白を痛めつけて
◇8月8日
三日のあいだ、黒は家の外に一歩も出ていなかった。灰原からドキュメンタリー映画撮影の協力を要請されたけど、「風邪ひいちゃいまして」と嘘をついて断った。
なんだか、何もかもが急にどうでもよくなってしまった。
黒は悟った。自分がドキュメンタリー映画撮影に協力し続けたのは、白と一緒に行動したいがためだったのだ、と。
不登校になってしまった親友と、また仲良くしたかった。映画撮影という共通の目的を利用して、彼女と繋がっていたかった。それだけのことだったのだ。
だけど白は、黒のことを初めから友達となんて思っていなかった。それを確信したとき、モチベーションは失せてしまった。
屋上の鍵は灰原に預けてあるから、自分がいなくても屋上には入れる。自分がいないことで迷惑をかけることもないだろう。
昼過ぎに、黒のiPhoneにLINEが着信した。綾香からだった。今すぐココスに来いとの内容だ。隣町にある、綾香たち行きつけの場所である。
メッセージには有無を言わさぬ拘束力があった。綾香は黒に「来られる?」ではなく「来い」と言っている。仮病を使ってすっぽかすわけにはいかない。
黒は急いで身支度を整え、自転車を走らせる。電車を使うより、場所的にこっちのほうが早いのだ。
海沿いの道を進んでいく。彼女の気持ちを反映するかのように空は曇っている。豪雨を予感させる雲だ。自転車で来たのは間違いだったかもしれない。
ココスのソファー席で、綾香と、それから朱鷺と蜜柑も待っていた。綾香は腕を組んだ格好で黒を睨みつけたあと「とりあえず座って。なんか注文しなよ」と言った。
黒は綾香の正面の席に座った。というか、そこは意図的に作られた空席だった。黒はそこに座るしかない。
黒は店員にアイスコーヒーを注文した。喉がカラカラだった。
朱鷺は目線をテーブルに落とし、気まずそうにしている。蜜柑はいつもどおり飄々とした態度で、メロンソーダをちゅーちゅーすすっている。
「聞いたよ」
綾香が口火を切った。
「なにを?」
「あんた、白と仲良くしてるんだってね?」
覚悟はしていた。その話だろうと分かっていた。
「前にも言ったと思うけど、あたしが白と関わっているのは……」
「そういう言い訳いらないから」
「言い訳って……」
「黒、あんたは、白と仲良くしてる。仕方なくじゃなくて、好きで仲良くしてる。親友同士の関係に戻ろうとしてる」
「いや、本当にあたしは……」
「お祭り」
綾香は言った。
「三日前のお祭り。あんたは、本当は白と一緒だったんだってね? ウチに嘘をついたね?」
「……」
誰かが、綾香にチクッたのだ。それは間違いない。今度は下手な嘘は通用しなそうだ。
「黙ってるってことは、認めるってことでいいんだね?」
黒はほとんど泣きそうだった。
このままじゃ、黒は夏休み明けから悪戯を受ける立場に転落する。ぶたれるかもしれないし、体操着をズタズタに切り裂かれるかもしれない。上履きをゴミ箱に捨てられるかもしれないし、椅子を外へ放り出されるかもしれない。授業中、先生に当てられて黒板の前に行くときに足を引っかけられ、クラスの笑いものになるかもしれない。すれ違いざまにお腹を殴られるかもしれない。唾を吐きつけられるかもしれない。ブスだの根暗だの罵られるかもしれない。
白にしてきたように。
黒は何も答えなかった。無言でアイスコーヒーをひと口飲んだ。味がしなかった。
「ウチさ、黒のことは信じてたんだけどな」
「その……」
「でも、黒はウチを裏切るんだね」
黒は、綾香の隣に座る蜜柑をチラリと見て、無言で助けを求めた。
でも蜜柑は気づかないふりをした。
朱鷺のことは見ないでおいた。彼女はきっと申し訳なさそうに目線を逸らすだろう。それを黒は分かっている。
気がつくと、窓の外では雨が降り始めていた。
「はあ」
綾香は大きなため息をついた。
「黒、チャンスをあげる」
「……チャンス?」
「そう。最後のチャンス」
