恋心は急マッハ
「紛らわしいことをしてすみません。僕は絶好調そのものですよ」
屈んだ体勢で心配そうに顔を覗き込んでくる奈良端先生にそう言いながら、憂は立ち上がる。唐突に蹲ったことで体調不良だと勘違いさせてしまったようだ。
むしろ調子が良すぎる故に脳が活性化してあれこれ変な妄想をしてました――とまで口にするといよいよ本気で心配されそうなので、喉元に留めておく。
「そうですか。見たところ顔色も良いですし、安心しました」
と、奈良端先生も起立する。
そこで憂が侵入者の件を報告すると、先生は「そうですか」と落ち着きを崩さずに言った。
「こんな事態も起こりうるだろうと、お店側には予め断ってあります」
「そうでしたか。では、僕がお菓子を持ち込んで古海さんに食べさせてしまったことも」
「なにをしてるんですか」
やんわりと注意され、謝って。
憂が虹村のところへ戻ろうとすると、奈良端先生に「少しお話しませんか?」と呼び止められた。
お話という触れ込みからは気楽な印象を受ける。
けれど果たして、僕のボキャブラリーで成人女性との雑談が成立するのだろうか――憂は緊張気味ながらその誘いを受けた。
一度奈良端先生の席を経由して、そこから近くの壁際へ移動する。二人して壁に背中を預け、店内を一望するように並んで立つ。
憂は新たに注文してもらったコーラを一口啜った。
「先生のそれは、お酒ですか?」
奈良端先生が持つワイングラスを見て、憂は言う。
「いえ、ただの水です。引率の身ですし、なにより酒癖が悪いので」
「笑い上戸とか泣き上戸とか、そういうやつですね。先生は酔うとどうなるんですか?」
「どうにもお説教臭くなってしまうみたいで。所構わずジョーゴを始めます」
「カポエイラの組手!? 肉体言語でお説教ですか!」
実際には技を当てないようにするらしいし、組手というよりゲームというニュアンスが合っているようだが、憂は勢い重視で言葉を選んだ。
「ふふ。冗談ですよ、ちょっとした」
と、子供っぽい色付けの笑みを湛える奈良端先生。
なにやら満足気な様子で水を少しだけ口に含み、飲み込む。
「これで年度内に生徒全員からツッコまれるという目標を達成できました。あとは姉倉君だけだったんですよ」
「ああ、それで。ギリギリ間に合って良かったです。先生って、結構お茶目な人なんですね」
「今日を逃したら臨時の三者面談を行っていたでしょう」
「なんという執念……一気に怖くなってきました。そんな危ない場所に愛する妹を連れて行くわけにはいかないので、欠席しますけど」
「三者面談に妹を連れて来るのはやめてください」
軽口の応酬に憂が笑って、先生も笑う。
憂は今になってようやく自己紹介をしている気分だった。
本当に勿体ないことしてたな――なんてしみじみ感じていると、不意に。
「姉倉君。学校は、楽しいですか?」
微笑んだまま憂を見据える奈良端先生が、そんなことを訊いてくる。
気を遣わず正直に答えてください、と。
場を満たす穏やかな雰囲気が言外に伝えている。
だから憂は先生からの視線を真っ正面から受け止めて――
「はい」
と、力強く首肯した。
この半年間の重みを形にした。
受けた奈良端先生は「そうですか」と一音一音を大切そうに、丁寧に発音して、
「春休みは思い切り羽目を外して楽しんでください」と、言った。
「……羽目を外さないように、じゃないんですね」
「ふふ。失言でした」
奈良端先生は口に手を当て、再び子供っぽく微笑んで。
軽やかな所作で一歩前に出る。
「もし何か困ったことがあれば、いつでも相談してください」
「はい。頼りにさせてもらいます」
憂も前に出て隣に並ぶ。
「付き合ってくれてありがとうございました。話せて良かったです」と、奈良端先生。
