逃避行

麻空

第1話

 夜にどこかへ抜け出したい。


 それは、僕にとって、少し大きすぎる願望だった。

その証拠に、渋谷のセンター街で青信号を待つ僕の足は、ふやけているような。

そんな言いようのない浮遊感に満ちていた。


 「逃避行らしくなってきたね」


 牧野 楓が僕に微笑む。やけに無邪気な笑みを浮かべていた。


 「うん、楽しい」


 僕は細く息を吸う。

 同じ東京でも、僕らのいた街とここでは随分違う。

鼻をつく臭いが仄かにする。目の前では自動車が切れ目なく通り過ぎ、

混沌みたいな騒音が僕らの鼓膜を乱暴に揺らしている。


 それなのに、息苦しさが紛れていく気がした。


 「私って、学校サボったことないの」

 「そうなんだ」

 

 少なくとも僕が見てきた高校での一年と少し。その間で僕が四度休んでも、

牧野は一度だって休んでいない。今日だって放課後になってやっと電車に乗り込んだくらいだ。


 「でも皆勤賞も今日で終わりかなって」


 無鉄砲な逃避行だ。明日が平日であることなんて頭になくて、

休日を待てるほどの余裕が僕にはなかった。

 

 「ねえ、古谷がこの前休んだのはズル休み?」

 「風邪だよ。牧野みたいに丈夫じゃないから」

 「今、なんとかは風邪をひかないって思っているでしょ?」

 「ちっとも思ってなかったから邪推しないで」

 「本当かなあ」

 

 バカだなんて思っているわけじゃない。

ただ時折見せる短略的な思考に呆れたりはする。


 「ねえ、信号、青になってる」


 僕らは周囲に倣って横断歩道を渡る。


 ぐわんと押し寄せる人の波。もみくちゃだった。

 どこに逃れようにも人がいる。背の高い大人が幼い僕らの視界を狭めた。

牧野は僕の手を強く引いた。足早に群れの中を抜けていく。


 犬の銅像の前で人々は漂っていた。僕らもその一部になる。


 「渋谷に心残りはない?」


 牧野はうかがうような目配せをした。彼女も僕と同じような感想を持ったのだろう。

僕らはそろそろここから出たい。街から出て、渋谷に降り立って、

たった一時間の散策でもう飽きがきてしまっている。


 知らない都会に多くを期待していたわけじゃなかった。


 「そもそもここで何ができるのかってあんまり知らない」

 「私も。渋谷にいなくてもできることって多い気がする」

 「元も子もないね」


 それでもあの街にいた頃より息ができているのは確かだった。


 「僕にとっての今日の収穫は都会が臭いってことだね」


 クックッと牧野は肩で笑う。


 「来ちゃったこと、後悔してる?」

 「全くしてないよ」


 それは確かだった。だって、ここにいる大勢の他人が僕らに興味がない。

好き勝手に雑多な格好した人が、好き勝手にここでたむろしているだけだ。

それがどうにも気楽でよかった。


 振り返る。人と人が交差する街があった。

目に残るネオンが灯りだした渋谷の街は、僕らよりずっと大きく、鮮やかで、ちょっと臭って。

そして僕らに対して無関心でいた。


 残酷すぎるくらい世界は大きかった。


 「ねえ、次はどこ行く?」


 僕の問いに牧野はニッと笑う。


 「どこへだって行けるね」


 牧野は随分愉快そうだった。彼女の言う通りだと思う。

帰る気概なんてちっともない僕らは戻らず進むだけだ。

そしたらどこへだって行ける。


 「都心の空気は苦手だってことはわかったな」

 「じゃあ自然豊かなとこ?」

 「うん」


 できるなら、澄んだ空気が吸いたかった。

 僕らに無関心な大都会の中でなら、息はちゃんと吸えたけど。

 

