エピローグ、そして(後)
「ねえ綾坂君」
放られたゴムボールをからくもグローブに収めた憂は、ぎこちない動作で投げ返す。山なりの軌道を描いたそれは綾坂へ届かず、やや手前で着地する。
三度目の正直、とはいかなかった。
「利き手どっち?」
「実は右なんだ」
「僕も」
素手でボールを拾った綾坂が困った風ながらも明るく笑み、憂も同じように笑い返す。
和やかな空気の中でキャッチボールを楽しむ二人。
その手を覆うグローブは――利き手と逆、左利き用の物だった。
帰ってきたボールが目前でバウンドする。
綾坂同様に左手でキャッチして放り返し、憂は言う。
「これって綾坂君なりのジョークでしょ」
グローブを受け取ってすぐに二つとも左利き用であることには気付いた。
しかし綾坂はグローブについて一切言及しなかった。左利き用だけ、という特殊な状況にもかかわらず事前の説明や確認を省いたのである。
ということは。
綾坂が相当な天然キャラでもなければ何らかの企みがあるのだろう、と考えて憂もスルー。
そして開始後、綾坂も自分と同じような動きをしていたこと、一球放るたびに精神的な距離が近付く感覚があったことから、今のようなやり取りに繋げる意図があったのではないかと推測して。
よーし今だと突っ込んでみたところ――どうやら正鵠を射たらしい。
「伝わって安心した。変な奴だと距離を置かれないかヒヤヒヤしたよ」
綾坂がそう言って人好きのする笑顔を見せる。
「もし僕が左利きだったらどうしたの?」
「その時はなんとか食らいついてたな」
言葉とは裏腹にふわりと飛んできたボールを左手でキャッチする憂。
まあ、仮にどちらか一方だけ利き手と一致していたとしても大した問題にはならなかっただろう。
グローブを外せばいい。
というか外したい。
使用しているボールがゴム製だから、かえって捕球が難しいのだ、さっきから。
ネタバラシも済んだので、憂と綾坂はどちらからともなくグローブを外し、今度こそ快適なキャッチボールを始めた。
「悪い、茶番に付き合わせて。笑ってもらえると助かる」
「いいよ、面白かったし。むしろこの為に労力を惜しまなかった綾坂君を、僕は好きになりそうだ」
少しずつ互いの距離を広げていき、それに伴って声量が上がる。
「俺はずっと姉倉君が気になってたし、好きだったよ」
だから綾坂の大胆な返答は憂の耳にしっかり届いた。
面食らった憂は硬直し、投げ返そうとしていたボールを数度揉み込む。
なんてことだ……一目惚れってやつだろうか。
浮かんだおバカな考えを脳内から追い払って返球する。
「嬉しいけど、どうして?」
「すごいと思ったからだよ」
憂の胸元に鋭い直球が投げ込まれる。
「姉倉君の周りはみんな楽しそうだ」
見事受け止めた憂を見て、綾坂は底抜けに爽やかな顔をする。
邪気も嫌味も無い、心から称賛するような、そんな表情。
綾坂の言わんとすることが、なんとなく分かった。
「そうだね。僕じゃなきゃ、こうはならなかったと思うよ」
憂もまた力強い直球を投げ返し、綾坂が受け止める。
そして二人は口元から顔全体へ喜色を広げて笑い合う。
今この瞬間は。
自分のいるこの場所は、他の誰かでは決して辿り着けない位置なのだと、姉倉憂は確信を持って言い切れる。
代わりなどどこにも居ない。
それは憂に限らず誰もがそうだ。
代わりなんていくらでもいる、という言葉を聞くけれど――違う。
