2.帽子屋とピンクの毛玉
「では、アリサさん。あなた、この国に迷い込んだみたいですけど、これからどうします? ここで会ったのも何かの縁ですし、よければ女王様の元まで案内しましょうか?」
「じょ、女王様?」
「えぇ、女王様です。この国を治める女性ですね」
「ここって、日本じゃないんですか? 迷い込んだって、一体、な、何なんですかっ?」
私の口が、急激に回り始める。
「私、自分の部屋にいたんです。なのに、起きたら森にいて、でも、きた記憶はないんです。何で私、ここにいるんですか? どうやったら帰れますか? 帰れないと困るんです。明日は学校があるし、家族も心配するし、それに、家には認知症のお婆ちゃんがいるんです。お母さん一人じゃ大変なので、今すぐ家に帰して下さいっ。お願いしますっ」
拳を握って詰め寄れば、マッドさんは
「まぁまぁ、落ち着いて」
と手を振った。
「つまり、あれですかね? アリサさんは、意図せずこの国にきてしまったので、元いた場所へ戻りたいと、そういう事ですかね?」
「そうです。今すぐ戻りたいんですっ」
「成程成程。ですが、すいません。残念ながら、迷い人の帰り方なんて、アタシもミューシャも分からないんですよ。女王様ならご存じかもしれませんが、あの方も大概お忙しいですからね。今すぐ謁見ってわけにもいかないでしょうし」
と、顎に手を当て、宙を眺める。
「んー……なら、占い師さんに聞いてみたらどうですかね?」
「う、占い師?」
何故ここで占い師が出てくるの? 占ったら帰る方法が分かるの? そんな馬鹿な。
「あ、その顔は信じてませんね。大丈夫ですよ。アタシが知ってる占い師さんは、凄腕ですから。まぁ、ちょっとばかり物ぐさですけど、信用出来るお方です。きっと助けになってくれますよ」
マッドさんは、自信満々に頷く。正直、不安しかない。でも、今頼れるのはこの人しかいないんだ。文句を付けて森の中に放置されるのも嫌だし、ここは提案に乗っておこう。
「じゃあ、その、占い師さんの所に、連れていって下さい。お願いします」
「はいはい、お任せあれ」
マッドさんは、徐に紫のシルクハットを脱いだ。胸元へ当てて、気取った一礼を披露する。
かと思えば。
「はい、どうぞ」
逆さまにしたシルクハットを、差し出してくる。
……え? どうぞ?
よく分からず、マッドさんとシルクハットを見比べる。そんな私に、マッドさんも糸目を瞬かせた。
それから
「あぁ」
と手を叩く。
「すいませんね、アリサさん。迷い人には、馴染みがなかったですかね。じゃ、一回お手本を見せますから、同じようにやってみて下さい」
そう言うや、ミューシャ君を振り返る。
ミューシャ君は近付いてくると、シルクハットの頭を入れる部分へ、迷いなく前足を突っ込んだ。
すると、肩の辺りまで、一気に入る。
続けて、顔面、反対の前足、胴体と、シルクハットの中へ消えていった。
まん丸なお尻もどんどん小さくなり、存在感溢れるピンクは、あっという間にこの場からいなくなる。
「――はい、こんな感じですね。じゃ、次はアリサさん、いってみましょうか」
「いやいやいやっ! ちょ、な、えぇっ?」
私は、紫のシルクハットと、ミューシャ君がいた辺りを、何度も確認する。
「な、何が起こったんですかっ? ミューシャ君、いなくなりましたけどっ。シルクハットに吸い込まれましたけどっ」
「そうですねぇ」
「そうですねじゃなくてっ! 可笑しいじゃないですかっ。どう考えても入らないですよねっ? なのに、何で消えたんですかっ? 一体どうなっているんですかっ?」
「まぁまぁ。難しい事は考えず、取り敢えず一回やってみましょ。やれば分かりますから。ね?」
と、シルクハットを突き出してくる。
その分、私は後ずさった。
「大丈夫ですよ、痛くも痒くもありません。ただ、ちょーっとばかしフワッとするだけですから」
「いやっ、フワッとって何ですかっ。嫌ですよっ」
