剣ヶ峰葉火は愛されている

 あたしは剣ヶ峰葉火。あんたの娘。産んでくれてありがとう――

 ――なんか違うわね。


 火薙を連れてアルバイト先へ向かう道中、葉火は脳内で会話のシミュレーションを行っていた。

 普段であれば「出たとこ勝負よ上等じゃない掛かってきなさい叩き潰してやるわ」と強気な姿勢で臨むところだが、こと今回に限っては、それを良しとしない自分がいる。


 備えなければ憂うばかり。


 首を回して背後の様子を窺うと、火薙と目が合った。

 彼女の表情はニュートラルから変わらない。

 何を考えているのか分からない、けれど何か考えてはいるのだろう。


 また逃げ出すつもり――は無いと断言できる。

 憂と夜々と三耶子が火薙を自由にしているということは心配しなくてもいい証左だ。


 他にも多くの味方が列を成して共に歩んでくれている。

 彼ら彼女らの協力があったからこそ、今日これからが存在する。

 みんながみんな、愚痴の一つも零さず奔走して、母を見つけ出し巡り合わせてくれた。


 その事実を噛みしめるたび自然と歩幅が広くなる。

 葉火は顔を正面へ戻すと深く息を吸って。

 吐き出しながら両手で自身の頬を張る。


 まったく。

 本当に。

 みんなあたしのこと大好きなんだから。

 宣言通り明るくハッピーな結末を掴み取って、見せびらかしてやるから期待してなさい。



 〇



 無事店の前へ辿り着くと、隣に並んできた火薙が目線を扉に据えたまま「ここ?」と言った。


「そうよ。あたしのお店。入店を許可するわ」


 お邪魔します、と火薙が店へ入って行く。

 が、葉火は後に続かず、蓋をするように扉が閉じるのをぼんやりと眺めた。


 少しの間を置いて振り返る。

 見渡す限り――は言い過ぎかもしれないが、大勢の人達があちこちからエールを送ってくれている。


「葉火さん! やっちゃってください! やっちゃえヨーカーサン!」


 視界の左側、やや離れた位置でぴょこぴょこ飛び跳ねる虎南。

 その隣の如何にも徹夜明けな魚井、疲労の色濃い鹿倉に弦羽と右へ右へ視線を滑らせていき――

 最後に目の前の三人を見る。


 思い切り抱きしめてやりたいけれど――それはエンドロールの締めにしよう。

 今は顔を見るだけでいい。

 それだけで最高の気分だ。


「それじゃ行ってくるわ」


 葉火が華麗に身を翻し扉へ手を伸ばした――その時だった。


「とりゃーっ!」


 と。

 ぺちこーん、と。

 夜々の張り手が葉火の背を打った。


「痛った! なにすんのよ!」


 頬を揉みくちゃにしてやろうと再び振り返る葉火だったが、夜々の大人びた微笑みを前に、反撃する気は瞬く間に霧消した。


「いつかのお返し」


 夜々の顔つきに稚気が差す。

 いつか、が文化祭の日を指しているのはすぐに分かった。

 両親の元へ向かおうとする夜々の背中を引っぱたいた、あの時だ。


「おぼえてろー!」なんて夜々は言っていたが、まさか返ってくるとは思っていなかった。

 それも最高のタイミングで。


 夜々はあの時――

 ――こんな気分だったのね。


 口元が緩むのを堪え切れずにいると、くっついてきた三耶子にお尻を叩かれる。


「ふふふ。大きくなった葉火ちゃんを見せてあげて」

「ちょっと、まるであたしのお尻が大きいみたいじゃない」


 三耶子がいたずらっぽく笑い、腕を組んだ夜々が頷きながら言う。


「安定感が見られます」


 直後、葉火は右腕を夜々の首へ回し左腕で三耶子を抱き寄せる。

 抱き寄せて、抱きしめて、快活に笑う。


「あんたら覚えてなさいよ」


「葉火ちゃんとのこと忘れるわけないじゃん」


「そうよそうよ。私の前世はメモリーカードなんだから」


