逃避行

蔵野杖人

逃避行

 

 

 

 亮子が死んだ。

 葬式は粛々と進んだし、燃えた死体からは例に漏れず小さな仏様が出た。秋の空は高く、抱えた遺骨は軽かった。彼女がいくつだったか、俺はよく覚えていない。十代ではあったはずだ。多分、高校には行ってなかったと思う。けれど、彼女が年齢のせいで高校に行っていなかったのか、その唾棄すべき家庭環境のせいで高校に行っていなかったのか、それはわからなかった。中学には行っていたはずだ。義務教育だから。

「……ただいま」

 扉を開け、ぽつりと呟くように言う。返事は当然ない。一人暮らしのマンションには、自分以外誰も住んでいない。靴も脱がないまま、亮子を抱えて、俺は少しだけ、ぼんやりと玄関に佇んでいた。何があったわけではない。彼女の骨を、どうしようかと思っていたのだ。持ち帰ったはいいけれど、このあまりに寒々しい焼け残りを墓に納める算段など俺には少しもなかった。だが、墓に何の意味があるのだろうとも俺は思っていた。果たして亮子は墓を欲していたのだろうか? それで亮子は慰められるのか。否だろうと俺は思った。亮子の魂と呼ばれるものが存在しているとしたら、これは既に亮子ではない。ここに魂はない。これが墓に入ろうが入らなかろうが、亮子はきっと気にはすまい。これを亮子と呼ぶのだって、俺がこれについて、亮子と呼ぶ以外に適した名称を知らなかったからに過ぎない。だから俺はこの骨壺の入った桐箱のことを亮子と呼び、中の骨をも亮子と呼んでいるだけだ。亮子は静かに、俺の腕の中に納まっていた。

 俺は亮子をどうすべきなのか、ずっと決めあぐねていた。おそらくは、通夜の時から。

 では、俺は、どうしてこれを――周囲を怒鳴りつけてまで、引き取ったのだったか。

 思考の狭間に落ち込んだ静寂は、ひどく長かった。

 結局、俺が動き始めたのは、腹が減ったな、と思ったからだった。人は所詮、三大欲求に勝てるようにはできていないのだ。かけ忘れていたチェーンをかけて、わざわざ葬式のために磨き上げた高めの革靴を脱ぎ、俺はダイニングに入った。電気を点けると、読みかけの新聞が視界に入った。俺はその新聞を手に取ると、黙って、積み重ねた古新聞の上に放り投げた。次の廃品回収の日はいつだったか、と思いながら、俺は亮子の遺骨が入った包みを、ダイニングテーブルの上に置く。こう見ると、なかなかに大きいものだ。少女ながら、骨は確かに一人の人間として完成していたらしい。俺は真っ黒のスーツを着たまま、遺骨と向き合うようにして、椅子へ座る。ポケットで、かさりと塩の包みが鳴った。

「割腹自殺ってなぁ」

 ため息交じりの言葉を吐き出しながら、手のひらで自分の頬を撫でる。やっぱりどうにも現実味がなくて、涙も出ない。

「女の子がやる自殺じゃあないよ」

 いや、女の子でなくても、まず思いつく自殺方法ではない。もっと楽な死に方などいくらでもあったはずで、それなのに、彼女は己の腹に包丁を突き立てる道を選んだ。腹など裂いても、そう簡単には死ねないと聞く。それに加えて、亮子は自分の臓腑を、ありったけ引きずり出して死んでいたそうだから、きっと苦しかったはずなのだ。俺はかつて食中毒で反吐をまき散らしながら胃腸の激痛にのたうったことがあるが、何度となく『いっそ殺してくれ』と思ったものだ。それ以上の苦しみを人は受容できるものなのか、俺は考えたくもない。

「まあ、お前がなんでそれを選んだのか、俺には……わからないけど」

 そしてもう、一生理解することは叶わないけれど。また俺は頬をこすって、椅子から立ち上がると、洗面所で顔と手を洗って、スーツを脱いだ。長袖のTシャツを着て、ジャージを履き、汚れた靴下を洗濯籠に投げ入れてから、ダイニングへ戻る。一抱えの亮子は、まだ、ダイニングテーブルの上で静かにしていた。それを横目に見ながら、俺はキッチンの冷蔵庫を開けて、ビールと、葬式へ行く前に作っていたレバーの炒め物を取り出す。遠い昔に亮子から褒められた料理の腕は、今も健在だった。その時のことは――別段、微笑ましい思い出などではないが。むしろ、記憶の底に封印しておいた方が心身の健康のためにはよかった。

