姉倉憂
火薙を取り逃がした現場へ戻ると、こちらに気付いた一人の少女が手遊びを止めて会釈をした。
日焼け肌黒髪ストレートロング。
妹ハムの一味である。
「所持品は全て没収済。それ故に油断。目標は我が同胞が追跡中。古海名人、町田伯は大通りへ。では、吾輩も速やかに」
少女は淡々と言葉を並べ再びの会釈で報告を締めると、頭を上げる勢いのまま走り去ってしまった。
やや言葉足らずな節もあるが、斯かる状況において簡潔なのは美点だ。
「交通機関を利用するルートは三耶子さん達に任せよう」
「救援も呼んでくれそうね。それじゃあたしらは遮二無二追うわよ!」
頭に血が上っているのだろう追跡中の中学生組から連絡は無い。故に現在地は不明だが、近くにいるのは間違いないためとにかく足を動かすとする。
憂達は大通りとは反対方向、虎南の友人の進路を辿るように走り出した。
「私のすばしっこさを活かす日が訪れたようだね! すばやしーば!」
一息に先頭へ躍り出た夜々が、高らかに言う。
すかさず葉火が隣に並び、負けじと声を弾ませる。
「速力に差があるし散開するわよ。見つけたら連絡寄越しなさい!」
「捕まえちゃってもいいんだよね。私を褒めて撫でる準備をしておきたまえ!」
さらに速度を上げて楽しそうに競り合う葉火と夜々。
負けてられないと憂も二人に並んだ。
やがて四つ角に差し掛かり、直進か左右どちらかの三択が示される。
が、三人とも停止はもちろん減速もしない。
「任せたわ!」
葉火の一言を合図に。
事前に示し合わせていたかのような自然さで。
葉火が直進し、夜々が右へ折れ、残る左を憂が選んだ。
任された。
地を蹴る足に一層の力を加えて進む。
いつまでも地平線を追いかけていられそうな心地だ。
このまま走り続けたかったが、進路の先にのんびり歩く九々雲を発見したため、追い越したのち速度を落として振り返る。
「九々雲さん。やってくれたらしいね」
「よ、倉敷。お姉さんどこ行った?」
相変わらずの悠然とした様に意気を削がれそうになるも、そうはさせない。
場所は知らないようだし知っていても聞き出すのに時間が掛かるだろうから、事情聴取は後に回そう。
と、場を離れようとする憂だったが、九々雲が喋り出したため足を止めた。
「あのお姉さん、友達と遊んだことないんだって」
「……そうなんだ」
「鬼ごっこ。楽しいよね」
九々雲は自身の言いたいことを言うばかりだったけれど、彼女なりに考えがあって行動したというのは、伝わってきた。
憂達が葉火の側から物事を見るのと対照に。
唯一彼女だけは、火薙の側に立って、考えた。
憂はもう一度振り返り、九々雲と視線を交わらせる。
「悪戯に引っ掻き回したいわけじゃないことは分かった」
「やるじゃん」
「それはそれとして、九々雲さんも参加してもらうよ。遊びにしろ本気にしろ、人数は多い方が良い」
「インテリ派なんだよね、私」
「インドアだろ。美奈子ちゃんに昨日の暗殺未遂を告げ口されても構わないならいいけど」
「それは怖い」
そう言って九々雲は柔和な笑みを湛え、逃げるように憂の来た道を引き返して行った。
彼女が火薙に肩入れしている点を考慮すれば、大人しくさせておいた方が良いのかもしれないが――どの道、行動を読める相手ではない。
気を取り直して。
走りながらどこへ向かうかを考える。
火薙の所持品は中学生が取り上げているとのことなので、行動は制限されるはずだ。
バスやタクシーなどの移動手段は使えないし、万一に備えて三耶子達が目を光らせてくれている。
昔の知り合いの家に転がり込むという一手も考えられるが、であれば九々雲と山暮らしをするだろうか?