 「海へ行きたい」


 口をついて出た言葉だった。

劇役者みたいな息の多い声をした。牧野は目を丸くしている。


 「なんか・・・ありきたりだねっ」


 嬉しそうで小馬鹿にしたようなニマニマとした顔がちょっとだけ癪だった。


 「うるさいな」

 「ごめんって。海ね、逃避行っぽくていいじゃん」


 受け入れてくれるから恥ずかしくなる。


 「幼くてありきたりで悪かったね」

 「幼いってのは君の勝手な邪推でしょ!」


 いやどうかな。

 冷え切った目で牧野を一瞥し、早足に改札の方へ歩く。自然な流れで僕らの手と手が離れた。

たくさんの大人に挟まれながら僕は改札を抜けた。


 牧野の小刻みな足音が僕の背中を追ってくる。


 「でも、私に言わせりゃ幼いのは美徳だよ」


 そうなのだろうか、僕にはちょっと判断しきれない。

なるたけ早く、大人になってしまった方が楽なような気がしてしまう。

人の流れに乗って僕は階段を登る。海へ向かう。


 「ねえ」


 後ろから僕を呼び止めた牧野は階段の前で足を止めていた。

舌打ちをしたサラリーマンが僕と牧野を迂回して階段を登る。


 牧野は僕に小さな手を差し出した。


 「うん」


 握り直した。

 離していたのは短い間だけど僕の手は乾いていた。それが幸い。


 渋谷のホームも端っこに行けば人の密度は薄まる。

ぶら下がった蛍光灯から埃が、金粉のように舞っていた。


 「もう辛くはなくなった?」


 あの街で生活していた頃。僕はずっと息苦しかった。


 「随分マシだよ」

 「きっと海に行けばもっと良くなるね」


 まだ、完璧とは言い難い。よくわからない不安感みたいなものが

無理やり鼓動を早めている。その心臓の速さが僕に息苦しさを自覚させた。

上手に生きられないことを思い知る。


 僕らの前で、電車が止まった。

 

 「行こう」


 遠く遠くに行ってしまえば。僕は今より生きやすくなれるのだろうか。

 わからない。


 それでも帰路を辿るなんて選択よりかはずっと魅力的に見えてしまう。

だから、幼い僕らは帰路とは反対の電車に乗り込む。


 遠い場所へ僕らは向かうのだ。


 電車の隅っこの長椅子に、身を縮めて僕らは座った。


「もうすっかり暗いねえ」

「そうだね」


 向かいの窓。その先にある空は深い群青で、明るい車内からは星があるかも

よくわからなかった。細い月だけが辛うじて浮かんでいるのが見える。

 むしろ、窓は身を寄せ合う僕らの方を鮮明に反射した。


「デートの帰り道みたい」


 甘ったるい声。


「帰り道じゃないけどね」

「つまり今日は帰さないよってやつ?」

「全然そんな意図で言ってない」


 月が綺麗くらいに曲解だ。


 「うん、知ってる」


 そう言って牧野はニンマリ笑った。


 「ねえ、君にも好きな人一人ぐらいいたことないの?」

 「いない。僕って恋愛、一生できない気がする」


 好きな人を見つけて、会話してみて、付き合って、触れ合って。

そういうプロセスを踏むことに現実味を感じられない。


 「・・・私も」


 牧野は随分穏やかそうな顔をしていた。


 「子供が思い浮かべるような理想の恋愛ってできないと思う。どうせ、綺麗にはいかないんだよ」

 「彼はダメだったの?」


 ほんの半年前だ。確か、写真を撮るのが趣味の男子がクラスメートにいて、

ほんの一ヶ月だけでも牧野は恋愛をしていた。

 僕からは幸福そうに見えたけど。


 「恋愛ってもっとシンプルで綺麗だと思ってたの。

 でもね、彼とのそれはもっと複雑で見通しが悪くてしんどかった」


 夢みたいなことを言う。

 経験さえ僕には無いけれど、お互いが人である限り僕らは互いに距離を測るし、

完全な一途なんてどこかに存在する訳でもない。


 「それにね、彼は古谷みたいに逃避行についてきてはくれなかったんじゃないかな」

 「僕のための逃避行でしょ?」


 牧野は被った方だと思う。


 「違う、私のためでもあるの」


 その声は有無を言わせない風で、これ以上言っても無駄だった。


 「君とだから、逃避行できるんだよ」


 その牧野の声は澄んだものではなかった気がする。


 「少し寝るね」

 そう少女は小声で付け足した。

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