人は決して、誰かの代わりにはなれない。
人はみんな、自分にしか成し得ない自分だけの道を歩んでいく。
その軌跡を語り合って認め合いながら、生きていく。
憂は思う。
大事なことだから言葉にしよう。
大事な人達に伝えよう。
あなたの代わりはどこにもいないんだよ――と。
「なあ、姉倉君」
憂を見て一層笑みを深めた綾坂が何かを言いかけたところで。
「代打、われ」
と、木の棒を持った少女――虎南が憂の左前に立ち、綾坂を向いてバッターのような姿勢を取った。
よく入ってこれたなこやつ。
「すぐそばで耳をそばだてて聞かせてもらいました。いきなり現れてわたしのお兄ちゃんを奪おうとは看過しかねます」
「なにを言っている小娘」
「安心してください。わたしの方がお兄ちゃんを好いてます。さあ、真剣勝負といきましょう!」
棒の先で地平を指して予告ホームラン。
突如乱入した愉快な勘違いが瞬く間に場を支配してしまう。
呆れるくらいのおバカ。
そんなキミが――呆れるくらい僕も好きだよ、虎南ちゃん。
「僕のために争うのはやめて!」
おどけながら憂はグローブを構え、綾坂に目顔で合図を送る。
順応力に定評のある綾坂はサムズアップで快諾すると、緩やかで打ち頃な球を放ってくれた。
対する虎南は左足で踏み込み、
「捉えたっ! とりゃーっ!」
と、気を吐きながら豪快なアッパースイングで棒を振り抜いた。
しかし。
月を想うようなその一撃が切り裂いたのは、虚しいことに、ボールの遥か下だった。
惜しくもないのに一丁前に歯噛みをしている。
「無念っ……! かくなる上は――」
などと投手を睨むようにして、虎南は。
「盗塁だぁー!」
棒を投げ捨てて彼方へと走り出すのだった。
なんて自由な生き物なんだ。
同級生から密かに好意を寄せられてそうだなあの妹。
そんな風に思いつつ虎南の姿を目で追っていると、サッカーボールをドリブルする中学生が合流する。
「畜生先輩はゴールキーパーで」
「ゴールどこ」
憂を追い抜くようにして、一人の中学生に手を引かれる鹿倉と弦羽が虎南達の元へ向かって行く。
どうやら気に入った人物をあちこちから集めているようで、続けて加わった中学生が連れていたのは、綾坂の彼女、終里だった。
「千草の奴、いつの間に」
距離を詰めてきた綾坂が嬉しそうに、羨ましそうに言う。
「綾坂君も混ざってきなよ。あの中学生たちの相手、間違いなく大変だからさ」
「なら、姉倉君も一緒にどうだ」
「僕は彼女と妹の顔を見てからにするよ」
憂は微笑みながら綾坂の背を軽く叩く。
「今日はとにかく楽しむ日だから、綾坂君たちも思い切りはしゃいでくれると嬉しい」
「郷に入れば、って言うもんな。それじゃ、遠慮なく」
「あ、でも。どうしても話したいこととかあるなら、聞くけど」
「そういうわけじゃないんだ。ただ普通に――」
そこで一度言葉を切り、綾坂は憂へ右手を差し出した。
「俺と友達になってくれないか?」
「僕はとっくに友達のつもりだったけど」
握手に応じて、笑い合う。
もしかすると本当は、話したいことがあったのかもしれないけれど。
それはこれから仲を深めていくうちに、ということにして。
「ありがとう姉倉君。それじゃ後でメルアドを交換しよう」
「メルアド……?」
変なことを言い出した綾坂を送り出し、憂は氷佳を探し求めて歩き出した。
〇
もしかしたら僕にも巨大おにぎりがあるのかも。
