さよならを教えない
兎にも角にもまずは逃走を封じるべく、憂は対象へ迫り左手を伸ばした。
狙うは葉火母の右手首。
挨拶代わりに掴みかかるなど夜の山中において、いや、いつ如何なる時と場においても常識を逸した愚かしい行為だが、今の憂に配慮できるだけの余白は残っていない。
が、それ故に。
心と身体が一分のズレもなく同期している。
――絶対に逃がさん。
対する葉火母はその愚直なまでの力尽くに驚く様子もなく、どころかまるで葉火のように嬉々として口角を上げ――先に左手で憂の左手首を掴んでみせた。
次いで素早く左手を引き、独楽を回すようにして憂を反転させつつ引き寄せる。そして身体の正面で背を受け止めると、締めとばかりに憂の首へ右腕を回す。
かくして、葉火母を捕らえようとした憂が逆に拘束されてしまったのだった。
「この少年がどうなってもいいのかな?」
葉火母の低い声を聞き、三耶子と中学生達の動きが止まる。
味方を人質に取られたことで生じる膠着。
誰もが状況を打開すべく思考を第一とする――かと思われたが。
しかし。
ただ一人。
名瀬虎南だけは足を止めない。
減速する素振りを一切見せず、ただひたすらにひたむきに、憂との距離を詰めていく。
それでいい――憂は口の端をわずかに上げる。
「虎南ちゃん! 僕ごと討て!」
「さらばお兄ちゃん――!」
そして虎南は右足で力強く踏み込み。
踏み切って。
溢れんばかりの愛に満ちた頭部を、憂の鳩尾に叩き込んだ。
肺の空気が全て鈍い呻きとなって憂の口から零れ出る。同時に己の勢い任せを後悔した。
せめて腹を狙え小娘……!
悶絶する姿を見て人質としての価値がないと判断されたのか、それとも不憫さに同情されたのかは不明だが、とにかく憂は解放された。
自由になった両腕で胸をさすりつつ呼吸を整えて。
「おのれ名瀬虎南……」
やがて憂は恨み言を絞り出した。
「はぁー!? お兄ちゃんがやれって言ったんでしょ!」
要求に見事応えてみせた虎南は当然不満ありありである。
兄妹の食い違いはごく自然に頬の引っ張り合いへ発展した。
そんな光景を横目に三耶子は葉火母へ歩み寄ると、そっと腕に抱き着いた。
「こんばんは。少しお話いいですか?」
「ならさ、おいでよ」
隣の九々雲が返事をする。
「秘密基地。一緒に住んでるんだ、このお姉さんと」
「行こうかお嬢さん。美味しい塊をご馳走しよう」
と、三耶子を腕に装着した葉火母と九々雲が踵を返して歩き出す。
じゃれ合いを止めて憂と中学生組も後に続いた。
葉火母がいたことにも驚いたが、秘密基地に同棲、山暮らし。
二人の関係をはじめ気になる点だらけだ。
「お兄ちゃん、葉火さんに連絡しましょうよ」
虎南が言う。
悩ましいところである。
未だ連絡が無いからには眠っているに違いない。
寝起きで夜の山へ挑むのは、いくらバイタリティ溢れる二人とはいえハードすぎるだろうし、なにより危険だ。
「時間が時間だし、場所も場所だ。葉火ちゃん母を僕の家に連れて行く方向で考えよう」
「見損ないました」
「葉火ちゃんと夜々さんもいるんだよ」
うわープレイボーイだー、と色めき立つ中学生をあしらっているうち、開けた場所へ出た。
高い木々に囲まれた空間。
というよりも、高い木に隠された空間という印象を受けた。
九々雲が秘密基地と称したのも頷ける。
「好きにくつろいで」
言いながら九々雲は、二つあるアウトドアチェアのうち一つに腰掛ける。
傍には天井の高い大型のテントが設置されていて、ここで暮らしているという話は嘘ではないようだった。
「丁度肉を食べるところだったんだ」
と、葉火母がテントと椅子から離れた位置にあるバーベキュー用のコンロの元へ。三耶子を腕にくっつけたまま火起こしを始める。
肉というジューシーな響きに惹かれたのだろう中学生組が、「お任せあれ!」と次々駆け寄って行く。
人が増えすぎるとかえって邪魔になると判断した憂は、九々雲の傍からその様子を眺めることにした。
「いいね倉敷。サボろ」
「残念だけど片付けは僕達がメインだ。ところで、いいの? バーベキューしたり寝泊まりして」
「へーきへーき。ここ、うちの親の山らしいから」
さらり、と。
自慢するでもなくそう言って、九々雲はこれまたどうでもよさそうに、憂に訊く。
