屋上は、いわゆる密室だった

 屋上の扉に到着した。水越がマスターキーで鍵を開けてくれる。


 黒はドアノブを回して、ゆっくりと扉を押した。外で鳴いている蝉の合唱が一気に明瞭なものになる。


「あの、水越先輩」

 黒はいったん、開きかけた扉を閉めた。


「ん?」


「まずは、あたしだけが屋上に出てもいいでしょうか?」


 水越は二重瞼の大きな目を細めて、黒の瞳をジッと覗きこんだ。すべてを見透かされているような気がしてくる。


「ああ、分かったよ」


「ありがとうございます」


「それから、これ」

 水越は黒にサンダルを差し出した。

「黒木さん、上履きを履いてないみたいだったから、一応持ってきたんだ。いる? 屋上は雨で濡れてるだろうし」


「ありがとうございます」


 黒はぺこりと頭を下げて、サンダルを受け取った。ずいぶんと気の利く人だと、感心した。


「それじゃあ、ごゆっくり。でもあんまり遅いと心配するから、常識の範囲内でのゆっくりって意味ね」


「分かりました」


「あと、雷に気をつけてね。気をつけようがないだろうけど」


「……たしかに、高い位置って危険ですもんね」


 黒は雷なんてへっちゃらなタイプだが、言われてみると少し怖くなってきた。なぜか雨がやんだ後に雷が鳴り始め、それは未だ健在だ。油断はできない。


 水越は「生きてまた会おう」と言うと、黒に背を向けた。そして階段に腰を下ろして、スマホをいじり始めた。


 黒はサンダルを履いて、屋上に出た。そして思わず「え……」と漏らした。

 なぜならば、広い屋上の中央にテントが張ってあったからだ。水色の、こじんまりとしたテントである。


「青陽くん、そこに、いるの……?」


 黒は恐る恐る、テントに近づいた。入口側に回りこむと、ドアパネルは開いたままだった。


「誰もいない……」


 テントの中には誰もいなかった。物もない。空っぽだ。

 

 黒はテントのそばで屋上をぐるりと見渡した。誰もいない。視界を遮るものは何ひとつないので、一瞬で無人であることが分かる。


 しかし、フェンス際に、何かが置いてあるのが見えた。


 上履き……!?

 

 そう、それは上履きだった。フェンス際に、一足の上履きが置いてあるのだ。

 

 飛び降り自殺をする際、靴を脱ぐ。それは映画やドラマで幾度となく目にしてきたシーンだった。なぜわざわざ脱ぐのかは謎だが、とにかく不吉な光景であることに違いはない。


 黒は駆けだした。その際サンダルが脱げてしまったが、気にしている余裕なんてなかった。


 黒はフェンスに駆け寄る。それから置かれている上履きを徹底的に無視して、フェンスをよじ登った。落下してしまわないように注意しながら、上半身を乗り出す。そして真下を覗きこんだ。

 

 遥か真下には、裏路地が左右に延びている。本校舎の外壁と地上のフェンスに挟まれた、薄暗い空間だ。倉庫やゴミステーションがあるだけで、とくに心惹かれる光景はない。

 ほとんど人が通らないので、落下してもしばらく発見してもらえないだろう。

 

 ここから落下したならば、死体は倉庫のそばにあるはずだ。しかし、どんなに目を凝らしても、死体は見当たらなかった。


 黒はほっと胸を撫でおろし、フェンスから下りた。そして、置いてある上履きを見た。


「ん? 封筒……?」


 上履きの下には、茶封筒があった。ついでに言えば、茶封筒の下にはグレーのタオルがたたんで敷いてある。雨のせいで屋上はびしょびしょなので、封筒を濡らさないようにするための工夫だろう。


 黒は上履きと一緒に、茶封筒を手に取った。


 茶封筒の中には、きれいに折りたたまれた紙が入っていた。四百字詰めの原稿用紙だ。そこに文字が記されている。

 それは間違いなく、青陽の文字だった。黒は確信をもって、それが「間違いなく青陽くんの文字だ」と言える。

 黒は、青陽とは一年生の時から同じクラスで、彼の文字を見る機会は幾度となくあった。彼の独特な筆跡を、よくからかったものだ。

 

