私にとってのあなたは

 春休み初日。

 快晴。太陽はまだ東寄り。


 サイクルショップを出た憂と三耶子は、店から少し離れた道端で買い立ての自転車と記念撮影を始めた。


 陽射しを浴びて煌々と存在を主張する、真っ赤なフレームのクロスバイク。

 持ち主となったのは憂である。


 交友関係が広がったことに伴い移動の機会が増えたため、前々から買おうか悩んでいたのだが、葉火の母親探しにも役立つだろうということでこの度購入を決心したのだ。

 以前葉火に相談した際、「あたしも乗るから目立つ色にしなさいよ」との要望があったので、色は葉火のスニーカーに負けず劣らずの赤を選んだ。


 写真の撮影を終えて、自転車を押しながら並んで歩く。

 目的地は憂のバイト先である。


「早く風を感じたくて身体が疼いているようね。私に構わず先に行ってもいいのよ」


 と、サドルを抱いた三耶子が笑う。

 移動する前に高さを調整しようとしたらすっぽ抜けてしまい、三耶子がぬいぐるみを愛でるように抱きかかえたので、そのまま預けてあるのだ。


「なんだかあれみたいだよね。三耶子さんと氷佳がお気に入りのゲーム」


「エアライドなやつね。ふふふ、さあ私からパーツを奪って機体を完成させてみなさい!」


 三耶子はうららかな声で唄うように言い、憂から一歩距離を取った。

 不敵な笑みから「簡単には渡さないわ」という意思が伝わってくる。

 愉快で陽気ないつもの三耶子。


 いつも通り。

 昨晩、憂が『会って話したいことがあるんだけど明日空いてる?』と連絡した直後に『今からでもオッケーよ』と快諾してくれたところも。

 やり取りの中で憂が自転車の購入を決心したと知るや同行を申し出てくれたところも。

 ちょっとしたことで心から楽しそうに笑うところも。

 いつも通り。


 三耶子にはこのままでいて欲しい――サドルを掲げて死守しようとする姿に、憂は笑いかけた。


「三耶子さん、良かったら乗ってみてよ」


 そんな提案を投げかけてみると、三耶子の動きがぴたりと止まった。

 ゆっくりサドルを胸の前まで下ろし、抱きしめて。

 気まずそうに視線を逸らす三耶子。


「……ごめんなさい。実は、みんなに言っていなかったことがあるの」


「まさか……」


「私、自転車に乗れないのよね」


 サドルで口元を隠し、三耶子は照れくさそうに微笑する。

 冗談といった風ではないが、果たして本当に事実なのだろうか。


 三耶子が運動を苦手とするのは知っているが、各種スポーツにおける基本動作、そのフォームはお手本のように綺麗だし、バランス感覚も良くスペックは決して低くない。

 持久力が破滅的なだけである。


「あ、分かった、乗ったことないから乗れないってオチでしょ」 


 手応えを感じながら憂は言った。


「名推理――と、言えたら良かったのだけど。あんまり買い被られると恥ずかしいわ。私ね、自転車に都合百万遍、大地を舐めさせられたことがあるの。挑んでは転がされ、挑んでは転がされ……百戦錬磨の柔道家と戦っている気分だったわ」


「なるほどそれは苦い思い出だね」


「あれ以来、自転車とは縁遠い生活を送ってきたわ。ポケットなモンスターを遊ぶ時にも自転車は使わないくらいよ。私、現実にできないことはゲームでもやらないから」


「その理屈でいくと三耶子さんは巨大モンスターを討伐したり、街づくりは出来るってことになるけど」


「そういうことになるわね」


 やけに自信家な表情で胸を張る三耶子。

 撤回しないところを見るに、魔法を使うよりも自転車を乗りこなす方がよっぽど難しいようだった。


「じゃあさ、いい機会だし練習してみようよ。初陣もまだの自転車なら勝負になるかも」


「ダメよ。傷付けちゃうもの」


「別にいいって。傷がある方が味わい深くてかっこいいし」


 三耶子はサドルの尖った部分を顎にくっつけて少しだけ首を傾ける。


「……本当にいいの?」


「三耶子さんが嫌じゃなければ」


「ふふふ。嫌なはずないじゃない。ありがとう、それじゃあ、遠慮なく。急勾配の坂道を探しましょうか」


「坂のふもとで僕が受け止めよう。三回くらいなら耐えられる気がする」


 ――と、憂もまたいつものように。

 軽口交じりに話を進めていたが、そこで今日の主題を思い出した。


 夜々への恋心を打ち明けること。

 そして三耶子と本音で語り合うこと。

 一緒に自転車に乗る練習をしたいから。

 これから先も友達でいたいから。


「――その前に。僕の話、聞いてもらってもいいかな。大事なことなんだ」


 真面目なトーンで憂が切り出すと。

 三耶子は先程よりも更に自信の色濃い顔をして、サドルで自身の胸を叩いた。


「聞かせてちょうだい。私が全部受け止めてあげる。何回だって耐えられる気がするわ」



 〇



 葉火という看板娘のおかげかどうかは定かでないが、ここ最近、憂のバイト先は以前よりも客足が伸びている。髭親父は間違いなく葉火のおかげだと大騒ぎで、アルバイト期間を延長してくれと歳の割に毛量豊かな頭を下げ、今後も葉火を擁することに成功した。