という淡い希望を胸いっぱいに蓄えて氷佳の隣へ腰を下ろす憂だったが、浅はかな考えはあっさり打ち砕かれてしまった。
既製品のおにぎりを手渡されたためである。
しかし氷佳の手を経由した以上まごう事なき一点ものだ。
憂は大喜びでおにぎりを頬張った。
「はいどーぞ」
「ありがとう」
対面に座る夜々からおかずの取り分けられた皿を受け取る。
憂の姿を視認するや着座までのわずかな間に、手際よく用意してくれたのだ。
「いただきます。お礼に夜々さんの食べたい物は僕が口まで運ぶよ」
「ダメだよお兄ちゃん」
と、氷佳の左手側で唐揚げを齧っていた暁東が不意に待ったを掛けてくる。
「少し食べるのを控えさせないと。お姉ちゃん、さらなるぷよぷよに」
「暁東!? さては氷佳ちゃんからなにか聞いたね!」
「氷佳いってないよ」
「その通り。吹き込んだのはジミヘンジュニアではなく私です」
「どこから仕入れた情報だーっ!」
傍らのマチルダと仲良く揉み合い始める夜々。
今なら魚井の怒りも頷ける。
あの光景に割って入るのは野暮ってものだ。
「兄ちゃ、お菓子もあるよ。氷佳が仕入れてきた」
「氷佳のオススメを貰えるかな」
「んー……これ。ちょっとすっぱいグミ」
「ありがとう。僕もそれを食べたいと思ってたんだ。氷佳は凄いね偉いね可愛いね」
「ありがと。もっとほめれる?」
憂は皿を置き、はにかむ氷佳を褒め称えつつ肩車をする。
そうしていると暁東が服の裾を引っ張ってきた。
「ねえお兄ちゃん。ぼくにもやってよ。実は密かに憧れてたんだ」
「任せておけ。暁東くんも買い出しありがとう」
と、氷佳を下ろして暁東を肩の上に座らせて立ち上がる。
大人びてはいるが暁東もまだまだ小学生だな――そう思う一方で、やはり暁東らしくない気もする。
現に「良かったねー暁東」と微笑む夜々に「まあね」と素っ気ない対応をしている。つまり擬態中だ。
「暁東くん、はしゃいでもいいんだよ」
「見るだけでいいんだ。ぼくは氷佳ちゃんと同じ景色を見て語り合いたい」
「なるほど、震えるほど良い心掛けだ」
立派な弟である。
その心意気に応えるべく、憂は膝を曲げて高さを正確に氷佳メートルに調節した。
「やはり肩車はいいですね。男子の友情は肩車に帰結すると映画で学びました」
「あ、それちょっとだけ知ってる! 見たことはないんだけど」
「では今度一緒に観賞しましょう。あっという間の三時間にあらゆる時計を信頼できなくなること間違いなし」
美奈子ちゃんもかなり素直になったな――古海家で一晩過ごした際にも調教されたみたいだし。
と、マチルダの変化をしみじみ感じつつ、満足したという暁東を下ろす。
すると氷佳が「おすすめの景色があるよ」と暁東を誘い、二人は靴に履き替えて冒険に出掛けた。
「ありがと憂くん。私じゃ力足らずでさ」
「いつでも受け付けてるよ。そしてこれで残るは夜々さんだけだ。コンプリートは近い」
「らしいですよホッグちゃん。軽いと言い張るなら跨ってみては?」
「うむ、私はヘビくらい軽い」
と、腕組みをして偉ぶる夜々。
次いで威厳のようなものを取り去りあどけない顔へ切り替えて、照れくさそうに頬を掻く。
「……忘れちゃった? 前にやってもらったことあるよ。ほら、お昼寝の時……」
「そうだった」
瞬間、憂の脳裏に夜々と昼寝を行った際のあれやこれが鮮明に蘇った。
特殊な歯の磨き方をしたり様々なアプローチからくっついたり――あれ、あの時はもう付き合ってたっけ?