 レバーの皿を電子レンジへ入れ、時間をセットする。ヴーン、と低く唸りながらレバーを温めてくれる機械の横で、カシュ、と音を立てて、ビールの缶を開ける。電気を点け忘れたダイニングは暗く、生きて動いているのは、電子レンジだけであるような心地にさせた。

「……お前も飲む?」

 なんとなく、電子レンジに声をかけてみる。当然返事はない。俺はさもありなん、と頷いて、ビールに口をつけた。古今東西、ビールを飲む電子レンジなどはない。

「……にげぇなあ……」

 また独り言を吐いて、俺は開けたばかりの缶ビールを、流しに捨てた。単に飲みたくなくなったからというだけだ。俺はビールを嫌ってはいなかったが、今この苦みを味わうのは、僅かばかり億劫だったのである。

 どぼどぼと泡を立てて排水口へと流れていく薄黄色の液体をぼんやりと眺めながら、こういう時はどうしたらいいんだろう、と俺は思った。

 俺は、悲しんでいるはずなのだ。叔父としてそうであるべきだったはずだし、俺はそれができる人間でもあるはずだった。捻くれることも腐ることもなく、人の不幸を我が事のように悲しむことができる人間であろうと努めてきたはずだった。

 それなのに――涙も、弱音も、こぼれない。

「……困ったな」

 もう少し素直な人間だと思っていたのに。それとも、亮子の死が、自分にとって泣くほどのことではなかったということだろうか? いや、そんなはずはあるまい。新聞を見て、電話を受けて、俺は確かにショックを受けたのだ。可愛がっていた姪だった。彼女が小学校に上がる前後までは、よく遊んだものだ。俺が引っ越してしまってからは確かに疎遠になってしまっていたが、年賀状だってやり取りしていたし、俺はちゃんと、亮子を大事にしていたはずなのだ。

 大事に。

 嘘だ、と、脳裏に否定の言葉が閃いた。嘘だ――嘘。ちゃんと大事にしていたというのなら、亮子はこんな死に方をしなかったはずだ。自分の腹に包丁を突き立てたりはしなかったはずだ。電子レンジが、ピーッ、と甲高い悲鳴を上げる。俺は、空っぽになった缶を、流しに放り捨てた。カンカンカラン……と缶は耳障りな音で転がって行った。俺は、亮子のことを、本当はどう思っていたのだろう。

 どう――思って。

 馬鹿らしい、と俺は毒づいた。

 悲しんでいる? そんなものも嘘だ。全部全部、嘘っぱちだ。

「亮子」

 振り向けば、ダイニングテーブルの上に鎮座した亮子の残骸が視界に入る。

「お前はどうして、姉さんと義兄さんを」

 愚問だった。抑圧は反発を生む。頭を踏まれた人間は、相手の頭を踏むことでしか、そのプライドを取り戻せない。だから亮子は、報復したのだ。それだけだ。

 亮子は、己の両親の手足を切り落とし、芋虫のようになった彼らを数日間飼っていたのだという。落とした手足は冷凍庫に入っていたらしい。そうして自分が死ぬ直前になってようやく、彼女は両親の息の根を止めた。

 たかだか十四、五六の娘が、実の両親をそのように扱い始めるまでに何があったのか、俺は知らない。関係者は亮子を始め、誰も生きてはいなかったし、閉鎖された空間は、三つの死体だけを残して、綺麗さっぱり片付けられていたそうだから。

 新築みたいに掃除された一戸建ての中で死んだ亮子を想像してみて、俺は、なんとなく、気分が悪くなってしまった。電子レンジの中からレバーを取り出し、箸を持って、テーブルへ着いた。割腹した亮子を目の前にしてレバーなんぞを食べていると、まるで彼女の内臓を食べているようだった。だが、噛み締めた豚の肝臓からは、塩と胡椒の味だけがしていた。

 姉がまともな人間だったかと言われると、そうでもない、と俺は答える。外面は良かったが、親や教師の見ていないところでは、俺を階段から突き落とすような女ではあった。理由があったのか、なかったのか。とにかく、俺はあの人に散々なことをされた。服の中にカナブンを入れられた時は、さすがに叩いた覚えがある。尤も、その後、お姉ちゃんをいじめるなんぞ何事かと、俺が親から怒られたのだが。あの人を前にすると、事実は歪曲する。他人はあの人の正義を信じてしまう。そういう人だった。だから俺は早々に離れたし、亮子が、そんな女を母親に持ったことを不幸と思い憤ったのだとしたら、俺にそれを責めることなどできようはずもない。ただ、それにしても、その結果がこれというのは――些か――