 二人とじゃれ合いつつ葉火は憂へ不敵な表情を向ける。


「あんたも触っとく?」


「いいわけなかろうがーっ! 私が許さぬ!」


「冗談よ、触らせるわけないじゃないの。あんたらは後日請求がくるから震えて待ってなさい」


 ぺちぺちお尻を叩いてくる夜々と三耶子にそう告げて。

 解放した二人の頭に手を乗せる。


 まだまだ戯れていたいところだが、そろそろ戦地へ赴くとしよう。


 夜々達のおかげで当たり前のことを思い出せた。

 あれこれ想定するのも勿論大事ではあるが、第一に考えるべきは相手の話を聞いて、その場に応じた言葉を選ぶこと。


 会話というのは流動的で、時にままならないからこそ面白い。

 なんでも思い通りにいくようじゃ、窮屈すぎて退屈だ。


「ありがと。ちょっと迷走しかけてたわ」


 言って葉火は身を翻し扉と向き合う。

 すると背後から両肩に手を添えられた。


「行ってらっしゃい、みんなで応援してる。当たって砕いてきなよ」


 それはいつかと同じ構図で。

 蘇る記憶の中から引用して葉火は言った。


「まるで子連れ狼ね」

「だとしたら僕が前」


 白状してしまうと。

 ほんのちょっぴりとはいえ、柄にもなく気負っていたけれど――もう大丈夫、肩の力はいつも通り。


 優しく背を押され、葉火は思う。

 あたしは期待されるのが好き。

 応えるのは、もっと好き。

 期待してくれるのが友達なら尚更ね。


 そして葉火は自身の髪を払う時のような豪快さで扉を開け放ち、大きく一歩を踏み出した。



〇 



 出入口から対角に位置する席に火薙は座っていた。

 対面に腰を下ろし、葉火は問いかける。


「何か飲む? なんでもあるわよ」


「……なら、そば湯を」


 他に客が居ないこともあって、呟くような火薙の声を聞き取るのは容易だった。

 しかし内容が戯言の類であるのかは判断が難しい。


「頼んでみるけど、無かったら諦めなさい」


 葉火は手を挙げてマスターを呼ぶ。


「お待たせしました」


「マスター親分、注文しますわ。コーラを一つと、そば湯はありますこと?」


「あるよ」


 どうしてあるのよ。

 葉火は心中で突っ込みを入れた。


「蕎麦が好きならあり得るかもしれない、と古海さんから進言されてね」


「あたしの友達が優秀過ぎて怖いわ」


 マスター親分がキッチンへ戻って行き、葉火は火薙へ視線を転じる。

 見返してくる火薙は目こそ逸らさないが一言も発さない。


 沈黙の中でじっと見つめ合う。

 こうして観察すると目元なんかは似てないこともない気がするけれど――

 うん、あたしの方が綺麗だし可愛いわ。


 そんな評価を下してしまえるのは火薙が母親だという実感が無いからだろうか。

 話せば変わる? 話せば分かる?


 などと考えているうちにマスターが飲み物を運んできてそれぞれ配膳してくれた。


「ではごゆっくり」


 優雅な一礼ののちマスターは去っていき、やがてカランコロンと鈴が鳴る。音の方を確認するとマスターが外へ出て行くのが見えた。


 これで正真正銘二人きり。

 余計ではない気遣いに葉火が感謝していると、


「ここ、禁煙?」


 火薙が沈黙に穴を穿つような鋭さで尋ねてきた。


「そうよ。普通に呼吸して我慢しなさい」


 火薙はさして残念そうでもなくそば湯を啜る。


 もう少し次へ繋がるように返した方が良かったかしら。

 己を省みつつ次なる言葉を喉に装填する葉火だったが、口に出さず飲み込んだ。


 そういえば中学生に所持品を没収されていると聞いた。

 身を乗り出して匂いを嗅ぐ。

 煙っぽい香りはしない。


 今日は吸っていないだけかもしれないが、果たしてこの人は喫煙者なのだろうか?