それに火薙は友人との交流に乏しい旨の発言も聞いた。
思考を巡らせて。
やがて浮かんだ一つの案を採用しようとしたところで、正面から駆け寄って来た人物に声を掛けられた。
「姉倉、そっちどう?」
「鹿倉さん。手伝ってくれてるんだ」
立ち止まって差向う。
鹿倉の額からは汗の粒がいくつも垂れていた。
「僕はこれから蕎麦屋へ行こうかと」
「そこなら名瀬の妹達が向かってる」
鹿倉は呼吸を整えつつ、対象を見失って右往左往している中学生の塊と合流し、道標を与えたと説明してくれた。
すぐに駆け付けられたのは、前日に三耶子から今日の動きを聞いており、念の為近くで待機していたからとのこと。
「それでさっき、古海に言われた。中学生をまとめてって」
「なるほど。人を使うの得意だもんね」
憂の発言が急所に入ったのか、鹿倉は気の毒なくらい咳き込んだ。
「……ごめん、僕が悪かった。心強いし助かるよ。でも反発されなかった? 特に虎南ちゃんから」
「……されたけど、状況が状況だから理解してくれてる。古海のことは信頼してるから、従うって」
そっか、と憂は小さく微笑む。
虎南は頭にドレミファソラシドが付く阿呆だが、感情に振り回されるだけの分からず屋ではない。
自慢の妹である。
「私も信頼を裏切るつもりはない。絶対に捕まえるから」
「頼りにしてるよ」
憂は本心からそう答え、鹿倉の肩越しに奥を見遣る。
「中学生が火薙さんを見失ったのはこの先?」
「いや、撒かれたのはこの辺りみたい。古海の呼びかけで人数増えてるから、ここを中心に囲むように配置してる。今のところ、私が来た方向が厚め」
「それなら僕は少し戻りつつ探してみよう」
頷いた鹿倉と別れ、憂は来た道を引き返して途中の角を曲がった。
方角としては葉火と同じだ。
流石に民家へ押し入るとは考えたくないが注意を払いつつ、狭い路地の間なども見落とさないように気を配りながら、右左折と直進を繰り返す。
――闇雲が過ぎる。
荒っぽくとも方向性を固めよう。
そう考えつつ新たな曲がり角に差し掛かった時、何者かが飛び出してきた。
慌ててブレーキを掛けて衝突は回避。
「ごめんなさ――って憂くんだ!」
古典的かつ運命的な出逢いを果たした相手は、夜々だった。
どうやら直感に任せて道を選んでいるうち、互いに近付いていたようだ。
「夜々さん……! この愛くるしさは見間違えようがない」
――クエスチョン。ドッペルゲンガーの正妻戦争、勝つのはだーれだ!
――答えは全滅!
ふと虎南との会話を思い出したがマジで関係なかったので隅へ追いやり。
憂はハンカチで夜々の汗を拭った。
「ありがと。けっこー走り回ったけど、それらしい人はまだ見つけられてないや」
「こっちも同じ。人も増えてるから時間の問題だと思うけど、僕達で見つけたいよね」
「ねー」
夜々もまた自分のハンカチを憂の頬に当て、ふにゃりと笑う。
疲れた身体も夜々の心遣いで全回復した――心情的には。
ハンカチを仕舞った夜々が目を輝かせ、言う。
「しばし一緒に探してみない? ほら、カップルは引かれ合う理論ですんなり見つかっちゃうかも」
「いいね。そうしてみよう――」
「さて憂くんは私について来れるかなっ!」
強気な合図と共に意気揚々走り出す夜々――の肩を掴み、引き止めて。
憂は一瞬の閃きをそのまま行動に移した。
夜々をお姫様抱っこしたのである。
これぞバカップル。
「ひゃー! これは一体何事!?」
「バカップルは引かれ合う、これが僕らの最適解だ!」
有無を言わさず走り出す憂。
やけくそじみたプランだが、これくらいの覚悟が必要な気がしたのだ。
一度やってみたかった、というのも勿論ある。