(いや)

 いや――と俺は考え直した。俺には判断ができないことなのだ。理解の及ばないところの話だった。俺は耐えられた。あの女がただ、『姉でしかなかった』からだ。あれを母に持った亮子が――何を思ったのかなど、俺の頭の埒外にある。

 俺の経験から、想像はできる。だが、それは真実でも事実でもない。亮子という少女は、己の何もかもを秘匿して死することを選んだ。俺は彼女ではない。誰も、他人と同一化することはできない。だから俺は、彼女の一切を『理解できたかもしれない』という幻想など、捨てることにした。わからないものはわからないのだ。ただそれを受け容れて、認めるしか手立てはない。

 だから、そう。亮子の行いが報復であったかどうかさえ、俺にはわからないことだった。それは彼女の慈愛によるものだったのかもしれないし、単なる狂気によるものだったのかもしれない。もし亮子から何らかの答えが与えられていたとしても、結局それでさえ、言語という狭い檻に括られた感情の一部分にしか過ぎないのだ。

 未成年の猟奇殺人鬼――と、これからの世間は彼女のことをそう称するのだろう。それは正しくはあったが、おそらくは間違ってもいるのだ。世の中のすべては、己の視界に入っているものの他に、別の側面を持っているものなのだから。

 俺は――なんとなく、骨を包んでいた布を解いた。桐箱から骨壺を取り出し、燃え残った白色と向き合う。嫌悪感はなかった。

「――お前の――」

 それは無意識に口をついた。

「寄る辺になれなかった俺を。お前を見捨てた俺を、許してくれ」

 亮子の何もかもがわからなくても、わかっていたことはあった。

 姉の暴力的な一側面による正しさが、誰かを沈黙の中に踏み躙ることや。

 俺はその地獄を心から憎んでいたことや。

 俺が――

「結局俺は、あの女の始末を、お前に全部押し付けたんだ」

 俺が、亮子を生贄にして、逃げ果せたことなど。

 人は自身のことさえわかっていないと人はよく言う。

 自身の昏い影など見たくないものだと人はよく言う。

 けれど俺は、少なくともこれに関しては――俺自身の卑しさをよく理解していたと思う。俺が亮子と疎遠になったのは。俺がこんなに、涙も弱音も吐き出せないのは。

 亮子のことを、本当はどう思っているか?

 馬鹿らしい、まったくあまりにも馬鹿らしい、無意味な自問だ。

「亮子」

 俺は挨拶でも告げるみたいに、おそろしく自然な調子で、その言葉を口にした。

「姉さんを殺してくれてありがとう」

 俺にできなかったことをやり遂げたお前を――俺は心から、尊敬してるんだ。俺は亮子の骨壺を閉じた。そうして桐箱へと戻すと、風呂敷で再び包んだ。それから、スマホでホテルの予約サイトを開くと、適当に、行きたいなと思った宿を予約した。それから、乗り物は何にしようかと考える。飛行機はやめておこう。新幹線。いや、船がいい。

 亮子と共に、十何時間でも揺られていよう。

 亮子、と俺はもう一度少女の名を呼ぶ。もしかしたら、亮子が己の腹を割いたのは、自分の子宮を厭うてのことだったのかもしれない――などと勝手なことを考えながら、指の背で、滑らかな風呂敷の表面を撫でる。

「俺は、あの人を殺したお前に、生まれて初めての恋をしたんだ」

 亮子の魂はここにない。俺の想像する、俺の内面を投影したような、少女の憎悪と高潔さが、骨の白に現れているだけだ。それを俺はわかっている。俺がそれをこそ、亮子と呼んでいることも、俺はちゃんとわかっていた。俺は亮子と疎遠だった。彼女がどんな性格だったのかなど、小学生の時分の記憶しかない。

 俺は亮子を知らない。わかるとも思っていない。俺の前には、偶像化された少女の影だけが、焼けた骨に残って在るだけだ。

 だからこそ俺はこの骨に、恋をしたんだろう。

 泣くわけがない。弱音を吐くわけもない。

 己が救済の象徴を手に入れておいて――何を悲しむことがあるというのか?

 彼女と共に海を眺める逃避行は、きっと楽しいものだろう。俺はそう信じている。

 そして、それはきっと正しいのだ。

 

 

 

   〈了〉

 

 

 

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