魔女と「 」
あいうえお
魔女と「 」 前篇
Ⅰ 王子
ぽたりと血が落ちて、白皙の肌を赤く穢す。
いつも通りの一日のはずだった。眠るために寝台に向かう、そのときまでは。
寝室の扉が乱暴に開かれる音がして、何事かと振り返る間もなく、床に押し倒された。次いでくぐもった悲鳴。生温かい赤が全身に降り注いだ。
暗殺者の襲撃だった。
瀕死の従者の手によって侵入者が処理されるまで、王子は身体を動かすことができなかった。しかし帝王学を刻み込まれた脳は、こんなときでも冷静さを失わない。
王城の最奥に位置する居住区域に一介の暗殺者が侵入できたとなれば、数多いる警護兵たちの目口を塞げるような協力者が、そしてその背後には綿密に練られた計画が存在するのは明白なことだ。
この城は明日には敵陣となるだろう。生き延びるためには逃げ出さなければ。
ネグリジェは血色に染まっていたが、逃亡に支障を来すような深手は負っていない。従者がその身を挺して庇ってくれたからだ。
彼が助からないことは一目瞭然で、城の外に連れていくことはできない。このまま見捨てるのが最善の選択だろう。
だが、それでも、せめて見送りたかった。
従者の下から抜け出した王子は、力が失せた彼の身体を仰向けに横たえる。
くすんだ顔色。焦点の合わぬ瞳。色を失った唇。見慣れたはずの顔が、彼らしさを構成する全てが死の気配を色濃く漂わせている。
王子の脳裏に彼との思い出が涙とともに溢れてくる。
春光に照らされて輝く笑顔。王子をまっすぐ捉える目。ふたりだけの内緒な、と言って厨房から拝借したラズベリーを食べて、赤く濡れる唇。
でも、今はもう。
「しな、ないで」
口をついて出たのは、あまりにも身勝手な言葉だった。
主を守るという使命を果たした忠臣に向かって、なんと酷いことを。頭の中でもうひとりの自分が吐き捨てる。お前自身が殺したようなものなのに、何様のつもりか。愚か者、恩知らず、人殺しめ——!
我に返った王子は下唇をきつく噛み締めた。これ以上、余計なことを言わないように。
薄らと瞼を開けた従者は自らの惨状を気にも留めず、震える手を伸ばして、濡れた王子の左頬を拭った。そのまま指の腹でつぅっと輪郭をなぞる。何かを言おうとして震えた唇が吐き出したのは言葉ではなく真っ赤な血で、ごぷりと溢れたそれが絨毯に滴り、いくつかの華を咲かせる。
「あ、」
王子の頤にかかっていた手が落ちて、血溜まりに沈み込んだ。
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