いや、まだだ。
振り返って現象を並べてみると時系列が混乱しそうだったが、そうだ、あの日恋心を明確に自覚したのだ。
憂の口元がだらしなく緩む。
夜々も同じ過去を思い返したのだろう、憂と似たような表情になる。
それを見たマチルダが「はぁ」とこれ見よがしの溜息をついた。
「やれやれ。二人だけの世界ってやつですね。精神的ハネムーンを見せつけられる私の気持ちになってみては?」
「ごめん、つい。悪かったよ。美奈子ちゃんは夜々さんと二人でいたいんだよね」
「ううむイカれた文脈。口汚く否定できないだけの人間性を手にしてしまった自分が恨めしい」
「えー嬉しいなー。私もマチルダちゃんと遊ぶの楽しいよ」
すり寄って来る夜々を跳ねのけることができず、たじたじといった感じのマチルダ。しかし夜々がわずかに離れた隙を見逃さず、素早く立ち上がって距離を取った。
「では私はこれにて。軽やかに用向きをたずねます」
「いいって、僕が移動するよ。後から現れて間に挟まったんじゃ、常識ないって怒られるし」
「よく分かりませんが、用事があるのは事実ですよ。もしや私がお二人に気を遣っているとでも? まっさかー、そこまでまともになった覚えはありません」
マチルダは取ってつけたような捻くれ者アピールをしたかと思えば、抑揚をつけて「ですが」と風向きを変え――
「私のおかげであなた方カップルの幸福度が上がるというのは――悪くありませんね」
と言い。
ごく自然に。
指で補助することなく口角を上げた。
「ありがとねマチルダちゃん。祝福してくれて」
「真面目風味ですねホッグちゃんは。感謝など不要です。今日が最後じゃあるまいし」
反応がくすぐったかったのだろうマチルダは肩を竦めておどけてみせた。
が、それだけでは誤魔化せないと踏んだのか、いつものように軽口を舌に乗せる。
「とは言いましたが、エンディングの波動を感じたからこそ、私はこれより旅立つのです」
「なにするつもりなの?」憂が訊く。
「鉢植えを持って来たので、中身をそこらに地植えします」
「一人で?」
「不本意ながら、男と一緒に」
不本意、というからには虹村を指しているのだろう。
虹村個人に対する悪感情からくる発言でないのは分かるけれど――まあ、頑張れ虹村。
三耶子との予定が合えば恋の急急如律令を再始動させよう。
「それに酒飲みの大人もいます。教師もいるということは、見方によっては内申点のボーナスステージ。きっちり弱みを握って来ましょう」
ではまた、と言い残してマチルダは迅速に去って行く。
あまりの素早さに残された憂と夜々は顔を見合わせて笑った。
そして。
「さあ憂くん、まだまだあるからたくさん食べたまえ。私のイチオシはこのコロッケ。葉火ちゃんとの学校帰りによく食べる」
「丸くて可愛いね。まるでハムスターみたいだ」
「葉火ちゃんも同じこと言ってた。ちょっと猟奇的すぎやしないかね!」
イチオシコロッケを齧り芋の風味を味わっていると、夜々がピンと指を立てる。
「そういえばコロッケってフランスのクロケットを真似したものらしいよ」
「へえ、そうなの? 虎南ちゃんが聞いたら我が物顔で語りそうな豆知識だ」
「実は虎南に教えてもらったんだけどね」
そんな風に雑談しながら食事をして。
すっぱいグミまで食べ終えると、夜々が立ち上がって気持ち良さそうに伸びをする。
「食後のおさんぽでもどう?」
「いいね。少し歩いて回ろうか」
「ぷよぷよじゃないからね」
まるでこちらの心を見透かしたかのようにジト目が向けられたが、芋の欠片ほども考えてはいないし、夜々がぷよぷよでないことは手と目が覚えている。
濡れ衣を着せられては敵わないので憂は速やかにシートを出ると、夜々に背を向けて伸びをした。
少し遅れて夜々が隣に並んでくる。
その手には小さな箱が握られている。
「それは?」
「ないしょ。後でのお楽しみ」
そして二人はゆっくりと歩き出す。
合コンのような配置で語り合う同輩たち。
アルコールに支配された大人たち。
