第5話

 ケンカ。いわゆる海への落とし合いは牧野のクシャミで終結に至った。

海水で冷えていることに、海を出てようやく気づく。

僕らは、靴下以外を脱ぐわけにもいかなくて、水浸しのまま砂浜を登った。


 「後悔してる?」


 牧野の表情にはその気配があった。


 「しないよ。子供は失敗から学ぶものだから」

 「よくそんなに屁理屈が回るね」

 「うっさい」


 牧野は僕の裸足を裸足で踏んだ。まだ濡れている。


 木製の細道を僕らはペタペタ濡らして進む。

左右は海に挟まれていて、波の音だけがここにはある。

僕と牧野しかいないのが、僕にとっての救いだった。


 「僕はね、」


 自分の話をしようと思った。牧野にならできるような気がした。

子供のままでいたいなんて馬鹿みたいな願望を打ち明けてくれたのだ。

僕も話さなきゃ、フェアにはなれない。


 「人に嫌われるのがすごく苦手なんだ。

  全然、普通のことだって、そんなことはわかっているんだけどね」


 世の中の大多数が抱えているのであろう感覚を我が物顔で話すことは気が引けた。

被害者ヅラは、なるたけしたくない。


 「うん」


 牧野は先へ促す。


 「そうなったきっかけがあるんだ。僕は中学二年生の頃に、初恋をしたんだよ」

 「さっき恋愛できないって言っていたのに」


 牧野が修学旅行の布団の中にいる時みたいな、そんな顔をする。


 「恥ずかしくて、嘘ついた」


 電車で誤魔化したから。この話をするのは余計にくすぐったい。


 「席替えをしても何度も隣になる女の子がいたんだ。

  彼女は話の種をたくさん持っていてね。相槌を打つばかりの僕とは噛み合ってた。

  彼女は多趣味だったから、音楽とか、動画とか、いろんなことを教えてくれたんだ」


 休み時間とか、授業中とか。

 席が隣だからという快適な理由で、僕らは仲良くなっていった。


 「そしたら、よくある話だけど周りから揶揄われるようになったんだよね」


 その頃まで僕は全くそういったことには頓着なかった。

きっと彼女も同じ認識でいた。


 「で、初めて僕はちょっとだけ意識してしまった」


 多分、中学生としては健全な感情だったと思う。


 「映画を観にいかないかって誘ったんだ。

  そしたら、彼女の方は『なんで?』ってちょっと怪訝そうな顔をした。

  それがちょっと、僕にとってはトラウマになった」


 元々、あけすけに物事を言うタイプの人だった。

そこを好ましく思っていたけど、あの時はそれが怖かった。

怪訝そうに見えたのも僕の思い過ごしだったのかもしれない。

純粋な疑問を、僕への否定だと勝手に思い込んだのかも。


 「それからどうなったの?」

 「ちょうどそれが三月だったんだ。クラス替えで離れちゃってそれでもう話すことはなかったな」


 よくあることだ。

 6人に一人が体験していると言われても、驚かないくらいに。

 それでも僕にとっては重大だった。


 「それから、やけに人の表情を窺うようになったんだ。

  発するべき言葉だって、必要以上に慎重に選ぶようになった。

  それがずっと、息苦しくて仕方なくて辛い」


 口に出してしまうとありきたりで、僕の辛さがとても細やかなものであるような気がしてしまう。


 「しょーもないね」


 そう、牧野が言った。その言葉に、動悸がしなかったと言えば、嘘になってしまう。

 体が、緊迫した。


 「でも君にとっては重大で、苦しむのに十分だったんだね」


 一瞬の緊張が、その言葉でジュワッと溶けた。


 「ありがとう」


 僕の、情けない声が夜を揺らす。


 「ずっと、息苦しかったんだ」


 今はもう、息苦しくない。それが一時的なものであることはわかっている。

スマートフォンを壊されても、電車に乗って遠くにきても、それは束の間の逃避にしかならない。


 「あれからずっと、学校で普通に生きてこれたけど、その時間全部が少しずつしんどいんだ」


 揺れて、溢れたのが今日だった。それだけ。


 「これを何十年も続けると思うと、

  きっと、それを僕はできてしまうんだろうけど、どうしても、しんどい」


 「私も辛いよ。一緒だね」


 牧野が、暗い海の方を見て言う。


 「もし大人になったら、今以上にすり減らさないといけなくなってしまうんでしょう?