 そんな背景を持つ髭親父のお店は、昼前にもかかわらず席はまばらにだが埋まっていて、当てが外れたな、と憂は複雑な気分で呟いた。

 話をするには打ってつけだと思ったけれど、もしかすると昼時には話の途中だろうと席を空けるべき賑わいを見せるかもしれない。


 無いとは思うが、念のため。

 憂と三耶子は予定を変更して公園へ向かった。

 道中コンビニに寄りエナジードリンクを買って。

 訪れたのは、かつて三耶子と共に打倒・鹿倉潮を誓った公園。


 到着するや否や三耶子は大型のバネが付いたパンダへ駆け寄り飛び乗ると、足置きに立って器用にバランスを取り始めた。

 しかしすぐに降りて、恥じらった様子で憂のもとへ戻って来る。


「ごめんなさい、久しぶりの再会にテンションが上がってしまったわ」


 自転車を脇に置いてベンチに腰掛ける。


 二人は揃って正面を向き、沈黙。

 三耶子は憂が喋り出すのを待ってくれているようだった。


 憂は口を開いて、閉じる。

 いざこうして場が整うと緊張が込み上げてきて、上手く言葉を送り出せるのかと弱気な思考が脳裏をよぎり――

 すぐに見るべき方向を間違えていると気付いた。


 自分のことばかりを見ていてどうする。見るべきは隣にいてくれる三耶子だ。

 沈黙が長引くほど三耶子は息苦しさを感じるだろう――そんな余分は彼女に必要ない。


 憂は小さく息を吸い、三耶子の方を向いて。


「僕は夜々さんのことが好きだ。夜々さんに恋をしてるって、自覚した」


 前置きもなく最短で。

 言葉尻まで力強く言い切った。


 視線を返した三耶子が目を丸くして唇をわずかに離す。けれど言葉を発することはなく、空白をこちらに委ねてくれているようだった。

 だから。


「この春休みの間に、告白しようと思ってる」


 憂は自分の意思を改めてここに宣言する。

 告白。


 恋心を自覚したばかりでこの決断は早すぎるのかもしれないけれど。

 昨夜、家に帰ってお風呂に入りベッドで横になってからも、そんな風に思ったけれど。

 そうしたい、と一晩おいてなお思う。


 夜々を好きで好きでたまらないと気付いたから、好きだと伝えたい。

 もちろんそれが一番の理由だが――


 その気持ちと同じくらいに、三耶子と葉火のことも大切だから。

 自分の意思を、目指す先を。有耶無耶ではなくはっきりと、濁すことなく伝えて。

 これからも友達でいて欲しいと言いたかった。

 これからも友達でいたかった。


 それになにより。

 重ねて自分勝手な言い分になるけれど――

 生まれて初めての恋心を、友達に、聞いて欲しかった。


「僕は夜々さんが好きだ。この思いが成就しなくても、諦めきれないくらい夜々さんが好きだ。この先ずっと、夜々さんのことしか見えないくらい、好きだ」


 夜々への恋心、それが揺らぐことは決して無い。

 それでも。

 一緒にいてくれるだろうか。

 友達でいてくれるだろうか。

 

「……勝手なことを、言うね。僕は三耶子さんに応援して欲しい。これからもずっと、友達でいて欲しい」


「…………」


「僕は三耶子さんと本心で話し合いたい。どんな形をしていても、二人が納得できる結末を探したい。できると――思ってる。だから聞かせてもらえないかな、三耶子さんの思ってることを、全部」