 もしかして――


「……今の、雑談のつもり?」


 ただの直感に過ぎないけれど。

 彼女なりに歩み寄ろうとしているのだと、そうだったら悪くないなと、そう思った。


「まあ……ね。ごめん。何から話せばいいか分からなくて」


「分かり辛いわ。声の調子とかもっと冗談っぽくしなさいよ。あ、もしかしてそば湯も冗談のつもりだったの?」


「そうなる」


「どうしてそんなおバカな発想に至ったのよ」


「好きかと思って、おバカ」


 いきなり何を言い出すのかと思えば――

 よく分かってるじゃないの。


「そうね、好きよ。さては憂あたりに変なこと言われたわね」


「教えてもらったよ、色々と」


 一番おバカだと思う奴の名前を挙げてみたらドンピシャだ。

 おかげで一気に空気が和やかになった。

 粋な仕事をしてくれる。


「いい友達だね」

「でしょ。あたしも憂から色々学んだわ」


 姉倉憂――あの男は本当に変わった。

 葉火からの視点にはなるが、好ましい方向に変化した。


「まずは自己紹介すべきね。人間関係の基本よ」


 であれば。


「あたしは剣ヶ峰けんがみね葉火ようか。あんたの娘。教科書に載る美少女よ」


「私は剣ヶ峰けんがみね火薙ひなぎ。あなたの、母親」


 そんなあいつとつるんできた自分も。

 間近で変化を味わってきた自分も。

 良い影響を受けて良い方向に変われているのだろう。


「パートナーはどうしたのよ。てっきり一緒だと思ったのに」


「最近は仕事が忙しくて、私もあまり会えてないんだ」


 と、無理やり仕立てたような微笑をする火薙を見て、確信めいた直感が葉火を貫いた。


「分かっちゃったわ。それで――」


 言いかけて葉火は口を噤む。

 つい自分のペースに持ち込もうとしてしまったが、そればかりでは芸がない。相手に合わせることも人間関係において大切な一手だ。

 葉火は両手を差し出して続きを促すジェスチャーをする。


 受けた火薙は一度口を閉じたが、やがてきゅっと表情を引き締めて。


「……それで、寂しくなって。あなたに会いに来た」


 罪を悔いるような重々しさでそう言った。


「身勝手で、最低だ」


「母親なんだから娘と会うのに身勝手も何もないでしょうに」


「…………」


「続けなさい」


 求めたものの火薙が力なく笑うばかりだったため、やむなく続きを引き取ることにする。


「土壇場で逃げ回るくらい、後ろめたい気持ちがあるのよね」


 火薙は肯定する。

 それすらもおこがましいと言いたげな弱々しい首肯だった。


「巳舌さんから聞いて知ってるわ。といっても憶測混じりの断片的な情報をあたしなりに組み合わせて、それっぽい結論を出したに過ぎないけど」


 しかし火薙の態度を見るに、あながち外れてはいないだろう。

 どころか完璧に言い当てている気がする。


「ちゃんと聞くから、ちゃんと答えなさい」


 と、葉火はそう前置いて――


「どうしてあたしを捨てたのよ」


 直截的な言葉を選び取り、言い放った。

 適した問い方は他にいくらでもあったが、多少荒っぽくてもこちらから踏み込んだ方がいいと判断したためだ。


 ――押引の判断と加減に繊細さが求められてなかなかにスリリングね。


 沈黙に身を浸し、火薙が喋り出すのを待った。


「私は――」


 やがて火薙はそう呟くと一度言葉を切り。

 唇を噛んだのち、


「私はあなたを愛せなかった」


 目を逸らしてそう続けた。


 葉火は瞼を下ろして特大の溜息を吐いた。

 ショックを受けたから、ではない。

 強がりに暇を与えられるくらいにはへっちゃらだ。


 先回りして構えていたのもあるし、それを差し引いても「へえそうなのやっぱりね」くらいで、深刻そうな火薙には申し訳ないが、こちらは微塵も悪感など抱いていない。

 どころか言い訳も無駄もないストレートな回答には好感すら覚えた。


 それなのに――たった一つ。

 全てを台無しにするたった一つが気に入らなくて、溜息をついたのだった。


 呆れた。

 ほとほと呆れ果てたわ。

 ちゃんと答えろって言ったでしょうに。


 葉火は立ち上がって身を乗り出すと、火薙の頬を両手で挟んで引き寄せ、強引に視線を繋げた。


「大事なことは目を見て伝えなさい。ほら、もう一回」


「……私は」


「声が小さいわ」


「私は、あなたを愛せなかった」


「それでいいのよ」


 呆気に取られる火薙は見ていて爽快だった。

 葉火は座り直してコーラを口に含む。火薙は早い瞬きを繰り返している。

 