「何をすればいいの?」
「白を痛めつけて」
衝撃を受けた。こいつはどこまで腐っているんだ。
「……ちょ、ちょっと待って」
黒は頭をかかえた。
「いくらなんでも、それは……」
「できないなら、ウチらとあんたの仲はこれっきりだから」
「……痛めつけるって、いったいどうすればいいの?」
「殴ったり、蹴ったり。方法はあんたに任せる。で、ちゃんと証拠の写真を撮って」
「写真……?」
「そう。ちゃんと傷や痣ができるように痛めつけるんだよ。それを撮影するの。こんな感じに」
綾香はスマホを取り出して操作する。そして黒に写真を見せつけた。
写真には白が写っていた。場所はたぶん学校の廊下だ。白は床にへたりこんで、こっちを見つめている。目には光がない。そして鼻血を垂らしている。
「昨日、ちょっと用事があって学校行ったのよ。そしたら白にばったり会っちゃってさ。んで、あいつがシカトこいてきたから一発ぶん殴ってやったわけ。結構きれいにキマッちゃったよ。ウケるでしょ? こいつ鼻血出してやんの。ウケすぎたから一枚記念に撮っておいたわけ」
黒の中で渦巻いていた混乱がスッと消え去った。
一瞬の静寂が訪れた。
静寂の中から新しい感情が生まれた。深くて、熱くて、暗い感情だった。
黒はテーブルに身を乗り出した。
体がぶつかって、アイスコーヒーのグラスが倒れた。中身がこぼれ、テーブルを黒く染める。
黒は右手を伸ばして綾香の髪を掴んだ。そしてそのまま思いっきり容赦なくテーブルに叩きつけた。
自由な左手はフォークを握りしめていた。テーブルのすみの入れ物からテキトーに掴んだものだ。たまたまフォークだった。掴んだものを視界に捉えるまでそれが何か分かっていなかった。
右手は綾香の頭を押さえこんでいる。
綾香は頬をテーブルに着ける恰好で顔を歪めている。
黒は左手のフォークを振り下ろす――。
「黒!」
朱鷺が叫んだ。そして彼女は黒の体を掴んで、ソファーに引き戻した。
「黒、耐えて……今は耐えて……」
朱鷺は黒の耳元で囁いた。声はかすれていた。
黒の左手からフォークが落ち、カタンと無機質な音を立てた。
その音が、一連の行動にピリオドを打った。
すべては一瞬の出来事だった。
自分でも信じられなかった。心が落ち着いていくに連れて、恐怖がこみあげてきた。自分に対する恐怖だ。
あたしは、綾香を傷つけようとした……?
フォークを顔に突き刺したらどうなるか、幼稚園児でも分かる。分かったうえで黒は行動していた。凶器を振り上げて、振り下ろそうとした。朱鷺が制止してくれなかったら、フォークの切っ先は確実に綾香を傷つけていた。
綾香はただただ驚いて、恐怖していた。行き止まりに追い詰められた窃盗犯みたいに、ソファの背もたれに背中を密着させていた。一ミリでも遠く、黒から離れようとしていた。目には涙が浮かんでいる。
店内はシンとしていた。ほかの客の視線も、すべて黒たちのテーブルに集まっていた。通路では、料理を持った店員が口を半開きにして立ち尽くしていた。
沈黙は一生続くかと思われた。オフボーカルの店内音楽が、これ以上ないってくらい際立っている。外からはザーザーと雨音が聞こえてくる。いつのまにか雨は本降りになっていた。
黒は財布を取り出し、中を確認した。五千円札しかなかった。彼女はその五千円札を、テーブルに放り投げた。
「あたし、帰るね」
黒は席を立った。
その瞬間、綾香はビクッと肩を震わせた。
「もう、あんたには従わない」
黒が綾香にそう告げると、気のせいだろうか、蜜柑がふっとほほ笑んだように見えた。
黒は店を出た。
地獄のような豪雨の中、自転車をこいだ。
心は快晴だ。胸がぽかぽかする。表情が緩んでいく。
黒は理解した。
「あたしは……」
あたしは、どうしようもなく白のことが好きなんだ。
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