  それなのに、体は勝手に成長してしまうんでしょう?

  ままならないことばっかりだよね、現実って」


 そう言って牧野は微笑んだ。見通せない、混沌とした笑みだった。

悲観も、諦観も、一滴の希望さえもあるような。

 それらを混ぜ込んでしまったような表情をした。


 牧野がそんな顔をすることを僕は知らなかった。

 そんな顔、見たくなかった。


 「こうやって逃げ出さないと、きっと生き殺しの人生になっちゃうよ」

 「そうだね」


 もしかしたら、僕らは似ているのかもしれない。

お互い、時間が進むことを悲観してしまっている。


 だから僕らには逃避行が必要だった。




 細道の先には小さな灯台があった。僕らはそれに体を預けて座る。

じっと身を寄せ合うくらいしか、夜を越す手段がなかったから。

取るに足らない話を二人でして、暗い世界をやり過ごす。


 細やかな笑い声がそこにはあって、僕らは潮の香る空気をいっぱいに吸えていた。


 「ねえ、朝になったら登校する?」


 牧野が僕に聞く。


 「一回くらいは休んでもいいよ」

 「私、休み癖がついてずっと休んじゃうかも」

 「皆勤賞は過去の栄光か」


 夜通し話し続けている僕らの喉は枯れていた。


 「私ね、古谷が自分の話をしてくれてめっちゃ嬉しかった。

  君って、普段私に話合わせているでしょう?」


 「合わせているってわけじゃないよ。適当に返事しているだけ」

 「ひどい」

 「それだけ、君のことは信頼していたってことだよ」

 「ものは言いようだね」


 別に、嘘ではなかった。


 「とにかく、君と逃避行に来れてよかった」

 「僕も」


 夜の会話はずっとこそばゆかった。


 「あっ」


 牧野が声を漏らした。

 遠く遠くに、一点の光が現れた。

 その点はゆっくり、でも確実な速度で溢れていく。眩むくらいの強い光が海を照らしていく。

 世界が少しずつ、青色を取り戻す。

 横で、牧野の目が潤んでいた。


 「ねえ」


 牧野が笑うのがわかる。明け方の光が、僕にそれを教える。


 「私たちなら、どこへだって行けるよ」

 「そうだね、どこへでも」


 二時間分の距離だけ逃げたから。

 澄んだ空気を吸えている。



  ○


 「次はどこに行く?」


 私は朝日の下、涼しげな顔をした少年に尋ねる。

付き物の落ちたようなその顔は、私が求めていた君だった。


 「北海道とか」

 「いいね」


 現実に目を瞑った、脳死なその時間が快楽だった。


 「南国とかもいいじゃん。よし、次は南国に行こう」


 口にしたら素晴らしい響きだ。逃避行って言葉は夜が似合うけど。

太陽に見下ろされた逃避行があってもいいと思った。


 「え、決定?」


 フフフ


 私はまだ湿っている靴を履く。服は案外乾いていた。

ポケットに入っていた財布もなんとかなった。

 海に入ったことは後悔していない。

 

 ポケットのスマートフォンだけが水没していた。電源もつかなくて、真っ暗だ。

気づかず海に飛び込んだのが恥ずかしくて、呆れられそうだから、君にも言えない。


 私は君の手を引く。

 君がいれば何もなくていい。


 どこへだって行けるから。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

逃避行 麻空 @masora_966

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