眠り

彼女はソファーに座り、また僕の目を覗き込んだ。僕は隣にいて、彼女の匂いや、触れ合った体の温もりをはっきりと感じとることが出来た。

10:30 窓から月が見える。

「目、死んでますね」そんなことを彼女は呟いた。

「死んでなんかいない、影に伏せてるからだ」少しショックを受けながら僕は言い訳をする。僕は人に会うたびにこのことを言われるのだ。「僕の目が暗いのはきっと、明るいものをたくさん見るためだよ」

「ふーん」彼女はさらにソファーへもたれかけた。「今日の晩御飯、美味しかったね」

「半分は君が作ったんだろう」

クスクスと彼女が笑う。「米しか炊いてないじゃん」

「麦茶も作ったのは僕だ」

「そうね」彼女はボゥと天井を眺め、やがて目を閉じた。のぼせた頭で考えられるのは結局ふわふわとふやけたものだ。「私、一度知床へ行ってみたいの」ほら、こんな風に。

「知床?」

「そう知床」彼女は楽しそうに語った。「ふんわりとした丘の上で、潮風を浴びながらぐっすりと寝るの」

「それは幸せそうだな」僕は彼女が凍えてる姿しかイメージできなかった。

 彼女はソファーから立ち上がり、静かに僕を手まねいた。

「こっちへ来てください」

 僕は彼女に従い、ソファーから立ち上がって彼女のほうに行った。

 彼女は冷蔵庫からココアの袋を取り出し、それを牛乳にとかしてからレンジで温めた。

「一緒に飲もう」彼女は嬉しそうにココアの入ったマグカップを見つめていた。

「僕はいいよ」僕はそのマグカップを押し戻した。「君が全部飲めばいい」

「うん…分かった」少し悲しそうに呟いて、彼女はマグカップをテーブルの上に置いた。最初に伝えておくと、そのココアは誰にも飲まれることはなかった。陶器とプラスティックのぶつかる音が、コツンと冷たく響いた。

「僕はもう寝るよ」

「ねぇ、ここでもう少し本を読んでいい?」僕のパジャマの裾は彼女に掴まれていた。

「好きなようにすればいい」

 我々は歯磨きを済ませた後、それぞれ自分のするべきことをただこなしていった。僕は布団に潜り、彼女は静かに本のページをめくった。それはカフカの短編集だった。


 僕は瞼を閉じ、一度深呼吸をしてから、今日という不思議な時間の意味をじっくりと考えることにした。

 まず、あのショートヘアーが頭に浮かんだ。

 彼女は「不自然なくらい自然」な流れで、僕の家に泊まることになった。不思議なことは、それについて僕がなんの疑問も持たなかったことだ。結局、彼女は僕と夕食を(彼女の作った生姜焼きは今までで一番美味しかった)食べ、勝手にCDを漁り、無許可で風呂にまで行ったのだ。けどそれは僕にとって当たり前のように感じたし、彼女もまた      当たり前のように行動していた。

 たぶん間違いなく、どこかでずれが生じているのだろう。「2+2=5」みたいに。

「もうやめよう」

 僕の頭はそろそろ限界に来ていた。分からないことが多すぎて、どこから手をつければいいのか分からなかった。世界は真っ暗だった。引き込まれるように、僕の意思はどんどん薄らいで、最終的にはもう全て溶けていた。

ゆげを失ったココアと、ユダヤ人の作った万理の長城。

「おやすみ」

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