抱かれた夜々は拳を開いては閉じ視線を忙しなく動かしたりと落ち着かない。
それは理性を放棄していないから――ではないようで。
「む、胸が高鳴る……憂くん王子様みたい」
走り回って気持ちが昂っているのだろう、夜々もなかなかに大概だった。
喜ばしい反応である。
しかし憂は早くも後悔しつつあった。
いくら夜々が軽いとはいえ。
憂が密かに身体を鍛えているとはいえ。
こうして走り続けるのは思いのほかハードだったのだ。
かといってすぐに音を上げれば、夜々を傷付けることにもなりかねない。
憂はしばらく根性を燃料に余裕を維持し、やがて言った。
「ダメだ。可愛くて集中できない。このままじゃ行き先が僕の家になる」
「も、もうだいじょぶだから無理しないで。下ろしてちょーだい」
「それじゃまるで夜々さんが重いみたいじゃないか」
「重くないよっ! 重くないよね!?」
ふぅーっと息を吐きだしたのち呼吸を止める夜々。
あざとい。
思わず立ち止まりそうになった憂は、そこで何者かがこちらへ視線を寄越していることに気付き足を止めた。
二人組の男女。
こちらと目線がかち合うや気まずそうに顔を逸らしてしまった。
「……綾坂君に終里さん。奇遇だね」
「ど、どうも」
気遣いの感じられる笑みを浮かべ、ひらひらと手を揺らす綾坂と終里。
対する憂は恥じらいを排除して爽やかに笑む。
夜々は照れ笑いしつつ手を振り返す。
「剣ヶ峰さんから話を聞いて、力になれたらなーと思って……」
「姉倉君たちは何を……?」
「まさにその葉火ちゃんの件で駆け回ってるとこなんだ。そうだ、二人に聞きたいことが生まれた」
首を傾げる二人に憂は問う。
「ここらでカップルが二人きりになれる場所知らない?」
綾坂と終里が「え?」と同じ音を発した。
けれど憂は気にしないし臆さない。
「人目を気にせず憂いなくイチャつけるスポット。知ってたら教えてくれないかな」
「ちょ、ちょっと憂くん! どしたのいきなり!」
「火薙さんが隠れてる気がするんだ」
なんとなくの、こじつけ。
カップルが訪れる山を隠れ家に選んだ火薙だから、もしこの周辺にカップル御用達のスポットがあれば、そこに隠れて追手をやり過ごすのではないかという、希望的観測。
あまりにも言葉足らずが過ぎるが――
綾坂夫妻は顔を見合わせて頷くと、「分かった」と言ってくれた。
「この道を真っすぐ行った先にある呉服屋さん、分かる?」と終里。
「うん、待ち合わせに使ったことがある」
「その裏手にあるビルに、俺と千草はよく行くよ」
曰く、今は使われていない三階建てのビルがあるらしい。
立入禁止となっているが屋上を利用できるため、カップルに重宝されているのだそうだ。
出入口は施錠されているが、裏口のドアは思い切り押したり引いたりすれば開けられるように細工されているとのこと。
「たまに先客がいることもあるけど、基本的には穴場だよ」
「そっか。意外と悪いとこあるんだね、綾坂君」
憂が笑って。
綾坂も笑う。
「ありがとう。早速行ってみるよ」
屋上。
その響きはすとんと胸に落ちてくる。
なんとなく正解を引き当てた気がした。
「力になれたなら良かった」綾坂が言う。
「二人も打ち上げ参加してよ。歓迎する」
そう言って憂は一歩を踏み出し――
「そうだ。紹介が遅れたけど」
自慢するように夜々を持ち上げて。
微笑みながら言った。
「名瀬夜々さん。僕の彼女で、大好きな女の子」
不意打ちを受けた綾坂と終里は驚いた顔をする。
それは夜々も同様だったが――すぐに嬉しそうな吐息を漏らし、はにかんで。
そして言った。
「姉倉憂くん。私の彼氏で、世界一好きな男の子」
〇
――今度は私が憂くんを抱っこするね!