「理由を聞くわ。聞かせて」


 寝る前に絵本の朗読をねだる子供のような調子で葉火は言う。


 ここで言い淀むようならさらに強引に踏み込むことも考えなければならなかったが、しかし火薙は目を逸らさず頷いた。


 そして、ぽつぽつと語り始める。


「……両親と、折り合いが悪かったんだ。特に……母とは険悪でね。私は出来損ないだったから、厳しく躾けようとする母とはいつも喧嘩になった」


 火薙が顔を顰める。


「厳しくするばかりでニコリともしない鉄のようなあの人が、私は大嫌いだった」


 淡々と並べられる告白。

 どこかチグハグなそれに黙って聞き入る。


「それでも親子の体裁は保てていた。結婚を反対された時でさえ、大喧嘩はしたけど決定的な不和は生まれなかった」


 でもね、と繋ぐ火薙の声が熱を帯びた。


「私が子供を――あなたを産んだ時。生まれたばかりのあなたを見て、あの人が何をしたと思う?」


 ぎゅっと唇を噛み目を細めて。

 吐き捨てるように火薙は言った。


「笑ったんだ」


 笑ったんだよ――と、苦った顔で繰り返して。


「その顔を見た時……気持ち悪いと思った。自分もそれと同じ母親になるという事実が、どうしようもなく気持ち悪くて、受け入れられなかった」


「それで――」


「……あなたを捨てて逃げ出した。彼にも無理やり納得だけさせて。そのくせまた一人になったら、未練がましく、こうして……」


 火薙は目を伏せようとして踏み止まる。

 そして閉口。

 続きを語らないのは一通り明かし終えたということだろう。


 であれば辛気臭い顔は仕舞ってもらいたいものだ。


「気持ちはよく分かるわよ。あたしはきっと一人でも幸せを目指せる人間だけど、誰かと一緒じゃなきゃ嫌だし無理だもの。一人っていうのは、本当に、寂しいものよね」


「……どうして責めないの?」


 葉火の明るさが腑に落ちなかったらしく、火薙は苦しそうな顔をする。


「どうしてって、責める方も結構疲れるのよ。ほんと身勝手なんだから。それに今の話を聞いても恨み言なんて浮かばなかったわ。あんたが想像以上のろくでなしでも、ね」


 火薙の身勝手は許されることでは無い。

 親として、だけでなく人としても。

 糾弾されてしかるべき愚考。

 罰されてしかるべき愚行。

 それでも葉火は、目の前の愚かしさを責め立てる気にはなれなかった。


「だって話を聞く限り、おばあちゃんのこと好きだし、あたしを大事にしてるじゃない」


「…………は?」


 シリアスを台無しにする間の抜けた声。

 葉火もまた似つかわしくない陽気な笑みを作る。


「本気で嫌ってるなら、あたしと引き離すでしょ。あたしのことも捨てる先なんていくらでもあったわけだし。一人にしないでくれたわけじゃない」


「後悔させたかっただけだよ。その子に母親がいないのはあんたのせいだって。私はあなたを道具として使ったんだ」


「おバカね。あたしを誰だと思ってんの。おばあちゃんの孫よ」


 火薙が娘をただの道具としか見ない人でなしであったなら、祖母は何としても会うのを阻止しただろう、と葉火は思う。

 実際のところは分からないが、今日まで自分を育ててくれた過保護な祖母を信用するのに、迷いなどあるはずがない。


「後悔させたかったのは事実でしょうけど、それはそれとして、おばあちゃんが喜んでて嬉しかったんでしょ」


「違う。違うよ。私はそんな善良じゃない」


「そうね、甘ったれだわ。中途半端。繊細と言い換えることも出来なくもないかしら」


 善良ではないが、悪でもない。

 極端に振り切れる人間だったなら、きっと繋がりは残さなかった。

 今頃は全て忘れて新たな自分をやり直しているはずだ。


 しかし火薙にはそれが出来なかった。

 投げ出しておきながら未練がましく後悔ばかりを募らせている。

 一時の感情に首を絞められ続けている。


 彼女は過去を忘れられない。

 その理由は話を聞いてよく分かった。


 忘れられないのは、忘れたくないから。

 忘れたくないのは、忘れられたくないから。

 また会いたいから。


 好きだから嫌いで、嫌いだから好き。

 許して欲しい。許さないで欲しい。

 

 ――うん、なるほど。

 この場において口にすべきではないと判断できるだけの分別は身に付けたから、言わないけれど。


 面倒くさいことになってるわ。

 解決策なんて一つしかないのに、その一つを分かっているでしょうにぐだぐだと。


 それに改めて考えるとこの人あたしに全然興味無いし普通に道具として使われた気もしてきたわ。


 なんて締まらないのかしら、あたし。

 憂みたい。

 嬉しいわ、すごく。


 葉火は口をきゅっと結んで笑いそうになるのを堪え、よしもうとことん押そう、と決意した。


「半端なのはおばあちゃんも一緒よ。そしてあたしも。だから人はいくらでも変われるの。おばあちゃんも丸くなったし、ってことはチャンスだと思わない? 思うでしょ」


「チャンス?」


「当然、清算のよ。お互い変化があった今だからこそ、新たな風が吹くというものじゃない」


「……私はずっと幼稚なままだ」


「うっさいわね。顔出せた時点で全然違うわよ」


 語気を強めて葉火は返す。

 うだうだ言ってないで。

 会って砕けろ当たって砕けろってやつだ。


「というかおばあちゃんにもかなり問題あるわよね。その辺りも含めて、今夜じっくり腹を割って話し直しなさい。安心するがいいわ、あたしも一緒にいてあげるから。喧嘩になったら上手いこと両成敗してあげる。いずれあんたのパートナーも呼び出すとして――まあ、とにかく」


