第4話

 僕らの足を引っ張るものはもうなかった。

 僕らは早足で公園を抜け出して、大人の群れを避けていく。

小さな小さな棘が体の中から抜け落ちたようだった。

ずっと、逃避行の最中だって僕が抱えていた違和感がもう無い。


 走る僕らの口に濃い空気が流れ込む。

 これでもかってくらい、息をする。

 今、心臓が揺れるのは動悸のせいじゃない。


 アガっているから。


 ニヤけてしまう。


 広い道路を渡る。そしたらすぐ、海がある。

 数年ぶりに僕は砂浜を踏んだ。ジワリと僕の靴が沈む。

一歩ずつ、確かめるように僕は歩いた。


 「誰もいないね」


 牧野は嬉しそうに言った。

 夜の砂浜には誰もいない。背中の方角にある街の光がうっすらと照らしている。

それは漏れた光だ。僕らを照らす意思がない。


 それから牧野は勇んで靴を脱ぎだして。素足で砂を踏んだ。


 「君も脱ぎなよ」

 「嫌だよ。砂で汚れる」


 ノリが悪いのは元からだ。

 ベーッと牧野は舌を出してから僕に背を向けた。


 「走ってくる!」


 子供みたいに駆け出す牧野を僕は歩いて追った。

キュッと砂を踏んで、足を取られつつ歩く。

 僕が波打ち際についた時、牧野はもうふくらはぎまで浸かっていた。


 海は暗かった。僕らの後ろで点々と灯る街灯のほのかな光だけが、

砂の先にある水の揺れる様を僕らに知らせている。

 見渡す限り僕らしかいない、澱みのない場所がある。


 「ねえ」


 牧野は僕より海に近い場所に立っている。


 「私ね、大人になんかなりたくないの」

 「うん」


 牧野のその言葉が、今になって狂おしいほどよくわかった。

別に僕は大人になりたいわけではないのかもしれない。

年を重ねて、成熟していくことが自然だったから、大人になりたかっただけだ。


 本当は、子供のままでいたい。


 「どうせ、大人の世界はクソだよ」

 「女性がクソなんて言わないでよ」

 「子供だったら、口が汚くても構わないでしょう?」


 牧野の白い足が海水を踏む。

 海水が跳ねた。

 彼女のショートパンツの裾まで海水が跳ぶ。


 服が濡れることを彼女は厭わない。

 後先なんて考えない子供のように。


 「どれだけ身長が伸びても、私は子供なんだ」


 牧野は両手を広げて、体を海に預けた。背中から、倒れ込む。


 轟音。


 人一人分の海水が牧野によって跳び上がった。

 僕の頬に容赦なく飛び散った。


 「馬鹿じゃないの?」

 ちょっと厚いパーカーを着ているのに。牧野はそんなことも厭わず海に委ねていた。

浅瀬の海で、一人少女が浮かんでいる。水面で髪が絹みたいに広がっている。


 「子供はみんな馬鹿だよ」


 そう言いのける牧野のことが僕は羨ましい。


 「ねえ、どうやったら子供のままでいられるかな」


 僕にはわからないのだ。子供でいられる姿を想像できない。

大学行って、就職する未来もうまく見えないけど、無邪気なままでいる自分も見えない。


 「そんなこと考えていたら老けちゃうよ」


 牧野は体を起こす。持ち上がった水滴がいくつも跳ねた。


 牧野は僕に手を差し出す。砂浜に立つ僕は、まだ、少女を見下ろしている。

僕は一歩彼女の方に近づいた。こちらに向かってきた波が爪先に当たる。

 靴が濡れた。


 「僕は、何も考えないでいたいんだ」


 相手の顔を伺うことは、慣れることなく苦痛であり続けた。

完全な答えみたいなものもないくせに、答え合わせさえも大人は許してくれないのだ。

牧野とだったら、そんなこと考えずに生きられるかもしれない。


 底まで見せてくれるこの少女となら、僕は呼吸が楽なのかもしれない。


 それなら、牧野と同じ場所にいたい。


 僕は牧野の手をとる。


 牧野は子供のものとは思えないような力で僕を引っ張った。

不安定な砂浜に立っていた僕は足をもつれさせる。


 倒れた。

 海の方へ僕が倒れた。

 二度目の轟音。


 僕は海へ倒れ込む。

海水を飲んでしまった。鼻がジンジンして痛かった。

すぐに服は使い物にならないくらい海水を吸っていった。

肌に張り付いて、髪も濡れていて。着替えなんて持っていない。


 どうでもよかった。


 浅瀬に腰を降ろして見上げた空はあの街と変わっているはずもない。

それでも綺麗に見えるのだ。星なんかに興味なんて無いくせに、

星座の名前八十八個を覚えてみてもいいような気がした。


 「来て正解だった」

 「いいじゃん」


 ニヤッと笑う牧野。


 「うん、最高」

 「じゃあさ、もっと濡れても構わないよね?」


 そう言うや否や、だ。牧野は繋いでいた手をもう一度力任せに引っ張りやがる。

エモーショナルな気分が置いてけぼりになり、僕はまた海水に倒れる。今度は目に水が染みた。

 僕らは握った手を離さなかった。


 「このやろう」


 僕は牧野の手を思いっきり引っ張る。


 「キャアッ!」


 水飛沫。

 それからしばらく、くだらないケンカが続いた。

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