第5話 目と目が合う

「赤羽さん、決して私の前には出ないように」


「は、はい…」


 善幸が半ば唖然としながら頷くのを伊織は確認するのと同時に土煙の中からソレはゆっくりと姿を現した。


『ヴヴヴヴ……』


「……よりによって目一鬼ですか。牛鬼と言い、今日は厄日か何かですか」


 辟易した様子でボソリと伊織が呟く。

 ドスンドスンと足音を鳴らしながら近付いてくる巨大な悪魔、目一鬼はその顔の中心にある巨大な瞳で二人の姿を捉える。


「…………」


 ————でっか。


 まるで小学生のような感想を抱きながら善幸はその巨体に気圧されるように一歩、後退ろうとしてゆっくりと足を動かした。そうして下がった右足の踵が床に転がっていた石に当たり、コンと小さな音を鳴らした。


 それが意図せずして開戦の狼煙となった。


『ゴォッ!』


「ッ!」


 ギラリと輝く牙を見せ付けながら襲い掛かってくる目一鬼を迎え撃たんと伊織も足を一歩踏み出して間合い侵入する。勢いよく放たれる丸太のような拳に対して伊織は正確にその軌道を読んで刀を備える。


 拳と刀が火花を散らしながら衝突し、刀から伝わってくる重圧にこのまま受け止めることは危険と判断した伊織が刀身を傾けようとして————背後の善幸の存在を思いだし、咄嗟に足に力を込めてその場に踏み留まろうと試みる。


「ぐッ……!」


 目一鬼の拳を受け止めた衝撃によって伊織の足元が陥没し、その可憐な顔立ちが苦悶の色に染まる。


 その様子を見た善幸が溜まらず叫ぶ。


「朝山さんッ!」


「問題ありません!」


 善幸の言葉を制するように伊織は告げると素早く懐から何かの文字が書かれた一枚の札のような紙を取り出し、目一鬼に向かって放つ。ひらひらと宙を舞った紙はそのまま目一鬼の胸元に張り付くと途端に光を放って爆ぜた。


『グゥッ!?』


「フッ!」


 爆発をゼロ距離で諸に浴びて呻き声を漏らしながら体勢を崩した目一鬼の懐に入ると刀を袈裟に振るう。モロに入った一撃は宙に目一鬼の胴体に鮮血の斬痕が刻み、悪魔はその鋭い痛みに思わず唸り声を上げる。


『ォォオオッ!!』


 思わぬ反撃にその大きな一つ目に怒りの感情を滾らせた悪魔は雄叫び上げながら伊織を頭から潰さんと腕を鈍器の如く勢いよく振り下ろす。善幸からすれば回避することが叶わないであろう速さで振り下ろされる拳は、けれども伊織からすれば遅いと言わざるを得ない速さだった。


 彼女は素早く後方へと跳躍してコンクリートの床を砕く目一鬼の一撃を危なげなく回避するとそのまま善幸の隣まで後退した。


「申し訳ありませんが、もう少し離れて下さい。巻き込み兼ねないので」


「俺も何か……いや、分かった………」


 隣に来た伊織の指示に善幸は半ば反射的に自分も何か力になれないかと言おうとするが、先程の目一鬼の攻撃を思い返して役に立たないどころか足を引っ張り兼ねないと判断して大人しく後方へと下がった。


「…………ふぅ」


 指示に従い後退した善幸の姿を横目で視認した伊織は小さく息を吐くと刀を構え直し———力強く床を踏み込んだ。


 途端に伊織の身体がブレたかと思うと次に善幸が瞬きをした瞬間には目一鬼の背後に彼女の姿はあった。


『グゥッ!?』


 すれ違い様の一閃。

 鮮血が舞い、腕に赤い線が刻まれる。僅かに遅れて痛みで斬られたことに気付いた目一鬼が背後へと視線を向けるが伊織の姿を捉えることは叶わず、その頃には逆側に回り込んでいた再び無防備な背中に刀を叩き込む。