「こちらこそ。心配、してくれてたんですよね。ありがとうございます」
入学してから半年もの間、クラスに馴染もうとしていなかった生徒の存在を心配に思っていたのだろう、と結論して、憂は言った。
しかし憂の予想に反して奈良端先生は「それもありますが――」と言い淀む。そして顎に手を添え、言うか悩むような素振りを見せたのち、観念したとばかりに口を開いた。
「明らかに恋に溺れる顔をしていたので、気になりまして」
「…………」
「お恥ずかしながら寂しい青春を走り抜けた私は、学生の恋愛事情に興味を隠せません。叶うなら、出番が欲しい。結果が出るよりも前に」
「めちゃくちゃぶっちゃけるじゃないですか」
お恥ずかしながら、なんて謙虚な前置きをした割になかなか欲張りな奈良端先生だった。
「とはいえ、無闇に口を出してノイズになるような事態は避けたいものです。なので、一つだけ。これは聞き流してくれて構いません。姉倉君。大人になると嫌でも視野が広がります。子供の頃とは、物の見方がまるで変わるんです。どちらが優れているとか、そういうことを言いたいわけではなくて。子供の頃にしかできない、今の姉倉君にしかできない見方が、あります。それを大切にしてください。今のあなたを、大切にしてくださいね」
そんなあなた達に寄り添い導くのが私の仕事です。
そう続けて奈良端先生はグラスの水を一気に飲み干した。
〇
三耶子とゲームで勝負をしてコテンパンに打ちのめされたり、虹村と一緒に男子の輪に入ってバカバカしい妄想を語り合ったり、奈良端先生のお相手が登場して湧き上がったり――
翳ることない盛況を誇るクラス会は、あっという間に半ばを越え、十九時過ぎ。
一秒一秒を大いに楽しみつつも同時に夜々のことを考え続けていた憂は、いよいよ処理能力に限界がきたため、外で頭を冷やすことにした。
店を出ると景色はすっかり夜の装いを済ませていた。
左へ歩き、オレンジのベンチに腰掛け、風を浴びる。空を見上げたり辺りを見回したりと落ち着きなく顔を動かしてみる。
どこからともなく夜々が現れやしないだろうか。いきなり現れるのは彼女の十八番だ。しかし夜々も自分のクラスの集まりに参加しているため、今回ばかりは出てきそうにない。
そんなことを考えていると無性に動き出したくなり、憂はベンチの周辺を行ったり来たりして、やがて自販機の前に立った。
よし、冷たい飲み物を身体へ流し込むとしよう。
衝動のまま五百円玉を投入口へ突っ込み、どれにしようかラインナップに視線を這わせていると――
背後から手が伸びてきて。
小っちゃな親指が、甘ったるい缶コーヒーのボタンを押し込んだ。
ゴトン、と缶の落ちた音が響く。
まさかこれは――と憂が振り返った先には。
「ごちそうさまです! 糖分が欲しいと思ってたとこなんですよ! 今日も自慢の頭脳が炸裂しました、ふふん」
夜々、ではなく妹の虎南が立っていた。
得意気な顔で腰に手を当て、感想を求めるような視線をこちらへ寄越している。
憂は取り出した缶コーヒーを開栓して虎南に手渡した。
「ありがとうございます。お礼に姉倉先輩の分はわたしがご馳走しましょう」
「いいよ、自分で出す。それは報酬の前払いってことで。虎南ちゃんはこれから僕の話を聞かなきゃいけないんだから」
虎南とは対照に無糖のコーヒーを購入して、ベンチへ戻り、並んで座る。
「虎南ちゃんだから、で納得してるけど、一応聞く。どうしてここに?」
「友達と遊んで帰るとこでして。その最中、姉倉先輩達がこのあたりでクラス会をしてると師匠に聞いたのを思い出し、寄ってみた次第です。そしたらこんな挙句に」
「棘のある言い方をしやがる。日を改めて丸一日付き合わせてもいいんだぞ」
「うーむ魅力的ですね」
お断りですけど、と虎南は早速缶に口を付けた。