何故かゲームのコントローラーを握っている三耶子たち。
葉火の口に揚げ物詰め放題プランを愉しんでいると思われる他校の女子グループ。
異常な数のボールを使ったサッカーなど、様々な賑わいの中を、ただ歩く。
景色を眺めながら喧噪を聞きながら、のんびり歩んで行く。
ただそれだけの幸福を噛みしめる。
不意に夜々が言う。
「楽しいね。こうやって集まるの」
「うん。すごく楽しい」
憂が即答すると、夜々は空を仰ぎ目を閉じた。
そして心地よさそうに息を吸い込み、吐き出して。
「こんな風に景色を見ながらのんびり歩くの、これからも、大人になっても、忘れないようにしたいな」
春風に乗せるようなあたたかい声でそう言った。
「僕もそう思うよ。休日は一緒に色んなところを散歩しよう」
「やった。私と憂くん、出会ってすぐに長距離歩いたくらいだし、ウォーキング適正高いよね」
やけに懐かしく感じるのは、あの日が秋という物悲しさを感じる季節だったからというのもあるだろうか。
秋に出会って、冬を過ごし、春が来た。
季節は巡る――彼女と過ごす春は、あと何回残っているのだろう。
「そうだ、夜々さんに聞いておきたいことがあった。一応、今の内に」
「んー?」
「夜々さんは結婚に抵抗ないタイプ? あと、子供は欲しい?」
「うえぇ!?」
夜々は素っ頓狂な声をあげ、あわあわ慌ただしく身体を揺らす。
そして口をもにゃもにゃさせて。
「……それは、うん。したい。欲しい」
「良かった。同じだね」
答えは分かっていたけれど――些細なすれ違いや空回りを回避すべく、念の為。
我ながら気が早いと思う。
でも、人生に遅すぎるなんてことがないように、早すぎることもない……はずだ。
「だから僕、夜々さんと添い遂げるに足るだけの、相応しい男になるよ。そうなれるのは僕しかいない」
「……私も、おんなじ気持ち」
にへら、と浮かれた笑顔を向け合う二人。
同じような顔。
おんなじ気持ち。
思い描くのは、同じ未来。
それがすごく嬉しかった。
「実は一緒に暮らした時の為に、なんでも券は温存してるんだ」
「ひゃー、何をお願いされちゃうのかな!」
「例えば一緒に――」
憂はあえてそこで言葉を切り、ふっと口元を歪めてみせた。
受けた夜々は口をまんまるく開き頬を赤らめる。
憂が可愛らしさに満足していると、夜々は目を伏せたかと思いきや――甘えるような上目遣い。
まずい、反撃の狼煙だ。
「私、憂くんにお願いされたらなんでも聞いちゃうよ?」
「理性が溶け落ちる……!」
「言ってみて?」
「……なら、後で行われる物真似対決で、僕に有利な判定を」
「ごめんなさい」
「嬉しいよ。ますます夜々さんを好きになった。今のはもちろん冗談ね」
時に厳しくもしてくれる素敵な恋人である。
そんな風に攻めたり攻められたりしていると、不意に夜々が駆け出して木の裏へ姿を隠した。それから顔を覗かせて手招きをする。
憂が隣まで行くと夜々は忙しなく周囲を確認し、木の幹に背を預けて「ふー」と一息つき、憂も同じく木に寄りかかる。
そして夜々は持っている箱から中身を取り出すと、元気いっぱいに憂へ差し出した。
「どーぞ。おやつの時間です」
手に乗っているのは、シュークリーム。
これまた懐かしい。
以前ちびっ子科学者に献上したな――と振り返りながら受け取った。
「いただきます――あれ、夜々さんは食べないの? これくらい平気だよ」
「違うよ! そうじゃなくって」
「もう食べたとか」
「んーん、まだ。食べるよ、今から」
そう言って夜々はかぱっと口を開ける。
――なるほど理解した。
笑ってしまいそうになりながらシュークリームを口まで運んであげると、夜々はいつかのように勢いよく齧りついた。
あふれ出たクリームが口の端を白く色づけする。
「似合ってる」
「でしょー」
と、夜々はクリームをつけたまま得意気な顔をする。
拭いてしまうのが勿体ないくらいで、これがゲームのアバターってやつならずっと装備しているだろうな、と憂は思った。
名残惜しいが放置はしておけない。
