第3話



満腹な僕らを乗せた江ノ電が人家の間を走っていく。

それがなんだか新鮮で、その異国感に、僕は安堵してしまっていた。




 僕らの街から、海はそれほど離れていないのかもしれない。

 そのくらい淡白な気分で潮風を浴びていた。

まだ海は見えないけど、少し歩くだけの距離に海があることを感じる。

そんな場所までもう来てしまった。


 昼間、授業を受けていたなんて、嘘みたい。


 「随分遠くまで来ちゃったね」


 牧野の感傷的な言い方にちょっと笑ってしまう。


 「まだ隣の県だけど」


 現実的に、夕方から行けるのが江ノ島だった。


 「逃避行しているんだから、気持ちから入らないと!」

 「言われなくても」


 秘密基地を作る時みたいな、そんな特別感で染まっていた。

僕だって、それにワクワクしちゃうくらいには子供。

 その高揚感があるから、いつものような息苦しさは随分和らいでくれている。

電車二時間半分の距離だけ僕らは逃げ出して、 そしたらやっと息がしやすい。


 「元気そうじゃん」


 僕の顔を覗き込んで、ニッと笑う。

 実際心持ちは異様に安定していた。学校にいるよりも、渋谷にいるよりも、ずっと今の方が心地良い。

肺にスッと流れる空気を楽しむ娯楽に今まで気付けないでいた。


 「ねえ、そこでクレープ食べない?」


 牧野だってはしゃいでいる。


 「君も随分元気そうだね」


 今夜はクレープもキメることになった。

牧野のゴテゴテにトッピングされたクレープ。僕はノーマルなチョコバナナ。

隣の芝生が派手すぎて、僕のがやたらと質素に見えた。


 牧野はクレープを食べるのが恐ろしく下手くそで、

ほっぺにホイップなんて子供みたいな絵面を僕は笑った。


 あっという間にクレープは無くなって、僕らは海のある方へ道を下っていく。

 僕ら以外みんな駅を目指していた。みんな帰っていく。


 人の波に逆らうなんて不自然だ。


 僕がずっと避けてきたその行為を、今は気にも留めずにできている。

どこへだって行ける気がした。海の先にだって行けるような、そんな馬鹿みたいな錯覚さえするくらいに。

 牧野の方を見る。キャップから降りているポニーテールが、犬のしっぽみたいに振れていた。


 「辛いのは無くなった?」

 「うん」


 爽快だった。


 「全然辛くないよ」

 「それはよかった」


 誘った甲斐があった。そう付け足して牧野は微笑む。


 「でもさ、結局隣の県止まりだった」

 「僕らが大人だったらもっと遠くに行けたのかな」


 自由なお金があったなら、僕らは新幹線に、それこそ飛行機にだって乗れたはずだ。


 「だとしても私は大人になんてなりたくない」


 急に不機嫌になったような、子供が駄々をこねるみたいな声で言う。

ムスッとへの字に曲がるピンク色の唇。


 「僕にはよくわからないな。

  大人になるならさっさとなっちゃいたいと思う」


 時間に流されるなら、僕はいずれ大人になる。それが自然。


 「私はなりたくない。みんな、どんどん不鮮明になっていくでしょう?

 子供ならもっとシンプルなのに、大人の言葉は曖昧だよ」


 それは、僕にもよくわかった。だって僕が息苦しい理由はそれだから。

相手が不鮮明だから、いらない想像ばかり浮かんでくる。

 そしたらまた息が詰まる。


 「私は子供のままでいたいよ」


 将来の夢を語る幼稚園児みたいに胸を張るから。

 できるんじゃないかって。そう、僕は錯覚してしまう。

抗えるはずがないってことはわかっている。


 でも牧野といられれば、時間稼ぎくらいはできる気がしてしまうのだ。




 それから海に行く前に公園で立ち止まったのは。

子供でいるための儀式だなんて大それた動機なんかではなくて。

 ただ疲れたから。


 ブランコに二人で並んで座る。足はべったり地面についた。

 錆びた鎖を弱く握って、暗い公園で僕らは揺れる。

膝をぐっと曲げて、ようやっと僕らの体は宙に浮いた。


 「もう滑り台には乗れないね」

 「シーソーなら乗れそうじゃない?」


 何も考えずに僕は言う。

 牧野が殺人鬼のように睨む訳が分からなかった。


 「それで古谷の方が軽かったら、私、君のこと殺しちゃう」

 「オーケー、シーソーは乗らないことにしよう」

 「よろしい」


 夜の公園は時間が止まっているようだった。僕らが腰掛けた

ブランコだけが運動をやめられずにいる。一本しかない灯りも、滑り台も、シーソーも。

どれもあらかた寂れている。ワニをモチーフにしたゴミ箱も、錆びてて可愛げがない。


 また、スマホが鳴った。


 母からの着信は、しつこく公園に反響する。

 スマートフォンは逃げ出した街と繋がっていた。

眼に見える、時間的距離なんて無いようなものだった。


 親の僕を案ずる音だってわかってる。

 それなのに、着信音が動悸を催させる。


 「それ貸して」


 それを言い切る前に、牧野は僕からスマホを奪い取った。


 「え」


 牧野は投げた。

 フォームは馬鹿みたいに綺麗だった。

 腕がしなやかに、鞭のように振られる。

ぶん投げられた僕のスマートフォンが真っ直ぐ飛んだ。


 それはゴミ箱へ導かれる。その口へ飛び込むと、

僕のスマホは箱の中でめちゃくちゃな音をたててそれから。


 母からの着信は止まった。


 遠く遠くの波の音だけが聞こえている。僕も、牧野も口をつぐんでいる。

叱られるのを恐れる子供みたいな顔した牧野が僕の足の辺りを見ていた。


 「それはやばいよ」


 僕のスマホはぶっ壊れたのだ。ゴミ箱の中身を漁る必要もない。

それくらいひどい音が派手に鳴った。


 牧野は声も出さずに頷く。

 上目遣いにこちらを見るその目には、涙が溜まっていた。


 「スマホ壊されちゃったから、今日はもう帰れないね」


 もう逃避行しか僕にはなくなった。


 無茶苦茶されても、怒りなんてあるわけがなかった。

だって僕ができないことを、無鉄砲にやってみせたのだから。

カッコいいなんて思ってしまった僕もイカれているのかもしれない。


 牧野はギュンと顔を上げて。

 泣きそうな目をしているくせに、ふんずとドヤ顔なんて浮かべていやがる。


 「どういたしまして!」

 「ふざけんな」


 僕は牧野を小突く。

 ヤバい奴だと、心から思った。後先考えてないことがよくわかるし、

数万円する物をあんなにも躊躇なく投げ飛ばせてしまうその馬鹿さ加減に、


 憧れた。


 「海、行こ!」

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