 言い終えて――いや、言い始めて。

 憂は三耶子の心の内を覗き込むように、真っすぐ見据える。

 目を逸らさない。


 そんな憂を見返した三耶子は、ゆっくりと長い瞬きをして立ち上がる。

 一歩、また一歩と憂に背中を向けたまま遠ざかって行く。

 そして――足を止め、振り返り。


「――ふふ。ふふふふふ」


 と。

 両手で口元を隠すようにして笑った。


「ごめんなさい、嬉しくて。嬉しくって、笑っちゃった。だって憂くん、私のことをすごく大事に思ってくれているんだもの。ふふふ。私が居なくなるのが寂しくて嫌なのね」


「……うん。嫌だ」


「おバカね。あるはずないじゃない、そんなこと。見くびられたものだわ」 


 言って三耶子は弾むような足取りでベンチへ戻ると、憂の右隣へ座り直す。

 そしてわずかに顎を上げ、威張るような表情をする。


「言ったでしょう。私、憂くんの考えてることはなんでも分かるの。夜々ちゃんを好きだってことくらい、とっくに気付いていたわ。話してくれるのをずっと待ってたんだから」


 そこで三耶子は上体ごと憂を向き、手を仕切りにしてひそひそ話の形を作る。


「話してくれてありがとう。気を遣わせてしまったみたいね。憂くん、私が――」


 と、言いかけたところで。

 憂は三耶子の口元に手を翳し、その先の言葉を押し返して、続きを引き取らせてもらう。


「今日はちゃんと僕の口から言わせて欲しい」


「――はい。どうぞ」


「三耶子さんが僕のことを異性として好きでいてくれてるんじゃないかって。僕に恋してくれてるなんて光栄が、あるかもしれないって考えてる。その可能性を無視した僕に、三耶子さんを友達と呼ぶ資格はないと思った」


 友達だから大事なことをなんでも話すべきだ、とは思わない。

 その友達が三耶子だから、そう思うのだ。


「言いたいことを言い合える。それでもきっと大丈夫。三耶子さんが僕に教えてくれた」


 あんまり一緒にいるのはよくないね――なんて失言した憂を本気で怒ってくれたこと。弦羽の前で遠慮なく本音を投げ合って仲を深めたことを思い出し、憂は言った。

 三耶子も同じ過去を振り返っていたのだろう、「一緒に学んだわね」と微笑する。


 そして三耶子は。

 表情をニュートラルに戻し、息を吐く。

 吐いた分だけ吸い、目を伏せて。

「それじゃあ言わせてもらうわ」と前置き、憂を見て――


「私にとっての憂くんは、大好きな人。大好きな――友達よ」


 と。

 右手の人差し指で、憂の額をつっついた。


「あんまり大切に思われてるからキュンとしたけれど――ふふ、ごめんなさい。私が憂くんに感じるのは、どこまでいっても友情みたい。ガッカリさせちゃったかしら」


「三耶子さん……」


「強がりに聞こえる? でも、本当にそうなのよ」


 春風のようにあたたかい声で三耶子は言う。


「去年までは、憂くんがいつまでも誰ともくっつかないようなら恋に落ちるかも、なんて思っていたわ。でもね、みんなと一緒に過ごすうちにそれは思い込みだって気付かせてもらった。みんなが――憂くんが、私の勘違いを正してくれた」


「勘違い……?」


「ええ。私はずっと、男女の間には必ず恋愛感情が生まれるものだと思っていたの。どれだけ友情を謳っても、結局はそこに行き着くのが自然なんだって。恋情なくして男女はずっと一緒にはいられない――世間知らずな私はそう思い込んでいた」


 だけどね、と三耶子はくすぐったそうに微笑んで。


「全然そんなことはなかったわ。結局のところ私が友情というものを信じ切れていなかったのよ」


 恥ずべき勘違いね、と繋いで。


「――でも、今は違う。みんなのおかげで私は世界の広さを知って、友達のことを知って、自分のことがよく分かった。私が欲しいものは確かに存在していて、私の手の届く場所にある」


 そして三耶子は再び立ち上がり。

 憂と正対して髪の毛を掻き上げる。


「改めて宣言させて頂戴。私はね、友達と一緒にいるのが一番幸せ。なにを手放したくないかと問われたら、友達だって即答するわ」


 そこで長い息継ぎをして――


「男女の繋がりは、恋心だけじゃない」


 柔らかく、それでいて意思の固さが伝わる声音でそう言って。


「私は憂くんのことが好き。私をどこまでも友達として見てくれる憂くんのことが、友達として、ずっと大好きよ。最初の友達と、最後まで友達でいられることが、私はなによりも嬉しい」


 三耶子は屈託のない笑みを憂に向けた。

 かと思えば、今度はからかうような顔をして。


「それとももしかして、彼女がいるのに他の女の子と仲良くするのは体裁が悪いから人前では声を掛けないでってお話だったかしら?」


「違うよ。そんなことは、絶対に言わない」


「ふふふ、意地悪を言っちゃった。憂くんも夜々ちゃんも、そんなことを望まないのは分かっているつもりよ。二人には悪いけれど、私も大概欲張りだから、程々に空気を読みつつしっかり構ってもらうとするわ」