「倉敷は何やってんの」
「人を探してたんだけど、九々雲さんのおかげで見つかったよ。ありがとう」
「お、ラッキー。褒められた」
小さく拍手をする九々雲。
「私を探してたんだ」
「じゃなくて、あの人。マチルダさんから聞いてない?」
「どうだろ。学校に忘れたんだよね、電話のやつ。困った困った」
九々雲はのんびりした口調で言い、おかしそうに笑う。
「あのお姉さんか。一目惚れ?」
「違う。友達の母親なんだ。二組の剣ヶ峰って子、知ってる?」
「さあ。初耳」
「初めて? お姉さんはなんて名乗ったの?」
「分からん」
分からんって。
冗談のつもりなのかを声色から推し量ることはできない。
なんとも捉えどころのない人である。
「知らないんだよね、名前」
「知らないって、教えてくれなかったとか?」
「聞くの忘れてた」
「……ごめん九々雲さん、僕は今キミをおバカだと疑った。会ったばかりってことだよね」
「そうそう。まだ
「いや聞けよ!」
思わず声を荒げる憂だった。
よくよく思い返せば九々雲は、憂と夜々との初対面でも名前を尋ねることはしなかった気がする。
目の前に現れた他人を当然のように受け入れる、妙な大物感を見せていた。
「ふふ、確かにね。いいこと言うじゃん、倉敷」
「……そりゃあどうも」
呆れるくらいおおらかな人だ。
まあいいだろう。
事情はどうあれ、葉火の母はここにいる。
調理組はいよいよ肉を焼き始める段階に突入し、葉火母が豪快に何枚もの肉をトングで挟み、網に置いた。
同時に中学生達が歓喜の声をあげる。
そこで虎南が緊張気味に言った。
「あ、あの! そこにトングの予備がいっぱいあるじゃないですか。これはまさか、トングで掴んだお肉をそのまま口に運んでも……!」
「いいよ」
「わはぁい! やったー!」
虎南に呼応して中学生組の熱狂がさらに温度を上げる。
共通の憧れだったのだろう、可愛らしい小娘共だ。
「私も焼いてこよーっと。倉敷、留守番頼んだ」
「留守番ってなんだ」
「守っといて、その椅子。いつも取り合いになるんだ」
そう言い残して九々雲はテントへ入って行った。
残された憂はひとまず空いた椅子に腰を下ろす。
次にもう一つの椅子へ移動して座り心地を確認して、また元の位置へ。
片方に不具合でもあるのかと思ったがそんなことはなく、二つの椅子は感覚的にほぼ同一であった。
二人は仲良し……と投げやりに結論して。
折を見て対話を試みようと憂が考えていると、想いが通じたのか、葉火母が賑わいを抜けてこちらへ向かって来た。
右手には肉の刺さった串が握られていて、左腕には依然として三耶子がアームカバーさながらにくっついている。
「少年は食べないの? 美味しいよ」
「晩御飯を済ませてるので、お気持ちだけ。あの、僕のこと覚えてませんか?」
「覚えてるよ、憂くん。あの時は世話になった」
葉火母は涼やかに笑むと、右手の肉を三耶子の口元へ持っていく。
三耶子がぱくりと噛み付いて、もしゃもしゃ咀嚼を始める。
会話は任せてもらうとしよう。
「
「合ってるよ。苗字は」
「名前は違うんですか」
「剣ヶ峰
「偽名?」
「私の青春は反抗期でね。その時に名乗ってた」
不意に葉火母――火薙が威圧するように目を細める。
「どうして憂くんが知ってる?」
その眼光の鋭さで、憂は彼女が葉火の母親であると確信した。
こうして見るとよく似ている。
似ているけれど、葉火と比べれば圧が足りない。
憂は怖じず怯まず立ち上がり、一呼吸して間を作り、言った。
「あなたを探していたんです。あなたに会いたい人がいて、僕達はその願いを絶対に叶えてあげたいから」
「持って回った言い方だ。さて誰かな、心当たりが――」
「剣ヶ峰葉火。あなたの娘です」
火薙の放った軽薄な調子をぴしゃりと断ち切る。
とぼけることは、許さない。
「僕の――僕達の、大事な友達が母親との再会を望んでいる。だから必ず見つけ出すと誓いました」
「…………」
「逃がしませんよ」
憂の言に火薙は自嘲気味に笑った。
「まさか憂くん達が、娘、の友達だったとは」
娘。
わずかにぎこちなかったけれど、火薙は葉火が自分の娘だと認めた。
「娘は元気にしてる?」
「ご自身で確かめてください」
