映画部へようこそ

◇7月21日


 黒はいつもどおり、朝七時に目覚めた。ゆっくり朝食を食べた。テレビで星座占いを見て、自分が最下位であることに落ち込んだ。


「行ってきます」


 準備を終えて玄関を開けると、むわっとした熱気がずうずうしく抱き着いてくる。


 イヤホンをつけて音楽を聴きながら、海辺の道を歩く。


 海は晴天を映して輝いている。砂浜には、既にたくさんの海水浴客がいる。サーファーもいる。車道沿いの駐車場には、県外のナンバープレートをつけた車がたくさん停まっている。高校生よりも早く夏休みに入る大人が案外多いようだ。


 アオデンが黒を追い抜いていく。

 踏切を渡って、長い坂道を上っていく。真夏の坂道は拷問のひとつに数えられる。


 坂道を上って高台の上に到着すると、急に町が栄え始める。コンビニやレストランやオフィスビルがあちこちにあって、大通りをたくさんの自動車が行きかっている。静かさだけが取り柄の黒の家の周辺とは、まるで別世界だ。


 そんな別世界に、海高はある。顧客から巻き上げた潤沢な資金をふんだんに注ぎ込んだ私立高校。広大な敷地に建つモダンなデザインの校舎を見るたび、黒は親に対して申し訳ない気持ちになる。

 本当は、隣町の公立高校に入学する予定だったのだが、試験に落ちてしまった。黒は勉強が得意なほうだったが、ちょっと自分の実力を見誤ってしまったのだ。


 校門を通って少し歩くと、本校舎に到着した。教室の席につき、ぼんやりと窓の外を眺めた。


 やがてチャイムが鳴り、朝のホームルームが始まった。赤坂先生が出欠をとっていく。


 欠席は、白と青陽と綾香の三人だった。


 終業式を終え、放課後。


 生徒たちはみな一様に、夏休みのスタートに浮かれていた。しかし黒は浮かれてはいられない。彼女には仕事がある。


 黒は学食でさっと昼食を済ませたあと、本校舎の一階の廊下を、教室名が記されたプレートを確認しながら歩いた。「多目的室B」のプレートを見つけると、彼女は足を止めた。

 そこが、映画部の部室である。白はそう言っていた。


 扉にはめられた窓ガラスには、内側から真っ赤な布のようなものが貼られており、廊下から部屋の中を覗けないようになっている。

 

 扉の向こうから、パソコンのキーボードを叩く音が聞こえてくる。カタカタカタ……タァーン! タァーン! タッチ音はうるさめだ。

 

 iPhoneで時間を確認すると、13時ぴったりだった。

 

 黒は扉をノックした。

 とたん、キーボードを叩く音はぴたりとやんだ。

 黒はもう一度ノックした。反応はない。


「入ります」


 黒は扉を開けて、部室の中に入った。


 部室の中は雑然としていた。段ボールがあちこちに積まれていて、その中から服やら食器やら本やら馬の被り物やらサーベル(とうぜんレプリカだ)やらが飛び出している。撮影に使うのか、車椅子と卓袱台、それから南国の風景がプリントされた書き割りなんかも、壁際に無造作に置いてある。


 部屋の中央には、シャレたガラステーブルが華麗に鎮座している。テーブルの上には、開いたままのマックブックと、缶コーラが載っている。椅子は、教室で使っている普通の学習椅子だ。


 しかし人間は一人も見当たらない。


「ああ、なんだ、黒木さんか」


 すみっこのロッカーががちゃりと開いて、中から灰原が出てきた。


「……どうして、そんなところに?」


「なんていうか……」

 灰原は頬を掻きながら言った。昨日も思ったことだが、彼は相手の目を見て話さない。

「僕、けっこういろんな人から恨みを買ってるから、たまに部室に殴りこみにやってくるやつがいまして……」


「だから隠れた、と」


「ええ」


「どうして恨みを買うはめに?」


「ほら、僕、映画部ですから」


 映画部って、そんなに恨まれるものなのだろうか。たぶん普通は違う。


「それにしても、少しは片付けたほうがいいんじゃないですか? このお部屋、散らかってはいませんけど、ちょっと物が多すぎますよ」

 黒は呆れて言った。


「それがですね、すべては演劇部のせいなんですよ」


「演劇部?」


「ええ。僕、演劇部の連中と仲がいいんです。でもあの連中、最近、僕の好意に付け込んで、この部室を物置として使い始めるようになったんですよ。最初は『段ボールを二つか三つ置かせてほしい』ってだけのお願いだったのに、今ではご覧の有様です。白アリのような連中ですよ、演劇部は」


