第2話

 「辛い」


 あの時牧野に漏らしたのはたった一滴の吐露だった。

 

 ほんの数時間前だ。僕は牧野と学校から帰っていただけ。

記憶にも残らない雑談の隙間に僕はその声を落とした。


 その言葉に理由はないのだと思う。

外傷だとか、涙だとか、そういった類の目に見えた理由なんてなかった。

 水の入ったコップに砂一粒ずつ落とすような。そんな些細なきっかけしかない。

 

 ただ日々生活して、人と会話して、相槌を打っていただけだ。

 みんなに倣ってそれを続けてきたけれど。それがどうにも辛かった。

目を瞑って歩いている心地がしていた。


 辛いって言葉が漏れたとき。

 僕は体温が急激に上がるのを感じた。背中には汗が溜まって、顔は見なくても紅いのがわかる。

5月の微風が無意味に感じて、夕日の熱だけがやたらと強調されていた。


 恥を、牧野に見せた。


 その不自然に僕は恐怖した。口をうまく動かせなくなった。


 「息苦しいんだよね」


 涼しい顔して牧野がそう言った。

牧野は僕のことを見透かすようだった。


 僕は息苦しい。僕は牧野に頷く。


 「私も、今日みたいな生活がずっと億劫で仕方ないの。

  こんな街から出てさ、澄んだ空気を吸いに行こうよ?」


 牧野が僕に手を差し出す。

 その、白い手は陽の光でぼんやり紅く見えて、優しかった。


 「じゃあ、15分後に集合ね」

 「今から行くの?」

 「逃避行だよ。衝動的じゃなくっちゃ」


 僕は笑った。駆け足で家へ帰り、あるだけお金を財布に詰めた。

15分後。私服になった僕らは手を繋いで街を抜け出す。




 夜にどこかへ抜け出したい。

 それは間違いなく僕の願望だ。


 願望を実現する過程はいつだって不安定だ。まだ動悸がする。

人が減っていく電車の中、体が段々重くなるのを感じていた。

 隣で牧野が寝ている。車輪の音だけが僕の耳に入ってくるのが寂しかった。

電車が振動する時、体が浮遊した気がして不安だった。


 窓の向こう。


 僕らが知らない街が、幾つも、瞬間ごとに通り過ぎていく。

人々の暮らしの隙間を縫って、僕らは海を目指していた。

逃避行なんてまともな行動なはずがない。


 だから、動悸がするのは真っ当だ。僕は不自然であることに動悸を抱く。


 それが、古い僕が抱いていた生存本能。


 それを今僕は無視している。そうしないと、遠い場所に行けないのだから。

だから今は眠ってやり過ごせばいい。

 飄々と、目を瞑る。




 「牧野、降りるよ」

 「海着いた?」


 細い目をした牧野を僕は無理やり立たせる。


 「まだ。乗り換えないと行けないってさ」

 「電車一本で行ければいいのに」


 そう上手くはいかなかった。電車の目的は海へ行くことだけじゃないから。


 中都市に降り立った。別に、渋谷でなくともどこでも日本は明るい。

深い闇なんてそこにはなくて、街灯が辺りを効率的に照らしている。


 「ねえ、私すっごいお腹減った」

 「それな」


 もう21時になる。昼休み以来水さえ口にしていなかった。

 知らない場所に行くほど、僕の体は少しずつまともに戻っている。

喉も乾いたし、腹だって空っぽだった。


 これ見よがしに置かれていた牛丼屋に僕らは吸い寄せられるようにして入った。

中には若いサラリーマンが二人だけ。僕らは食券を片手に足長な椅子に乗り上げる。


 牛丼は早い。

 牧野につられて買い足した豚汁と共にすぐさま僕の前へ並ぶ。

揺蕩う湯気を前にしてしまうと、たまらず僕らは箸を縦に割った。


 「いただきます」


 律儀な小声が横から聞こえる。僕も倣って囁いた。


 汁っぽい米や、染みてる牛肉を噛んでみると、

素晴らしい多幸感に包まれる心地がしてたまらなかった。


 逃避行の最中の食事は深夜のカップ麺よりもずっと罪悪感を抱かせる。

つまり妄想の中で僕と牧野は秘密基地を共有していた。そこで牛丼をつつくのだ。

それが至高だった。


 忘れられない食事をした。


 「めっちゃうまかった」


 腹を満たした僕らは夜の空気を吸って語る。

人の気が少ないせいか、声が跳躍して響いている。


 「私大盛りにすればよかった!」

 「太るよ」

 「電車に乗るのも運動だと思わない?」

 「電車の揺れを運動って言ってる?」


 ちょっと会話が不毛になってきたからスマホへ逃げる。

 路線アプリでサッと確かめた。あと一つ電車に乗ればそこに海があるようだ。

スマホのない逃避行をしたらもうちょっと不便だったのだろう。

闇雲になって、辿り着くことすらままならなくなる気がする。


 「時間も丁度良さそうだね。私、江ノ電に乗るのって初めて」

 「僕も」


 不意を突いて。


 バイブレーション。母からのメッセージだった。


 『今日は遅いの?』


 誰にも伝えず逃げ出した。家で支度した時僕は適切な誤魔化しをする気も起きなかった。

『旅に出ます』だなんて置き手紙をする考えも浮かばなかった。


 「どうしたの?」


 牧野が僕のスマートフォンを覗き込もうとするから、思わず僕は画面を暗くした。

逃避行の途中なのだ。僕はもっと無鉄砲になっていい。問題の後回しは、今に限っちゃ最適解だ。


 「なんでもない、行こう」


 僕が先んじて立ち上がる。

 この逃避行は僕のためのものだから。

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