と、この上なくご機嫌にはしゃぐ夜々だったが、腕力が足りずその野望は叶わなかった。
代わりとばかりに憂の手を取り自称マッハで駆け出し、そうして二人は目的地のビルへ到着。裏口へ回りドアを押したり引いたりして突破して屋内へ。
中は意外と小綺麗かつ窓から光が射し込むため移動に支障は無かった。
階段を一気に駆け上がり踊場へ出ると、憂は勢いのままドア押し開けた。
流れ込む心地良い空気は向かい風なのに背を押してくれるようだった。
屋上へ出る。
広々とした青空。
その下に――彼女は居た。
逃げるつもりなど無いとでも言うように、堂々と。
鉄柵の手前に立ち景色を見下ろしている。
そんな彼女を視認するや否や夜々が一直線に駆け寄って行き、その背中に飛びつこうと踏み切った――直後に火薙が振り返ったことで、ハグする形が出来上がった。
「確保っ!」
どちらかというと夜々が捕まっているように見えるが……なにはともあれ、目的は達成だ。
ここにいる気はしたけれど――本当にいて安心した。
憂はスマホで三耶子達に位置情報を送り、火薙へ歩み寄る。
「探しましたよ、火薙さん」
「……よくここが分かったね、憂くん」
「親切なカップルに教えてもらいました」
憂は街並みを見下ろしながら、問いかける。
「高いところ、好きなんですか?」
これもまた、こじつけの一つ。
火薙の描いた絵。
中でも特に印象に残っている二枚が高い所から見下ろす構図で描かれていた、というだけ。
「思いのほか包囲が早くて、追い詰められただけだよ」
興味無げに火薙は言った。
夜々の頭を撫でる方が重要であるとでも言いたげな、そんな声で。
「どうして逃げたんですか」
「そういう気分になった」
「約束を破りたい気分にですか」
火薙は答えず、ニヒルな笑みを憂へ向ける。
「どうして憂くんがそこまでする? あの子のために」
「前にも言ったけど、僕らが友達だからです」
友達の願いを叶えてやりたい。
友達に喜んでもらいたい。
言葉にすると、ただそれだけ。
ただそれだけで十分だ。
「友達……ね」
火薙が自嘲するように口辺の片側を上げる。
「それは今だけだ。ずっと今のままではいられない」
「そうですね。人は変わっていくものだから。今と同じようには、いられないと思います」
望もうが望むまいが、変化は必ず訪れる。
けれど、変わるばかりではない。
変わったり変わらなかったりを繰り返して、生きていく。
その事実を身を以て味わってきたからこそ、憂は声に力を込める。
「それでも僕らはずっと友達です。環境が、見方が、伝え方が。何がどれだけ変わろうと、そこだけは変わりません」
「……青くて、眩しくて、理想的だ。キミは良い大人になる」
「どういう意味ですか」
「人は理想が折れて、それを捨てた時、大人になるんだ」
憂の目を見据えて火薙は言った。
挑発的に、口元を歪めて。
掛かってこいという意思を伝えるように。
表情の作り方が葉火によく似ている――
「そうでしょうか。折れたからって手放す必要は無い、と僕は思います」
おかげで言いたいことを言いやすい、と憂は思った。
大人のなんたるかも知らない子供の戯言にはなるけれど。
生意気にも、青臭く、感情的に。
反論させてもらう。
「大事にしてきた物を捨てるなんて、悲しいじゃないですか。他ならぬ自分だけは、最後まで大事に持ち続けないと」
「現実は甘くないよ」
感情で語っていたこともあって大人ぶった物言いに熱くなった憂は、
「だから逃げるんですか」
と、切り込んだ。
反射的に口を出てしまったが……構わない。
彼女が――火薙が求めているのは会話そのものだと、そう思うから。
「本当は逃げてる自分が嫌なくせに」
ここへ来た時――ここで火薙を見つけた時、憂は確信していた。
本心では、彼女は逃げ出したりしたくないのだと。
でなければこんな、自ら逃げ道を断つような場所を選ばない。