憂がハンカチを取り出そうとすると――
しかしその行動は夜々に阻まれた。
ぎゅっと手首を掴まれる。
もう一方のシュークリームを持った手も同様に。
そうして憂の動きを封じた夜々は――背伸びをして。
顎を突き出し、「ん」と目を閉じた。
ん。
……この子は、ほんと。
ほんとにさあ。
どうにか機転の利いた対応を導き出したかったが、できるはずもなく。
観念して。
憂は求められるがまま誘われるがまま。
けれど確固たる自分の意思で夜々に顔を寄せ――口元のクリームを唇で挟み取った。
口いっぱいに甘さが広がり、体の芯が熱を帯びる。
頭の中を撹拌されつつもなんとか理性を保ち、ゆっくりと顔を離す。
すると目を開けた夜々がくすぐったそうに笑んだ。
――僕は一生、この子を好きになり続けるんだろうな。
「はしたなぶるだね、僕達」
「ねー、はしたなぶるだよ」
「ここが外で良かったね」
「な、なにを言ってるのかな」
反撃を食らった夜々は握る手に力を込めたのち、「満足しました」と手を離した。
「食べたら戻ろっか。今日はみんなで遊ぶ日だし」
「そうだね。虎南ちゃん達がやってる推定スポーツに混ぜてもらおう」
「賛成多数! 私が虎南に立ちはだかる」
むん、と胸を張る夜々の口にシュークリームを持っていき半分食べてもらって、残りを憂が完食。
「お返し、期待して待ってるね」
「燃えてきた。ハードル上げて待っててよ」
さてどうやって喜ばせてくれようか。
そんなことを考えながら来た道を引き返した。
〇
ひとしきり運動を愉しんだのち、憂がいま出ている分のゴミを回収しながら巡行していると、難しい顔をした葉火が近付いて来た。
「
「何が起きた? 僕も一緒に悩ませてくれ」
「こういう集まりには二次会が付き物じゃない。だからアンケートを取ったのよ」
言いながら葉火は紙コップを握った右手を宙に翳し、小指だけを立てる。
「ほぼ満場一致でカラオケだったわ。一応聞くけど、あんたはどこがいい?」
「あー……それは……」
足を貰えない人魚姫と呼ばれた小学生時代。
中学に上がるとようやく足を貰えたが、それは「黙っていろ」のレトリック。
忘れていたが葉火には音痴の疑惑があるのだった。
一度だけ一緒にカラオケボックスへ行ったことはあるが、結局一曲も歌わなかったため真相は定かではない。
しかしこの反応を見るに、決して得意には分類されないのだろう。
「でも、楽しみで仕方ないって顔してるよ」
「分かってるじゃない。困難を前に燃え滾っているわ」
「それでこそって感じだよ。ちなみに、持ち歌は?」
そうねえ、と葉火は思案顔をする。
やがて祖母の影響で知っているという一人の名前――一人ではあるが二つの名前――を挙げ、いくつか曲名を並べて。
「あれにするわ。やさしさに包まれたなら」
と自賛するように声を弾ませて言った。
不朽の名曲。
素晴らしいチョイスだと思うが――
「……僕、泣くかもしれない」
「あはっ。いいじゃないの。あたしの美声に感涙しなさい」
葉火は唄うようにそう言うと、優しく微笑んだ。
「あたしからのラブソングね。今日の締めに相応しいでしょ」
「本当に、この上ないラストだよ」
ふふん、と満足気に顎を上げた葉火が、紙コップを憂の持つゴミ袋へ放り込む。
「さて。ウォーミングアップにあたしも運動してくるわ」
「ラフプレー上等な中学生に気を付けて」
「蹴散らしてやるわ」と葉火は足取り軽く虎南たちの元へ向かって行く。
愛してるわよあんたら。
堂々と歩む姿は、目に映る全てにそう伝えているようだった。
――それからも色々あったけれど。
これまでの集大成、様々な変化に溢れた一日は底抜けに明るく幕を下ろした。
締めを務めた葉火の歌声がどのようなものだったか、詳細は割愛するけれど。
強いて一言にまとめるとするならば。
心に届く――そんな声だった。
つまり、最高のエンディング。
〇
そして――
春休み最終日。
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