「私のこと、恨んでるだろうね」
「会って話して感じ取ってください。そのために、火薙さんは戻って来たんじゃないんですか?」
火薙は答えない。
心の内を明かさない。
微笑に寄った口元は、正解と不正解を同時に告げているようだった。
彼女の真意は読み取れない――けれど、それでもいい。
どうであれ。
まずそれを知るべきは葉火なのだから。
憂達がすべきは、火薙を葉火の元へ連れて行くことだ。
「仮にそうじゃなかったとしても、葉火ちゃんに会うのは確定です。善は急げよ憂くん」
肉を完食した三耶子が言う。
「そうだね。今から僕の家に来てもらいます、火薙さん」
「待ってくれ二人共。一日だけ、時間が欲しい」
火薙の右手を掴み、憂は首を傾げた。
「了承しかねますが……どうしてですか?」
「整えたいんだ。身なりとか、色々」
火薙が寂しげに笑う。
本当は今すぐにでも葉火と引き合わせたい所だが、身なりを整えたい、気持ちを整理したいという火薙の言い分は理解できる。
しかし――彼女を手放しに信用するには、前科が多すぎる。
憂はどうするべきか考えて。
一つの結論を出した。
「分かりました。代わりに一つ、こちらのお願いも聞いてもらえますか」
火薙が頷く。
「明日、葉火ちゃんと会うまでの間、あなたを見張らせてもらいます」
「抜かりないね」
「どうでしょうか」
「分かった。お願いする」
「だったら今夜は私の家へお招きするわ」
待ってましたと言わんばかりに三耶子が声を弾ませた。
ありがたい申し出だ。
大見得を切っておいて情けないが、相手が女性であること、そして姉倉家では葉火と鉢合わせる可能性があることから、三耶子の協力が不可欠だった。
「ありがとう三耶子さん」
「ふふふ、考えることは同じね」
嬉しいことを言ってくれる。
おかげで場所の選定は難なくクリア。
次は火薙の監視だが、当然、三耶子一人に任せきりにはしない。
「僕は古海家の庭でキャンプするとしよう。これで内外完璧だ」
「倉敷、キャンプするんだ。いいなー」
と、いつの間にか近付いて来ていた九々雲が、焦げたマシュマロを頬張りながら言う。
「私も泊まろっと。おみやの家」
「おみやって私のことかしら。もちろん歓迎するわ」
「助かる。飽きてきたとこだったし。カップル脅かすの」
どうやら日頃、趣味の悪い娯楽を愉しんでいるらしい。
「さっきも一組仕留めてきた」
九々雲はしたり顔にピースサインを添えて言う。
何を誇らしげな――そこで憂は一つの可能性へ思い至った。
「九々雲さん。その一組って、マチルダさん?」
「え、あれ町田なの? やべー」
さして焦った風でもなくころころと笑う九々雲。
そういえば虹村達はどうしているだろう。
状況が状況なのでこちらを優先してしまったが、合流地点で待ってくれていたら申し訳ない。憂はスマホで虹村に現在地を確認するメッセージを送ってみたが、すぐに返事はこなかった。
少し待つとして。
ひとまずこれからの動きをまとめようとすると、
「聞き耳を立てさせてもらってました! わたしもお役に立つため、今日はみゃんこ先輩の家に泊まります!」
両手にトングを装備した虎南と友人達も集まって来て、一気に密度が高くなる。
さらに中学生の一人、前髪ぱっつん片目隠れ少女が三耶子に向かって言った。
「初対面だけど我々アツガオフレンズも泊めてください。ゲームしたいです」
「その潔さが気に入ったわ。みんなまとめて私の家へ来て頂戴!」
人のことを言える立場ではないが、そのような壮語を吐いて大丈夫だろうか。
三耶子の部屋は狭くないが、八人もの人間が寝泊まりするには窮屈だろうに。
「そういうわけだから、憂くんは家に帰って大丈夫よ。葉火ちゃんをお願い。向こうは向こうで見張っておく必要があると思うの」
「確かにそうだね。なら、そっちは三耶子さんに任せるよ」
心配は残るが、三耶子が楽しそうなので野暮は言うまい。
――ということで。
片付けを済ませて移動を開始しよう、と話がまとまって。
憂と中学生が速やかに動き出したところで、木の陰から二つの人影が飛び出してきた。
虹村とマチルダである。
二人揃って髪は乱れ衣服が土で汚れた散々な出で立ちだ。
「あー師匠! 何やってたんですか!」
