Ⅱ 弟子
背中の不快感に眉根を寄せながら上体を起こす。汗でぐっしょりと濡れた寝衣が、背中に張り付いていた。
三年経ってもなお色褪せぬあの日の夢を見る度に、心の奥底で揺らめく仄暗い炎に身を焼かれてしまいたくなる。
けれど感情だけで死ねるほど現実は優しくなくて。
ベッド脇のテーブルに放置されたペティナイフが視界に入る。数か月前、風邪をひいた時に師匠がリンゴを剥いてくれたことを思い出した。まだ片付けていないとは、ものぐさにも程がある。
隣を見ると魔女が寝息を立てて眠っていた。起こさぬようにそっと身を乗り出して、ナイフを手に取ろうとしたところで、下から伸びてきた手に腕が掴まれる。
「
弟子は瞠目する。
「……起きていたんですね、師匠」
魔女は大きな欠伸もしながら起き上がる。
前髪が変な方向に跳ねているし、口の端には涎の跡。この姿だけ見た者がいたとしても、まさか彼女こそが誰もが恐れる魔の森の魔女だとは思うまい。
だが弟子にとって、間抜けな魔女の姿は見慣れたものだった。ひとつの寝台を共有して使っているからだ。
三年前、身元も意識も不明な子供を拾ってくれたことには感謝したいが、ずっと窮屈なひとつのベッドで一緒に寝なければいけないこの状況には不満がある。
「おはよ、まなでしぃ~」
おはようございます、と律儀に返した弟子は自身の右腕を、魔女の手ごと軽く引っ張る。
「これ、放してください」
魔女はベッドの上で胡坐をかいて、またまた大欠伸をひとつ。それからようやっと弟子の腕を解放してくれた。大きな伸びをしてようやく目が覚めたらしく、半分閉じていたはずの目がぱっちりと開いている。
「……ん、なんでこんな時間に起きたんだっけ?」
否、頭はまだ寝ぼけているらしい。
「お年寄りは朝が早いと聞いたことがあります」
「『師匠はまだまだお若いですね』だって? やだ、この子ったら将来はきっと女泣かせのクソ野郎になるわ」
およよよよ、と訳の分からぬ泣き真似をし始める師匠を、弟子は冷たい眼差しで見つめる。だがそれを気に留めることもなく、しばらくふざけ続けていた魔女だったが、不意に真顔になって、ついでにぽんっと手を打つ。
「ああ、そういえば。クソ野郎になる前に死のうとしていたんだったわね。だめよ、女を不幸にする将来に絶望して自殺なんて」
「……別に死ぬつもりはありませ、痛ッ」
魔女の右手が弟子の頬を抓り上げる。
「生意気。ガキが嘘つくんじゃないわ」
「
弟子は間抜けな叫び声をあげながら、憎き手を叩き落とした。真っ赤になっているだろう頬をさする。痛みでうっすら涙が滲んだ目で魔女を睨み上げると、目が合った。淡い桃色の瞳。
魔女は鼻を鳴らす。
「目覚めが悪くなっちゃうじゃない。目が覚めたら横には死体が——、なんて私は絶対に嫌。死ぬんならひとりで眠れるようになってからになさい」
——いや師匠が勝手に潜り込んできているだけでは。そう言いたかったが、利口な弟子は口を噤む。
下手に師匠を怒らせると、新薬という名の毒の被検体にされてしまう。この間なんて、彼女が隠していた甘味を盗み食いしたことがバレて、心臓が裏返るはずの試作薬を飲まされた。幸いにも魔女が望んだ効能は出なかったが、筆舌に尽くしがたい目にあった。具体的には、口から手を突っ込まれて、喉を内側から裂かれるような……。もう二度と体験したくない。
言いたいことを言い終えて満足した魔女は、ナイフを回収してベッドサイドに足を下ろす。そのまま立ち上がろうとしたところを、弟子は思わずローブの裾を引っ張って止める。離れていく人肌の温もりが、夢の中で感じた冷たさを想起させたのだ。
悪夢のせいで心が弱っている。やめろ、と理性が囁く。でも止められなくて。
「……師匠も、僕をおいていきますか?」
弟子が見た悪夢を知らない魔女には理解できないであろう問いかけだった。
あまりにも身勝手で、独りよがりな——ああ、自分は三年前も今も、何も変わっていない。
一瞬驚いたような素振りを見せた魔女だったが、すぐに微笑んでみせた。弟子の髪をぐしゃぐしゃにかき混ぜる。
「安心なさい。死なないのが魔女の取り柄なんだから」
その言葉と温もりに、弟子はようやく身体の力を抜いた。
ホットミルクを作ってあげる、と言って魔女はベッドから抜け出す。その拍子にぶかぶかローブがずり落ちて華奢な肩が露わになって、弟子は頬を赤らめながら慌てて目を逸らした。
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