第10話


 大きな手が私の肩を遠慮がちに揺らした。

 

 目を開ける。真上にあった太陽は目の端に映っていた。


 私を覗き込んでいる人がいた。


 橋本啓太だった。


 「中村さん、おはよ」


 自然な笑みを彼は浮かべる。私もそんな風に表情を変えてみたかった。


 「橋本くん」


 口の横によだれが流れていた。

反射的に袖で拭ってしまう。


 「名前覚えてくれたんだ」


 ちょっと恥ずかしい動作に気づかなかったのか。

わからないけど彼は彼の話を続けた。


 「僕ね、中村さんに謝りたかったんだ。

 ヘッドホンのこと、ちゃんと先生に説明してきた」


 彼はヘッドホンを掲げる。その顔はほんの少しだけ自慢気だった。


 「僕のせいで君に辛い思いをさせてしまってごめんなさい」


 頭を下げる。彼の顔が見えなくなる。


 「今度は僕もちゃんと怒られて、返してもらってきた」


 やっぱり彼は優しい。

 だから、私とは違って世界の中で生きられている。



 「いいんです。これは私の問題だから」


 彼は顔をゆっくり上げた。

 夕焼けが私の目に刺さった。

 痛くて、目が眩む。


 彼のことを上手く見れなくなる。


 「ヘッドホンがないとまともじゃいられないなんて、

 どうかしていますよね」


 会って二日の人間にする話じゃない。


 「昨日、駅で助けてくれた時にお礼を言うべきだった。

 そんなこと、ちっとも思いつかなかったんです。

 それさえできないような人間なんです」


 言ってて泣けてきた。

 ほら、自分のことしか私は頭にない。


 嗚咽する。


 息が上手にできなくなる。

否定も肯定も戯れも何もできない私がいる。


 優しい少年がここにいるのに、勝手に苦しんでいる。

もう関わらないで欲しかった。


 私に見えないところで泳いでいて欲しかった。


 「中村さん」


 少年の重い声で私が止まる。

ゆっくりと彼の方にピントを合わせようとした。


 「僕、君に憧れているんだよ」


 彼も、泣きそうな顔をしていた。

 不安で、無理している顔だった。


 「朝、電車で君を見かけたんだ。

 君はずっと太陽を見ていた。僕のことなんて見えてなかった。

 学校でもそう。自分の居場所を自分で守っている」


 「凛と強く生きている君に救われてるんだ」


 的外れな言葉だ。


 「だから、ヘッドホンをつけていていいと思う。

 僕もそんなふうに生きてみたい」


 彼はヘッドホンを私の耳にあてる。

その確かな重みがいつもみたいに私をちゃんと立たせてくれる。


 世界と一枚遠くなる。


 「そのままのあなたでいいと思う」


 彼のその声がくぐもって聞こえた。

彼は手を離す。彼の手の重みが消えてしまう。


 夕陽が影って、彼の顔がよく見えた。

不安げな顔をしていた。息苦しい顔だった。

 鏡を見ているようだった。


 この人は、私と同じだ。

息苦しくて、それでもがいている。


 私はヘッドホンを外さなきゃいけない。


 彼と私しかいないから。


 だからヘッドホンはいらない気がした。


 「橋本君、ありがとう」


 耳をずっと塞いでいたから。

この声の大きさが彼に心地いいのかわからない。


 弱々しくて、情けない声なのかもしれない。


 不安で仕方がない。

 でも、彼になら正確に私が伝わる。

だって私たちは同じことを苦しんでいる。


 ただ反対方向から見つめていただけだ。


 「うん、どういたしまして」


 彼が笑って、私も同じように笑えた。

彼の声が流れ込む。全く嫌じゃない。


 「ねえ、中村さんはどんな曲を聴くの?」


 少年の関心の方向が。

 私の方を指していた。


 私を刺していた。


 それがずっと怖かった。

今だって、怖くないとは言い切れない。


 誰も教えてくれない。

それはきっとあなたも同じなのだろう。


 じゃあ歩み寄らなきゃフェアじゃない。


 私は口を開いてみる。

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ヘッドホンガール 麻空 @masora_966

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