親友に恵まれた学校生活。
それらすべてが焼き焦がされ、ボロボロに消滅するような感覚を連斗は覚えた。
いよいよ覚悟を決めた連斗がゆっくりと瞼を閉じる……その瞬間だった。連斗の視界に銀色の何かが閃く。
閃光が連斗に噛みつく狼の首元に真っ直ぐ伸びたかと思うと、途端に怪物の咬合力が弱まりズルリと地面に落ちる。
「大丈夫ですか!?」
いきなり苦痛が和らぎ、状況が掴めずにいる連斗の耳に可憐な声が響く。
どこかで聞いたことのある声に眉を顰めながら連斗は正面を見る。
怪物に蹂躙された校舎の中。絶望に満たされたこの場所で死の淵を彷徨った連斗の前に現れたのは驚くべき人物だった。
「……ど、どうして、東雲さんがここに!?」
連斗は、怪物と真正面から堂々対峙する東雲優莉に驚嘆の声を上げた。
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