弱々しい歩みで寄って来たマチルダが、恨みがましい目を憂に向ける。
「人は誰しもスクリーンと言いますが、映ったものは走馬灯でスクリーム。マジで死を覚悟しましたよ。やはり私の命が狙いだったんですねジミヘンさん」
「違う違う。何があったの?」
「そこのたわけが私の肩甲骨をバンプしたんです。そのまま斜面を転がり穴の底へ真っ逆さま。まさか飼い犬に手で押されるとは」
「だから誤解だって。悪かったとは思ってるけどよ、俺も押されたんだよ何かに」
憂は再び言い争いを始めた二人から推定犯人へ視線を転じる。
「災難似合うじゃん町田」とすっとぼけていた。
しかしマチルダが身体を張ってオチを作ろうとするとは。
その変化を憂は微笑ましく思った。
「美奈子ちゃん、虎南ちゃんに似てきたね」
「なんと失礼な。よぎるだけで罪になる思考もあるんですよ」
「師匠がひどいこと言った! 悲しむわたしはお姉ちゃんに告げ口します」
虎南が禁断のカードを切ったことで形勢逆転。
澄まし顔の奥で間違いなく動揺しているマチルダは、虎南の機嫌を取るために三耶子の家に泊まることとなった。
九人目。
本当に大丈夫だろうか。
心配する憂をよそに三耶子は嬉々として火薙の腕を抱き締めながら、ゲームのタイトルと思しき数々を呟いていた。
その後。
移動のさなかに明日の段取りを済ませ、全員を古海家まで送り届けて。
憂と虹村はちょっとだけ公園で寄り道をして、解散。
この時、憂と三耶子の即席ユニットは存続が決定した。
〇
翌日、十四時過ぎ。
アルバイトを終えた憂と葉火は着替えを済ませて事務室にいた。
今日は葉火と母親が再会を果たす日――であると同時に、葉火にとってもう一つ大切で重要なことがあった。
待ちに待った初給料である。
初めては手渡しがいい、と葉火が希望したためこれから受け取るのだ。
光栄なことに憂はその記念すべき瞬間に立ち会わせてもらっている。
待ちきれないのだろう葉火は、姿勢正しく気を付けの姿勢をしながら、ゆらゆら揺れて肩をぶつけてくる。
「いつもありがとう。はい、剣ヶ峰さん。これからもよろしく」
葉火は差し出された茶封筒を両手で丁寧に受け取ると、
「ありがとうございます」
と、深く頭を下げた。
似非お嬢様ではない殊勝な態度に憂はもちろん髭親父も微笑んだ。
が、礼儀正しいのはそこまでで。
顔を上げた葉火は高笑いをしながら封筒で憂の頬をはたき始めた。
「見なさい。ほらほら見なさいって憂。あたしの初めてのお給料」
「おめでとう。そんなに喜ばれると僕まで嬉しくなってくるよ」
「なんて可愛いのかしら。これが母性ってやつね」
「名前でも付けたら?」
「そうね。ヒヤシンスと命名するわ」
「花言葉は?」
「スポーツ」
「スポーツ!?」
おほほのほ、とご機嫌に笑って封筒で自身を扇ぐ葉火。
「すぐに追い出します。ありがとうございましたマスター」
「ありがとうございましたわ!」
もう一度髭親父に礼を告げて、事務室を出る。
「それじゃ行くわよ。気になってた海鮮丼のお店。ラウンドワンはその後ね」
「違う。お母さんに会うんだろ」
「そうだったわ」
「大人しく待ってよう」
テーブル席に向かい合って腰を下ろす。
憂は窓の外を一瞥する。
今頃は合流した夜々も一緒に、三耶子達が火薙を連れてここへ向かってくれているはずだ。
到着予定は十四時半。
今朝、氷佳の思惑通り姉倉家で過ごした二人と、朝食を食べながらそのように話した。
葉火は「すぐにでも会いに行くわ」と言い出すかと思ったが、話を聞くと大人しく了承してくれた。
「いざ手にしてみると感慨深くて使うのが勿体なく思えてくるわ」
如何にも気にしていない風に振舞う葉火だが、どうだろう。
勤務中も落ち着かない様子だったのは、給料が楽しみだから、だけではないように憂は思う。
今すぐにでも会いたいと言ったのは葉火の本心だろうけど、それはそれってやつか。
であれば、まずは雑談で少しでも緊張をほぐしてやりたい。
「分かるよ。僕も初めて貰った時は同じようなこと考えた」
「その後の動きが手に取るように分かるわ。実際、氷佳から聞いてるし。氷佳、言ってたわよ」
「え、なんて? 可愛さの波動を感じる」
「教えないけど」
と、葉火は意地悪く笑んだ。