「大丈夫ですって。ミューシャだって怖がってなかったでしょ?」
「例えミューシャ君が平気だろうと、私は平気じゃないんですっ。ちょっとっ、こっちにこないで下さいっ」
「大丈夫大丈夫。怖くない怖くない」
「こないでって言ってるじゃないですかぁっ!」
絶対に距離を詰められないよう、必死で逃げる私。けれどマッドさんも諦めない。元々長い腕を更に伸ばして、シルクハットを近付けてくる。
「うーん、困りましたね。どうしても嫌ですか?」
「どうしても嫌ですっ」
「そうですかぁ。仕方ないですねぇ」
マッドさんは、深い溜め息を吐いた。漸く諦めてくれたのかと、私も違う意味の息を吐く。
「――なら、強硬手段に出るしかありませんね」
ねぇ、ミューシャ? とシルクハットの縁を、軽く叩いた。
瞬間。
頭を入れる部分から、ピンク色の前足が生え出てくる。
そいつは私の腕を掴み、あろう事か引き寄せようとしてくるじゃないか。
「ちょっ、待ってっ! 本当止めてっ! 本当無理だからっ! 絶対嫌っ! 嫌だってばっ!」
しかし、私の願いは届かない。
抵抗空しく、シルクハットの中へ引きずり込まれる。
「嫌だって言ってるでしょぉぉぉーっ!」
そんな叫びと共に、浮遊感が襲ってきた。咄嗟に瞼を閉じ、身を固くする。
「ミュー」
もふん、と極上の柔らかさが、全身を包み込んだ。
恐る恐る目を開ければ、視界をピンクが埋め尽くす。ミューシャ君だ。どうやら私を抱き止めてくれたらしい。
「あ、ありがとう」
「ミュー」
どういたしましてー、とばかりに口角を持ち上げる。毛がもっさりしていて表情はいまいち分からないが、愛嬌のある声と雰囲気に、ちょっとほっこりした。
「はーい、お疲れ様でーす」
トン、と何かが着地する音がする。
見れば、マッドさんが紫のシルクハットから腕を抜き取っている所だった。
「どうでした、アリサさん? 大した事なかったでしょ?」
いや、全然ありましたけど。めっちゃ怖かったですけど。という不満を込めて睨むも、当の元凶は笑うばかり。シルクハットを頭に乗せ、悪びれもなく歩き出す。
「では行きますか。占い師さんはあちらですよ」
指された方向を、私は何気なしに振り返った。
さっきまでいた森が、ない。
木の代わりに、家サイズのキノコが沢山生えていた。どれもビビットな色合いで、絶対毒があるよねっていう見た目をしている。加えて、この湿った空気と薄暗い雰囲気が、何とも言えぬ不安感を煽った。
私は、思わずミューシャ君にくっ付く。
「ミューウー」
宥めるように私を撫でると、ミューシャ君は、大きな前足で私の手を掴んだ。そのままマッドさんの後を追う。
大きさも形も様々なキノコの間を進んでいくと、先頭を行くマッドさんが、唐突に立ち止まった。
目の前に、腰の高さ程の赤いキノコが生えている。
傘の広いそのキノコの上には、何故か逆さまになった帽子が置かれていた。
しかも、被る部分から白い煙が立ち昇っている。
不思議な光景に内心首を傾げていると、マッドさんは、その場へしゃがみ込んだ。軽くシルクハットを持ち上げ、笑う。
「こんにちはー、帽子屋でーす」
まさか、ここにお目当ての人物がいるのか。私は、マッドさんの背後から、そーっと窺い見た。
途端、息を飲む。
「あら、きたの」
帽子の中に、女性が寝そべっていた。
緑色の前髪で目元を覆った、着せ替え人形サイズの人間。
一瞬、本当に人形かと思った。でも、違う。だって動いているもの。大きな三角フラスコのようなものから伸びたチューブを、唇へと持っていく。多分あれ、水たばこだ。教科書で見た覚えがある。
チューブの先に付いたパイプを咥え、数拍間を置いてから、白い煙を吐き出した。こんなに滑らかな動作、人形ではまずあり得ない。
でも、両手サイズの人間もまた、あり得ない。
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