 こほん、と咳払いで一区切りを入れる三耶子。

 それから「ちゃんと言っておくわね」と言い、真面目な表情で、真剣な声で――


「ごめんなさい。私は憂くんのこと、友達としか思っていないわ」


 告白を断る常套句のような言葉。

 けれど三耶子から貰うそれは、どこまでも光栄な言葉だった。

 心に響く、言葉だった。


「ありがとう。憂くんとお友達になれて、本当に良かった」


 打って変わって、今度は顔いっぱいを嬉しさで飾る三耶子。

 直視するには眩しすぎるくらいに。

 彼女の姿は綺麗だった。


「――僕の方こそ、それは、そう、言わせて欲しい」


 貰った分を返そうとする憂だったが、上手く言葉を繋げない。

 たどたどしく、途切れ途切れに三耶子への感謝を絞り出し――そして。

 ついには左手で目元を覆い、上を向く。


 憂はしばらくそのままの体勢で押し黙り、感情の波が引くのを待った。


「……ごめん。緊張してた分、色々と。刺さっちゃって」


「ふふふ。憂くんを泣かせちゃった」


 ――なんて、格好悪い。けれど恥ずかしいとは思わなかった。


 零れ出ようとする涙を必死に押し留め、袖で拭って三耶子へ視線を移す。

 もう大丈夫。

 と、思ったのだが――もらい泣きした三耶子の目から水滴が落ちるのを見て、憂の目頭に再び熱が集まってくる。


「僕も、三耶子さんのこと、友達として大好きだ。三耶子さんと友達になれて、本当に良かった」


 自らにトドメを刺すことを厭わず憂は言った。

 受けた三耶子は嬉々として口元を緩め、いつものように満面の笑みを浮かべる。

 そして、小さな涙を一粒零すのと同時に口を開いた。


「これからも仲良くしてね。私、一人じゃ自転車にも乗れないもの」



 〇



 シリアスからの反動を利用してテンションの天井をぶち破った二人は、春の陽気では言い訳がつかない程はしゃぎながら、自転車に乗る練習をしていた。自転車を使わずかけっこしている時間もあった。


 三耶子が自転車に乗れないのは真実で、未だ転んでこそいないが失敗の数は二十にも上る。それでも一度として弱音を吐くことはなく、果敢に挑んでは撃沈してを繰り返していた。


 やがてサドルに座らず立った状態ならそれなりに走れるという三耶子の奇妙な性質が発覚したところで、一旦休憩。


 ベンチへ戻りエナジードリンクを味わった三耶子が、ヘアゴムで縛っていた髪を解き、涼し気な顔をする。


「段々とコツを掴めてきたわ。子供の頃に苦手だったものも、成長してから挑んでみると案外すんなりこなせちゃったりするわよね」


「同感。タイミングって大事だよね」


「ね。あ、そうだ。氷佳ちゃんはもう自転車に乗れるの? まだなら一緒に練習させて」


「ごめん、もう乗れるんだ。あっという間に僕という補助輪を外しちゃってさ」


「重そうだものね」


「失礼な」


 何気ないやり取りに二人を声をあげて笑った。

 箸が転んでもおかしいとはこのことである。

 笑い上戸とはこのことである。


「そういえば、氷佳ちゃんには話したの? 夜々ちゃん愛してるって」


「まだなんだよね。氷佳、昨日から友達の家でお泊り会しててさ」


 今日の夕方には帰ってくるらしいから、後で氷佳にも話を聞いてもらうとしよう。

 そして、葉火にも。


「葉火ちゃんの予定も聞いてみないと」


「うん。話してきて。葉火ちゃん、きっと喜ぶわ。本音での殴り合い」


 ――葉火はどんな反応をするだろうか。

 明け透けでいて勿体ぶるのも好きな彼女は。

 隠してはいなくとも、聞かれていないから言っていないだけ、という本音を抱えているかもしれない。

 あるいは意識して話題に上さない本音があるのかもしれない。


 憂はスマホを取り出し、話がしたいからと明日の予定を尋ねるメッセージを葉火へ送った。

 すぐに空いているとの返信が来たので、会って話す約束を取り付けた。


 待ちきれないからと葉火が指定した集合時間は午前六時である。場所は憂と葉火のバイト先。当然中には入れない。

 自転車もあるから僕が剣ヶ峰家の近くまで行く、という旨を伝え、スマホをポケットへ戻す。


 そして空を見上げた。

 本日快晴。

 明日の空も、晴れていたらいいな。


「それじゃ、練習に戻ろうか」


 そう言って立ち上がったと同時、ポケットのスマホが振動する。

 画面を確認すると、葉火から新たにメッセージが届いていた。


『やっぱり待ちきれないから今夜あんたの家に行くわ』

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