 原稿用紙にはこう記されている。



もう生きてはいけない。自分が弱い人間なのは分かっている。自分が欠点だらけなのは分かっている。それでも、今度の裏切りは堪えた。ひどい裏切りだ。俺は信じた人に裏切られた。完膚なきまでに、俺は傷ついた。この傷が癒えることはもうないだろう。これ以上生きていたくない。この傷を背負って生きていく苦しみに比べれば、今この瞬間自らの命を絶ってしまうほうがよっぽど楽だ。俺は楽なほうの道を選ぶ。君は苦しいほうの道を選べ。選ぶしかないんだ。俺は君を許さない。さようなら。



 黒は冷静さを保とうと努力するも、心はどうしようもなく震えていた。


 青陽の死体はなかった。だから、じっさいに飛び降りたとは考えにくい。

 じゃあ、この遺書はなんだ? 署名はないけど、これは間違いなく青陽の文字だ。


「……?」

 黒は封筒の中に、もうひとつ何かを見つけた。

「鍵……?」


 鍵だ。キーホルダーも何もついていない、金属製の鍵が同封されていた。防犯性が高い、ディンプルキーと言われる代物だ。


 おそらく、これが屋上の鍵なのだ。生徒会室から盗み出された、屋上の鍵。


 黒は、遺書と上履き、それからタオルも、スクールバッグに仕舞った。


「……遺書。鍵。上履き。タオル」


 呟いてみた。

 声に出してみたら、何かが分かる気がした。

 でも、分かったことといえば、これくらいだった。


「屋上は、いわゆる密室だった」


 黒が最初に屋上へ駆け上がってきたとき、扉はしっかりと施錠されていた。

 次に、水越と一緒にきたときも、鍵はかかっていた。水越が職員室から借りたマスターキーで、扉は初めて開いたのだ。


 しかし。しかし、である……。

 生徒会室から盗み出された鍵は、この封筒の中に入っていた。

 青陽は、鍵を屋上に置きっぱなしにして、校舎の中に戻って、そして何らかの方法で扉を施錠した。そういうことになってしまう。


 でも、それはおかしい。校舎の中からは、鍵を使わないと扉を施錠できない。鍵を屋上に置きっぱなしにしては、扉を施錠できるはずがないのだ。


 では、何らかの方法で、扉を通らずに、屋上を脱出したのだろうか……?


「……ダメだ。分からない。でも、ただの悪戯に決まってる。そう、ただの悪戯なんだよ」


 彼女は校舎の中に戻ることにした。そこでマズイことに思い当たった。

 水越になんて報告すればいいだろうか……? 彼は寛容な人物のようだが、さすがに遺書や鍵が屋上から見つかったとなれば、詳しい事情を掘り下げてくるはずだ。


 青陽が、自分のせいで命を絶ったかもしれないなんて(悪戯に決まってるけど……)、なるべく知られたくない。


 隠しておこう。黒はそう決めた。


「あ」

 またもや黒は、重大なことに思い当たる。

「テント……」


 屋上にぽつんと設置してあるテント。これも、水越に見られると都合がよくない。屋上とテントという組み合わせは、言うまでもないことだが非常識だ。きっと水越は、屋上で「何か」が起きたことを悟るだろう。そして「何か」について明らかに何か知っている黒を問い詰めるだろう。


 どんどん。


 屋上の扉が強めにノックされた。


「はひぃ!」

 驚きのあまり、黒は思わず飛び上がった。


 間もなくして、扉が細く開いた。


「黒木さーん? まだかかりそう?」

 細い隙間に言葉を通すように、水越が言った。


「えっと、もうちょっと、もうちょっとだけ待ってください!」


「了解した」


 扉がかちゃりと閉じられた。


 早く、テントをどうにかしないと!

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