「はあ。それはお気の毒に」


「僕自身はミニマリストです。自宅の部屋だって綺麗なもんです。見ます? 僕の部屋の写真」


 返事も聞かずに、灰原はスマホを操作し始めた。


 黒は慌てて「いえいえ、結構です。灰原先輩が本当は綺麗好きなのはよく分かりましたから……」となだめた。


 灰原光。ほんとマイペースな男だ……。

 黒は呆れて、そして少しだけ感心した。


「そうですか。では、改めまして」

 灰原はスマホをポケットに仕舞うと、わざとらしく背筋を伸ばした。

「白から話は聞いています。映画部へようこそ、黒木さん」


「『青陽くん事件』が解決するまでの期間限定で、協力するだけです」


「もちろん、それで結構ですよ」


「あと、敬語で話すのはやめてください。あたし、後輩なんですから」


「りょ、了解でっす」


「まだ敬語ですよ」


「ご、ごめんだぜ」


 黒は椅子に腰を下ろした。


 灰原は部屋の隅から新しく椅子を持ってくると、テーブル越しに座るのかと思いきや、黒の隣に座った。近い。シャンプーの香りがする。この男、朝シャン派か。


「さっそくだけど、本題に入らせてもらいます……入らせてもらうぜ」

 灰原はマックブックの位置をずらして、黒が見やすいようにしてくれた。

「白からだいたいの話は聞いた。屋上のこととか、青陽くんのこととか。うん」


 マックブックの画面には、テキストエディットが立ち上がっている。そこには、昨日黒が白に話した内容が箇条書きで記してある。


「黒木さんは」


「呼び捨てで結構です」


「黒木、でいいの?」


「黒でいいですよ」


「黒」


「はい」


「黒は、青陽くんが屋上から本当に飛び降りたと思ってる?」


「うーん……。100%飛び降りていないとは言い切れない、って感じです」


「そっか。僕はね、今朝、ちょっとばかし調査したんだ」


「調査?」


「ひとまず、本校舎裏を見てみたのさ。水たまりに混じった赤い物、それを確かめようと思った。でも、さすがにもう消えていた」


「そうですか……」


「念のための確認だけど、それは、本当にごく僅かの量だったんだよね? 水たまりに混じった赤い物」


「はい。ごく僅かです。視力2・0のあたしじゃなきゃ、見逃しちゃいますね」


「仮に、青陽くんが本当に飛び降りたとしよう。七階建ての本校舎の屋上から落下すれば、かなりの量の血が流れるはずだ。でも、黒が見た血のようなものは、ごく僅かな量だった。この矛盾に、黒ならどんな答えを出す?」


「雨のせい、と答えますね。昨日はめっちゃ激しいにわか雨が降りました。血は雨で洗い流された。でも完全には洗い流されず、ちょっとだけ残った……てな感じです」


「そのとおり。誰でも分かるよね」


 言わせておいて誰でも分かるとは失礼な。


「でもね、それはおかしいんだ。だって、昨日のにわか雨は、放課後すぐにやんだんだからね」


 黒は合点がいかなかった。

 雨は放課後すぐにやんだ。それは知っている。しかし、それがなんだと言うのだろう?


「白から聞いた話によると、黒が青陽くんから自殺予告を受信したのは、15時35分だったらしいね」


「はい。LINEのトーク画面には『15:35』って受信時刻がちゃんと表示されているわけですから、それは間違いありません」


「うん。そして、そのメッセージが着信するより前に、雨はやんだ。そうだったよね?」


 そうだ。昨日、下校のために昇降口を出て、野良猫を見つけて撮影した。その直後に、雨は突然やんだのだ。

 それからまた少し猫と遊んだ後、帰ろうと正門の前まで歩いたタイミングで、青陽からの自殺予告を受信した。


「はい。LINEが着信するより前に、雨はやみました」


「ちなみに、雨がやんだ正確な時間ってのは、さすがに分からないよね?」


「そうですね。雨がやんだ時間を記録したりはしてないので……。あ、いえ、もしかしたら分かるかもしれません。正確な時間が」

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