『ォォォオオ!?』 


「愚鈍で助かりますね」


 再び走る鋭い痛みに振り向き様に目一鬼が必殺の拳を放つが、やはりそこに伊織の姿は無く強く握り締められた拳は虚しく空気を殴り付けるだけに終わる。


 そんな目一鬼の姿を嘲笑いながら刀を握り直した伊織は再び斬っては反撃を試みる目一鬼の拳を躱し、また斬っては拳を躱すというヒットアンドアウェイを繰り返すことでダメージを蓄積させていく。


「…………」


 コンクリートを簡単に砕けるほどの力で拳。当たれば命の保証などできないであろう一撃を何度も振るってくる恐ろしい怪物に対して自分よりも幼い少女が余裕を見せながら戦う姿に善幸は息を呑んでいた。


 悪魔と呼ばれる怪物を圧倒する伊織の剣術の技量は勿論だが、それ以上に恐怖や辛さを欠片も感じさせない彼女の立ち回りだ。


 確かにあの鬼に対して速さで勝っている伊織は現状、鬼の攻撃を危なげなく躱し続けているが、それでも拳の威力は一発でも喰らえば致命傷になりかねないことには変わりない筈だ。


 なのに何故、あそこまで接近して戦うことができるのか。



 ———怖くないのか?


 そんなことを考えて無意識に油断していたことが善幸の仇となった。



『ォォォオオオオオオッ!!』


「……なッ!」


「ッ!?」


 業を煮やした目一鬼は雄叫びと共にその剛脚を上げるとそのまま床を踏み抜く勢いで下ろした。目一鬼の足裏が床に衝突すると同時に轟音が響き渡る。

 元々ボロボロだった床にひび割れが広がっていき、やがて耐え切れなくなった床は音を立てて崩れ始めた。


 突然のことに当たり前ながら対応できない善幸が体勢を崩しながら割れ目から落下しそうになるのを助けに向かうべく伊織が崩れ始める床を軽やかに走り出す。そして同時に伊織の行動を邪魔せんと走り出した彼女の横合いから殺意の込められた拳が飛来する。


『ガァッ!!』


「………くッ!」


 伊織は咄嗟に刀を盾替わりにして必殺の拳を受け止めるが、不安定な足場でその勢いまで抑えることはできず、枯葉の如く吹っ飛ばされて建物の外へ放り出される。標的を伊織のみ絞っていた目一鬼も床を砕きながら伊織の後を追い、建物には瓦礫と共に落下する善幸のみが取り残されることとなった。


「噓だろッ!?」

 

 落ちる善幸は下の階の床の惨状を見て思わず叫ぶ。

 どうやら先程の衝撃によって崩れた床は3階だけでなく一つ下の2階の床にまで影響を与えいるらしく、運悪く2階の床の割れ目の部分落ちてしまった善幸はそのまま一番下まで落下することになった。


「うおぉぉぉおおッ!?」


 落下していく善幸にできることは情けない悲鳴を上げることと一緒に落ちている大きな瓦礫の下敷きにならないことを祈るだけだった。



*****


「…う……あ?」


 土煙が舞う中、意識を失っていた善幸がゆっくりと顔を上げると瓦礫が辺りに散乱したまるで爆撃でも受けたかのような惨状が視界に広がっていた。


「……一体、何が……ぐっ」


 意識があやふやな善幸は何事だと唖然としていたが、頭や身体に走る鈍い痛みに思わず顔を顰めながら意識を失った直前の記憶を思い出す。


「……そうだ、俺はあの鬼のせいで…落ちたのか」


 顔を上げて所々崩れている天井を見上げながら善幸は呟く。そうだ、忘れていたが今は異世界に迷い込んで妖魔に襲われているところだったんだ。


「あの鬼は…それに朝山さんは?」


 キョロキョロと周囲に視線を向けるが姿どころか気配まで感じ取れない。どこか離れた場所で戦っているのか、或いはどちらかがやられたことも考えるか。


「……いや、そもそも俺はどれくらい気絶して」


 腕時計へと視線を向けるが落下した時に何処かにぶつけたようで時間が確認できるような状態では無かった。外の様子から時間の経過を確認しようにもこの世界に朝や夜の概念があるかも怪しく、判断が難しい。  