 パン、と手を鳴らして腕を組み、胸を張る葉火。


「決まりね。切っ掛けはどうであれ、おばあちゃんに会うのが一番の目的だったんでしょ。違う?」


「……違わない」


「あはっ。好きよ、素直」


「でも、あなたに会いたかったのも、嘘じゃない」


「当然ね。あたしに会いたくない生命なんて存在しないわ」


 毛先を指に巻きつけながら葉火は言う。


「今日は一緒に帰るわよ」


「……うん」


「土壇場でごねたら引っこ抜くから」


「髪の毛を……?」


「分かってるじゃない。禍根、と見せかけての毛根よ」


 葉火が勝気な笑みに高笑いを添えると、火薙は「ごめんね」と呟いた。

 頬を引っ張り「ありがとう」に修正させて。


「ん」


 と葉火は両手で自身を指す。

 火薙が困惑しているところを見るに、可愛さは通用しなかったらしい。

 節穴だわ。


「名前。呼びなさいよ。あたしの」


「…………」


「いいから」


「……葉火」


「まあまあね」


 辛口な採点を下しながらも微笑む葉火を、火薙は寂しそうに見つめる。


「ずっと思ってたけど、あたしを可哀想な奴みたいな目で見るのやめなさい。いくら身勝手とはいえ、あたしを憐れむのは許さないわ」


「それは、こんな奴が母親でごめんって気持ちで」


「分かってるわよ。今後それも禁止」


 得意気に言い、葉火はふふんと鼻を鳴らす。


「あたし、今が楽しくて楽しくてしょうがないの。重苦しい空気なんてお呼びじゃないわ」


「……葉火」


「あたしも大概身勝手でしょ」


 あんたの娘だもの、と笑いかける葉火。


 そう、身勝手。

 剣ヶ峰葉火はわがままに思うがままに生きてきた。

 その果てに――いや、その途中で。

 貫くばかりではいけないのだと、正してくれる人達に出会えた。

 