悠長に会話を続けたりしない。
黙って耳を傾けたりしない。
「高い場所にいるのは、誰かに見つけて欲しいからなんじゃないですか」
少しでも目立って誰かの気を引こうとしているのだと、憂には感じられた。
かつての葉火もそうしたように。
かつての娘もそうしたように。
やり方は違えど火薙も他者との繋がりを求めているのだと。
「逃げることそれ自体を否定するつもりは、ありません。だけど火薙さんの欲しがってる物は、前にしかないと断言できます」
それに――
憂は火薙と似た人物を知っている。
もしかすると火薙よりも厄介だったかもしれない人物を。
他人と関わるのが億劫だと口にしながらも、本当は人に飢えていて。
心のどこかで切っ掛けを望んでいて。
そのくせ理屈を並べて自分から動こうとせず。
いざ誰かが向かって来ても逃げ出すばかりで。
そこにもまた理由を後付けして。
けれど決定的な拒絶はせずに。
結局最後には嬉々として全てを受け入れた――そんな面倒くさい奴を知っているから。
分かります。
分かるんですよ、火薙さん。
「娘に会いたいと思っているのなら、あなたがそう思ったのなら、会えばいい」
「簡単に言うね」
「昔は僕も逃げ癖があったんですけど、逃げないっていうのは、頭で考えるよりずっと簡単なことだったんです。終わってみれば……ですけど」
憂は火薙を真っすぐ見据える。
火薙は目を逸らさず受け止める。
「でもそれは、一人じゃ無理でした。逃げる僕を追い回してくれる人がいたおかげです」
名瀬夜々が。
古海三耶子が。
剣ヶ峰葉火が。
姉倉憂と関わり続けてくれたから。
逃げても追いかけてくれたから、一人じゃなくなって。
逃げるのをやめて人と向き合い、前へ進んで、そして自分を好きになることができた。
人を本気で好きになれた。
だから。
だから今度は――
僕も誰かにそうしたい。
「火薙さん。僕があなたを逃がしません。なので、逃げるのは諦めてください」
ストレートに言葉にして。
伝わるように伝えて。
そして憂はおかしそうに笑った。
「散々後手に回っておいて、なんですけど」
言いながら頬を掻く憂の姿を見て――火薙は。
張り詰めていた糸が切れたかのように、気の抜けた笑みを浮かべた。
「……嬉しいことを言ってくれるね。青い頃に欲しかったよ、キミ達みたいな友人が。私、ともだち一人もいないから」
過去を懐かしむような表情をして火薙は目を伏せる。
そして短い間を置き、憂を見る。
「憂くん。一つ聞いてもいいかな。キミに聞いてみたい」
「なんですか?」
「……昔、考えてしまったことがある。もし私に友人と呼べる存在がいたのなら、私は彼を好きになったのだろうか。他に何も知らないから、縋るように、彼を好きになったんじゃないかって」
質問の意図は分からなかったが、憂は考える間を設けることなく、ほとんど反射で本心を口にした。
「たとえ友人に囲まれていても、火薙さんは同じ人を好きになったと思います」
「どうして?」
「人を好きになるってそういうものじゃないですか」
憂は夜々へ視線を移し、小さく微笑む。
確保して以降、ずっと火薙の胸に顔を埋めた体勢で抱えられている夜々の後姿を見て――笑う。
「僕は彼女達を好きにならなかった今日までを想像できません」
想像の外側の方が遥かに広大であることは分かっている。
けれど、こればかりは。
想像できないのだから、あり得ないと言うしかない。
「たとえ何があっても、僕は必ず彼女達と出会って、必ず好きになります。夜々さんを。三耶子さんを。葉火ちゃんを。絶対に――好きになります」
絶対に。
これだけは絶対に。
自信を持って断言できる。
彼女達と出会わない姉倉憂は。
彼女達を好きにならない姉倉憂は、あらゆる可能性の中にただの一人も存在しない――と。
「……すごい男だな、キミは」
