間接キス

「まったく……。早苗さなえをあの世に見送った後だっていうのに、俺は飲まずにはいられない」

 幸太郎こうたろうはぼやき、ビールの入ったジョッキを傾ける。

「アルコールで頭を麻痺させないと、呼吸すらできないんだ。すまないな、さくら。つき合わせちゃって」


「ううん」

 桜は首をふる。

「私だって、飲まないとやってらんないよ。早苗は、幸太郎の大切な恋人だったのと同時に、私の大切な友達だったんだから」


 幸太郎と桜は喪服姿である。

 今日は、早苗の告別式だった。二人はその帰り道、自然と居酒屋に立ち寄っていた。シラフではいられない精神状態だったのだ。


「ありがとう。そう言って貰えて、早苗も天国で喜んでるよ」


「でも、生きてるうちに言ってあげるべきだった。友達だよ、って。私、早苗に対してあまり素直になれなかった。喧嘩もいっぱいした。もっと仲良くしておけばよかった……」


「桜が素直じゃない性格だってことは、早苗も重々承知だったさ」


「うん……。でも、最後に会ったときも、喧嘩しちゃった……。喧嘩別れの形になっちゃった……」


「俺も同じだ。ちょっとした言い争いをしちまった。早苗、なんか知らないけどすごくピリピリしてた」


 二人は少しのあいだ、沈黙に身を浸した。それはまるで、早苗に捧げられた黙祷のようでもあった。


「ちくしょう……。いったい、犯人の目的は何だったんだ」

 沈黙の重さに耐えかねたような調子で、幸太郎はぽつりと言った。


「事件が乱暴目的じゃないことは、判明してるんだよね?」


「ああ。警察の話によれば、性的な暴行を受けた可能性は低いとのことだ。体液の類は検出されていないし、服を脱がされてもいない」


「頭のいかれた異常者の仕業に決まってる」


「おそらくその線で間違いない。見事なプロファイリングだ。無能な警察に教えてやろう」

 幸太郎はくっくと笑った。


 だんだんと酔いが回ってきて、二人は口数が増えてきた。それに伴い、酒のペースも上がっていく。おかわりを繰り返した。


「あ」

 口をつけていたジョッキを見て、桜がハッとなる。

「……ごめん。このビール、幸太郎のだったね。間違って飲んじゃってた」


 桜は気まずそうな表情でジョッキを押し、幸太郎の前に戻した。


「ははっ。べつに問題ないだろ。いまさら間接キスがどーたらって仲でもないだろ、俺たち」


「でも、なんか、早苗に悪いよ……」


「間接キスくらいで大げさだな」


「……いや、でも、よく考えたらさ、これって、本当の間接キスではないね」


「ん? どういう意味だ?」


「幸太郎は、ジョッキにキスをするために口をつけたわけじゃないよね? 幸太郎はビールを飲むために、その過程として、ジョッキに口をつけた」


「そりゃあそうだ。わざわざジョッキにキスしたがる野郎はいない」


「なら、私がそのジョッキに口をつけても、間接キスにはならない。だって、幸太郎も私も、キスを目的としてジョッキに口をつけたわけじゃないんだから」


「まあ、そうだな」

 幸太郎は曖昧な表情で頷いた。


「幸太郎がキスを目的として口をつけたものに、違う人物が同じくキスを目的に口をつける。これが、本当の間接キス。そうじゃない?」


「なるほど。じゃあ俺は今から、ビールを飲むためでなく、キスをするためにジョッキに口をつける。そしてそのジョッキに桜が同じくキスをする。これで初めて、間接キスは成立する。そういうわけだね?」


「そのとおり。でも、心から愛情をこめてジョッキにキスをする必要があるけどね。キスは愛だから」


「愛をこめてジョッキにキスか……。総理大臣になる方がまだ簡単そうだな」


「そう。つまり基本的に、この世に間接キスなんて存在しないわけ」


「異議なし」


 二人はくすくすと笑い合った。


「あー、よかった。この理屈なら、早苗を悲しませないで済むね」


「いったいどうして、こんな話になったんだっけな?」


「さあ。酔っ払いすぎて、思い出せないわ」


「俺もだ」


「私たちって、結構お酒に弱いよね。私と幸太郎と早苗で飲むときは、最後まで冷静でいられるのはいつだって早苗だった。いつも、そのあと早苗の家に泊まったよね」


「タクシー捕まえるのはいつもあいつの役目だったな。あいつは俺と桜を後部座席に座らせて、自分は助手席に座る。そして言うんだよな。『高円寺駅北口あたりまでお願いします』って……。がぶがぶ飲んだ後なのに、驚くほど透きとおった声で、さ……」

 幸太郎は、不意に早苗のことを思いだしてしまったようで、声を詰まらせた。

「でも、あいつはもう、自慢の美声でタクシー運転手に行先を告げられない。早苗は声を失ってしまった。頭のいかれた犯人が、早苗の頭を持ち去ってしまったからな」


 二人のあいだにはまた、沈黙の幕が下りた。それは二度と上がらないような重みを帯びていた。

 どちらからともなく、今日はもうお開きにしようという話になった。


「桜。今日はありがとうな。また、誘ってもいいかな? 一人だと、どうしても……」


「分かってるよ。大丈夫。いつでも誘って。話なら、いくらでも聞くから」


 桜と幸太郎は店を出て、それぞれの帰路についた。


***


 幸太郎と別れ、桜が自宅アパートに帰宅したのは、0時近くだった。

 

 彼女はシャワーを浴びるよりも、着替えるよりも先に、冷凍庫を開けた。

 冷凍庫には箱が入っている。


 その箱を取り出して床に置き、蓋を開けた。

 そして桜は、一人でぶつぶつと語り始めるのだった。


「ねぇ、聞いて。今日ね、幸太郎と二人きりで飲んだの。二人きりなんて初めて。幸太郎、また私を誘ってくれるみたい。うれし過ぎて死んじゃうかと思った」


 桜は、箱の中から何かを取り出した。


 それは、早苗の生首だった。


「ごめんね、早苗。幸太郎とをするには、この方法しかなかったの」


 桜は、早苗の唇にキスをした。

 心からの愛情をこめて。



<終>

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