天使の話をしているのに、小悪魔スマイル。
「使い道、決めてるの?」
「とりあえず携帯料金を支払うわ」
実際的な使い道だった。
偉い。
「あとは打ち上げでしょ。おばあちゃんと巳舌さんにビーチサンダル買ってあげたいし、あんたらにご飯食べさせて……困ったわ。瞬く間に消し飛びそうだし、足りない気がしてきた」
「打ち上げに関しては僕も協力するよ」
「させないわよそんな真似。でも、ありがと。気持ちだけいただいて飲み込むわ」
そう言って柔らかく笑むと、今度は難しそうな顔をする葉火。
「仕方ないからあたしの野望を一つ後回しにするわ。気になるでしょ、ほら聞きなさい」
「承知。野望ってなに?」
「カップ焼きそばに好き放題トッピングして深夜に食べるの」
随分と庶民派な野望だった。
応援したくなる感じ。
止めはしないけど――憂の思考を察知したのだろう、葉火は不敵に笑んで顎を上げる。
「太らないのよね、あたし。だけど抱き心地は抜群。氷佳のお墨付きよ」
「ほう」
「ほう、じゃないわよ気持ち悪いわね」
「抱腹絶倒って言おうとしたんだ」
「なおさら最悪よ」
そして二人は笑い合う。
いつものように。
普段通りの空気。
「でも、どうせなら初給料でやっておきたいわよね。初めてのお給料で、を頭につけると何事も許されそうじゃない?」
封筒を揺らしながら葉火は言う。
「初めてのお給料で暴飲暴食」
「ほんとだ。なんか可愛らしい」
「次のお給料まで節約ね」
「どんだけ食べたんだよ」
「初めてのお給料で、保釈金納付」
「起訴されてんじゃねえか! 行間で何やらかしやがった!」
「あたしはあんたの味方よ。何か事情があったのよね」
「やらかしたの僕だった!」
「そして被害者はあたし」
「罪を憎んで人を憎まず!?」
「司法を前に八方塞がりなあんたを眺めて楽しむわ」
「全然味方じゃねえじゃん!」
――しばしそんな掛け合いを続けて。
一段落したところで、「笑い疲れたわ」と葉火が外へ目を遣る。
「にしても遅いわね。ちょっと外見てくるわ」
「じゃあ僕も」
と憂が立ち上がった直後、店のドアが勢いよく開け放たれて。
血相を変えた夜々が飛び込んできた。
「た、大変な事態! 一大事! 逃げられちゃったごめんなさい!」
慌てて駆け寄ってきた夜々を憂と葉火は交代で抱きしめて、事情を聞く。
曰く、先頭をマチルダ、最後尾を九々雲、その中間で夜々と三耶子が火薙を両側から挟み込み、さらに前後左右に中学生を配置した厳戒態勢で移送していたという。
しかし到着を目前に問題が発生した。
九々雲が突如として離反し、後方から隊列に風穴を開け、その隙を突いて葉火母が逃げ出したのだそうだ。
シャツにシワが入るからと腕を組まなかったことが悔やまれる、と夜々は項垂れた。
顛末を聞いた葉火は、
「はあ。何やってんだかいい大人が。あたしのお母さんなのに情けない」
――と、呆れた風で嘆き。
そうこなくちゃ、とでも言うように。
玩具を与えられた子供のように。
嬉しそうに、破顔した。
「どうやら逃げ癖がついてるみたいね。まったく、いつかの誰かを思い出すわ」
葉火は憂を見て、この上ない笑みをさらに上へ持っていく。
「謝る必要ないわよ夜々。むしろ褒めてあげる。このままあっさり結末ってのも味気ない気がしてたのよね」
「僕達で捕まえてくるから、葉火ちゃんはここで待っててもいいけど」
「おバカ言ってんじゃないわよ。当然あたしも出るわ」
「だよな。ごめんバカ言って」
そして葉火は胸を張り、高らかに宣言する。
「去る者追うのがあたしの流儀よ。このあたしから逃げられるなんて思い違い、完膚なきまでに叩き潰してやろうじゃない!」
逃がさない。
剣ヶ峰葉火からは、逃げられない。
身を以て思い知っている憂は、その通りだと、堪え切れずに笑った。
「さあ、あたしとその友達が最高だって思い知らせてやるわ!」
そう言い放ち、葉火は憂と夜々を率いて店を飛び出した。
まずはこのまま現場へ急行する、かと思えば突然立ち止まり。
「お給料落としたら大変ね。ちょっと隠してくるわ」
店内へ戻って行った。
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