「次はあたしの話を聞いて、あたしのことを知ってくれる?」


「聞かせて」


 頷く火薙の微笑には作り物でない自然さが感じられた。


「あたし、少し前まで結構嫌われてたのよ。自己中心的で好き勝手に振舞って――いま思えば当然ね。痛い子だったわ」


「うん。それから?」


「憂と夜々と三耶子、友達と過ごしていく中であたしは変われたの。自分を大事にするのは他人を大事にすることでもあるって、気付けた」


 ――他人への気遣いとか考え方を自分の形にできれば、もっとすごい奴になれると思う。

 憂がくれた言葉を思い出す。


 自分がすごい奴になれているのかは分からない。

 でも、人と並べる奴にはなれていると思う。


「おかげで今はたくさんの人に囲まれてる。今日だって、貴重な春休みなのに大勢が力を貸してくれたわ」


 窓の方へ目を遣る。

 そこには如何にも気にしていない風で中の様子を窺う愉快な友人達の姿があった。

 そんな光景を見せられて、笑わずにいられるはずがない。


「あたしはあんたの娘で、あんたはあたしの母親よ。だからあいつらが一生懸命探してくれたの」


「……うん」


「あはっ、見透かしたように言ってあげる。仮に母親の資格なんてものがあったとして、それを決めるのはあたし――あたしらよ」


「すごいね。分かるんだ」


「友達の影響ね。納得しなさい。お腹を痛めて産んだ子供が、幸せに生きてる。十分すぎるほど母親じゃない」


「……葉火。ありがとう」


「分かればよろしいわ」


 分かってもらえたなら、嬉しいわ。

 緩みに緩んだ口元を引き締め葉火は再び窓を向く。

 友達の顔を視界に収める。


 ありがとう。

 好きよ。

 大好き。

 愛してる。


 そしてあいつらも、あたしのことが好き。


 あたしは。

 剣ヶ峰葉火は――


「そういえば、さっきの話であたしへの感情が語られてなかったわね。ずっとおばあちゃんとあんたの話だったもの」


 不意にそう投げかけて、葉火は火薙を真っすぐに見据える。

 それからニィと口の端を吊り上げて。


「語らなかったんじゃなくて語れなかったんでしょ」


 葉火の言を受けた火薙が、面食らった様子で吐息をつく。


「教えてあげる。あんたはあたしを愛せなかったんじゃなくて、知らなかっただけよ」


 愛せなかったのではなく、見ていないから知らなかっただけ。

 語れるだけの想いを持っていないのに、近くの感情と結び付けて結論を出しただけ。


「自分やおばあちゃんばかり見てて、あたしのことなんてまるで眼中になかったでしょ」


「そんなことは……ある、か」


「なら問題ないわね」


 と、立ち上がった葉火は凛とした佇まいで。

 不敵で挑発的に破顔し、高らかに告げる。


「これから愛せばいいのよ。やり方は簡単。ただ、あたしの隣にいるだけ」


「隣に、いるだけ?」


「もう逃げずにこの先ずっと、傍であたしを見守ってなさい。友達と一緒に変わっていくあたしを。もっともっと魅力的になるあたしを。そしたら――」


 それだけでいい。

 そうすれば。

 そうしていれば――


「お母さんも、絶対にあたしを好きになるわ!」


 好きにならないはずがない。

 愛さないはずがない。

 胸を張って、何度だってそう言い切れる。


 ――だってあたし、愛されてるもの。

 たくさんの素敵な人達に。


「葉火……」


 今にも泣き出しそうな感極まった様子の火薙に、葉火は目一杯の微笑みを贈る。


 嬉しそうな顔しちゃって。

 もしかするともう好きになっちゃった?

 それはそれで浅いって言われれるみたいで癪ね。


「というわけで早速、万あるあたしのいいところの一つを見せてあげる」


「……見たい。見せて」


「得意なのよ、料理。好きな物言ってみなさい」


「えーと」


「お蕎麦? 天ぷら? あんまり悩まれるとドキドキしちゃうじゃない」


 悩み始めた火薙をからかうような調子で急かしてみる。


「なら、お蕎麦を」


「承ったわ。目を疑うほどの天ぷらも添えてあげる」


 と、壮語を吐いてみたはいいが、果たしてここで用意できるのだろうか。

 そば湯を用意する周到さを考えれば、蕎麦や天ぷらの材料もあるとは思うけれど。


「それだけじゃ足りないでしょ。今夜はたっぷり絞られるんだから、お腹一杯食べて英気を養っておきなさい」


 メニューを開いて火薙の前に置く。


「ありがとう、葉火」


「もっと褒めなさい。あ、そうだ。いいタイミングだし改めて言っておくわ」


 そして葉火は大した前振りもせず。

 劇的でもなんでもなく。

 さらり、と。

 友達を想いながら――口にする。


「産んでくれてありがとう。おかげであたし、幸せよ」


「――っ」


 葉火は笑って、笑って――笑う。

 心からの感謝を、幸福の軌跡を伝えることができた。

 かつて憂に語った夢が、ここに叶った。

 きっとこれからも、こんな嬉しさや達成感を得ながら生きていくのだろう。

 大事な人達と、一緒に。


「じゃ、作って来るから待ってて」


「ありがとう……葉火。ありがとう」


 と、ここで一区切りをつけても良かったのだが。

 油断しきっている火薙にもう一撃お見舞いしてやろうと葉火の悪戯心が燃え上がる。


「ところで、ちゃんとお財布持ってるわよね」


「え? あ」


「逃げ癖が高じてとうとう食い逃げ?」


「ち、違う。外にいる子が――」


「冗談よ」


 火薙の慌てる姿がおかしくて葉火は子供っぽい笑い声をあげた。


「あたしの奢り」


「そういうわけには」


「心配いらないわ。今日が何の日だか知らないの?」


 身勝手だし擁護できない程度にはろくでなしみたいだけど。

 それでも彼女は母親だ。

 産み落としてくれた偉大な人だ。

 幸せに生きていけるのはこの人のおかげなんだから、貰った分は返していくのが筋ってものよね――


 と、葉火は豪快に口元を吊り上げて。

 これ以上なく破顔して、言った。


「娘の初めての給料日よ、お母さん」


 初めてのお給料で、親孝行。

 面白みもなければ自分らしくもない、普通の使い道。

 でも。

 このごく普通でありふれた特別が、すごく、誇らしかった。

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