 善幸の感覚ではそれほど時間が経っているようには思えないが、実際のところは分からない。下手すると丸一日気絶していたなんて事もあるかも知れない。


「とにかく……朝山さんを探さないと」


 この状況、彼女が無事かは分からない。恐らく彼女の実力なら大丈夫だとは思うが、それでも仮にあの鬼にやられていたとしたら今、彼女を助けられるのは自分しかいない。這ってでも探す必要がある。


「……痛っ、クソ」


 けれど身体を動かそうにも落下の際の衝撃で足の骨でも折ったのか右足を動かすことができない。無理矢理、動かそうとしても鈍い痛みが走ってやはり動けない。


「……いや、何とかして朝山さんを探さないと…ッ」 


 一瞬、全てを放り投げて諦めようとした善幸はけれどもすぐに首を横に振ってその考えを払う。


 そもそも伊織の話を信じるのならば門銃ゲートガンが無ければこの魔都から脱出することはできない。自分の為にも何とかして彼女を探す必要があった。


 善幸は自分に喝を入れると立ち上がることを諦めて腕の力を使って地面を這いながら移動を開始する。


「……ぐッ」


 ズルズルと足を引き摺る足が地面の割れ目や瓦礫に当たる度に尋常じゃない痛みが善幸を襲うが、それに耐えながらゆっくりと地面を這い続ける。


「はぁ、はぁ…」   


 とりあえず移動はできているが、予想以上の疲労感に苛まれる。そんな長距離を移動している訳でもないのに腕が鉛のように重くなっているし、呼吸も荒くなっている。


 けれども止まっている訳にはいかない。恐らくここが正念場だ、生き延びる為にも頑張らなければ……。


 善幸はそう自分に喝を入れながら再び前に進もうと顔を上げ————いつの間にか真っ正面にいた蛇と目が合った。


「…………」


『…………』


 動揺。困惑。混乱。

 とにかくに予想外の事態を前に静かにパニック状態に陥った善幸はただ無言でこちらを見つめる蛇と見つめ返していた。


 白い鱗を纏ったどこか神秘的な印象を与える蛇だった。


 ジッとこちらを見つめる赤い瞳からは何の感情も読み取ることはできないが、その小さな身体から放たれる重圧に善幸は直感的に目の前の蛇は危険だと悟る。恐らく猛毒でも持っているに違いない。


「…………」


『…………』


 蛇に睨まれた蛙の如く身体を硬直させる善幸だったが、一方で思考だけは高速で動かしていた。


 いつの間に?いや、そもそもこの蛇は何だ?この世界にいるってことはコイツも悪魔か?だとしたら、どうすればこの場から穏便に逃げられる?


 とにかく逃げなければいけないことだけは明確に答えとして出ているが、今のこの状態で襲われたら間違いなくやられる。確か蛇の這う速さは一番速い個体で時速16㎞ほどの筈だ。万全な状態ならともかく、今の状態ではまず逃げられない。


 となると下手に動いて蛇を刺激するよりもここは大人しくして蛇の関心が目の前の自分から他に移ることを狙った方がかしこ——カプッ――――ゑ?


「…………」


『…………』


 まるで針でも刺されたかのような痛みが右手に走り、善幸がゆっくりと自身の視線を右手に向けているとそこには大きく口を開いた蛇が噛み付いている姿が視界に入った。


「ぁ……」


『シュルシュル』


 あっという間に牙から注入された毒が全身に回り、白目を剥きながら善幸が意識を飛ばす。


 白蛇はそんな気絶した善幸の姿をシュルシュルと舌を出し入れしながら確認するとだらしなく開いている善幸の口を通って体内へと侵入したのだった。









「んん…?」


 暫くして一人の男が善幸の倒れている現場へとやって来てどこか困惑した声を漏らしたのだった。

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