「やめてくださいよ、悪い気はしませんけど。僕はただ、自分の大切なものを利口ぶって否定したくないだけです」
くすぐったそうに笑う憂。
火薙も同じ顔をして――そして。
「……悪かった」と言った。
「逃げて。やるべきことから。やりたいことから」
「それは葉火ちゃんに伝えてあげてください」
「謝ることがまた増えた」
溢れるものを堪えるように目を細めた火薙が、夜々の頭を一撫でする。
そして言い辛そうに呟いた。
「まだ間に合うかな」
そこでようやく拘束が緩んだのだろう、顔を離した夜々が思い切り呼吸を堪能したのち、笑いかけた。
「生きてる限り遅すぎるなんてこと無いと思いますよ」
「……ありがとう。憂くん、夜々ちゃん」
火薙は優しい声で礼を告げ、「娘に会う」と柵の向こうへ目を向ける。
その横顔は涼やかだったが、緊張の色も含まれているように憂は感じた。
当然だろう。
覚悟を決めたとはいえ、気負いが無くなるわけではない。
あの葉火だって、ついさっきまで緊張気味だった。
葉火はともかく火薙は会話に不慣れな部分もある、となると、少しほぐしておいた方がいいかもしれない。
お兄ちゃん的思考を働かせた憂は雑談を持ちかけることにした。
「そういえば火薙さんはカップルを見るのが好きなんですよね」
「うん。楽しいね」
「この街はどうでした?」
「みんな明るくて、一途そうで、満足したよ」
火薙の答えを受けた憂は、待ってましたとばかりに不敵な笑みを湛える。
「困りますね」
「……?」
「あなたはまだ、一番熱いカップルを見ていない。僕達を。僕と夜々さんを味わえていない」
憂の発言に夜々はまさにビックリ仰天という有様で、火薙も目を剥いた。
「今の時代のこの街には僕と夜々さんがいる。僕らを見ずして勝手に満足されては困ります。にわか呼ばわりされますよ」
あまりにも自信に満ちた憂がおかしかったのだろう。
火薙は「――はは」と、助走をつけて。
更に目を見開き――割れんばかりの哄笑を辺りに響かせた。
「あはははははは! バカか、バカだな、キミは!」
「バカにならなきゃ大損なんですよ、学生は」
予想外のウケに動揺した憂は葉火の受け売りを口にして照れ隠しをした。
その後もしばらく笑い声が響き、やがて落ち着いた火薙が、今度はニヤついた顔をする。
「愛してる?」
「それはまだ本人に伝えたことがないので、ここでは控えさせてもらいます」
「真面目なおバカだ」
愛してる。
今すぐにでも伝えたいくらいだが、ここぞで使うとっておきとして温存しているのだ。ラストエリクサー症候群とやらの心配はない。
「その気持ちも変わらない自信があるんだね」
「はい。変わるのは伝え方だけです」
憂の答えがお気に召したのだろう、火薙は葉火のように無邪気に笑って。
「もう逃げないから。二人で抱き合うといい。前払い、よろしく」
引き剥がした夜々の背を優しく押した。
とことことこ。
ぎゅっ。
愛らしい仕草に震えあがりつつ憂が夜々を抱き返すと――タイミングを計っていたかのように、人が集まり始めた。
「あら、良いタイミングで参上できたみたい」
三耶子と弦羽にマチルダ。
「どっけらしゃー! 一番乗りっ! 違ったー!」
続いて中学生組と疲労困憊の鹿倉。
それからも虹村や杜波さんといった、手伝ってくれた多くの人達も続々集結する。
そして。
その人波を掻き分けて降臨したはひちゃんが、迷いない足取りで火薙の前まで歩み寄って。
「ようやく会えたわね」
と。
ついに、再会を果たした。
葉火は腰に手を当て火薙を睨むように目を眇める。
ここは二人きりにすべきだろう。
憂と夜々が離れようとすると、葉火は軽やかに身を翻し、言った。
「ここだと邪魔が入るかもしれないから場所を移すわよ。案内するわ、あたしのお店に」
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