んくんく。
コミカルな擬音を鳴らして口に含んだ分を飲み下すと、虎南はまたも自慢げな顔をする。
「まあこうなることは分かってましたよ。実は少し前から観察してたので。なにやら悩んでいる風の先輩を見捨てるわたしじゃありません」
「ありがたい。そうなんだよ、悩んでるっていうか並んでるっていうか……何してても夜々さんのこと考えちゃってさ。並列思考ってやつ」
「んえ?」
「題して、恋は並列思考」
憂の発言を受けた虎南は、硬直していた。
両手で缶を握りしめ、目を見開いて憂の顔をじっと見つめている。口の形が「あ」と「お」を繰り返している。
そんな虎南を見返して。
「僕は夜々さんが好きだ。夜々さんに、恋してる」
憂は声に真剣さを伴わせ、言った。
「……こ、恋。お姉ちゃんに」
「うん、夜々さんに。それで一人悶々としてた」
「もんてすきゅー……三転倒立……」
独り言のように言って。
虎南はごくりと唾を飲み、恐る恐るといった感じで口を開く。
「つ、つまり。ゆくゆくはお姉ちゃんとちゅーしたいと」
「したい……僕からもしたいし、夜々さんからもされたい」
「ひゃー!」
甲高い声をあげ、真上を向いてコーヒーを流し込む虎南。
かえって飲み辛そうだが上手く飲み干せたらしく、虎南は空いた缶を強く握りしめる。スチール製なので形は大して変わらなかった。
缶を揉むようにしながら虎南は「いつの間に……そっかさっき……」とブツブツ呟き、ブンブンと頭を左右に振る。
そして顔が憂を向いたところでぴたりと止まった。
「……ではいよいよ、姉倉先輩がわたしのお兄ちゃんになるかもしれないんですね」
「正式にそうなりたいと思ってる」
「義理にはなりますが、カーペンターズを結成しましょうか」
缶を置き、自身を手で扇ぎながら虎南は言う。
次いで忙しなく視線をうろつかせ、いかにも調子が狂うといった風でポケットへ手を突っ込むと、
「い、一旦。わたしの宴会芸をお見せしましょう。ついさっきもこれで場を沸かしてきたところです。いきますよ」
取り出したハンカチを広げて憂に見せつける。
白と赤の縦縞。この時点で憂は虎南の芸がどんなものか察したが、素知らぬ顔で続きを促した。
「この縦縞のハンカチをこうすると――」
言いながらハンカチを丸めて右の拳に収める虎南。
ぽんぽん、と拳を左手で叩き。
それから勿体ぶるように口元を歪め――拳を解き、中のハンカチを広げてみせた。
「青の横縞になりましたぁ!」
「すっげえマジの手品かよ! どうやってんの!?」
色が変わっていやがる。
縞模様の向きが変わるだけのギャグマジックだと思っていたのに。
見事に意表を突かれた憂は興奮気味に身を乗り出して――虎南と肩を組み、思い切り引き寄せた。
「まったく僕の妹はすごい奴だなぁ!」
「ぎゃばーっ!」
お世辞にも綺麗とは言い難い虎南の叫び声が響く。
虎南は暴れて憂の拘束から逃れると、息も整えぬまま声を荒げた。
「なにをするんですか! もしやわたしが本命だった!?」
「おバカを言うな。僕は妹相手ならこれくらい平気でやる」
「このシスコン! なんて強引な! 『女ー未!』と書いて『せーの!』って読むくらい強引ですよ!」
「そいつは確かに強引だ! そして僕は海外志向の虎南ちゃんが
「バカにすんなーっ!」
果敢に掴みかかってきた虎南としばし揉み合い、人が通りかかったのを機にお互い平静を取り戻し、居住まいを正した。
獰猛なげっ歯類である。
「こほん。わたしから逸らしておいてなんですが、話を戻しましょう。姉倉先輩はついにお姉ちゃんへの恋心を認めたと」
「さっき気付いたばかりなんだけど、うん、僕は夜々さんのことが好きだ」
「えへへ――じゃなくて。愚問ですが姉倉先輩、恋心と恋ごっこの区別はついてますよね? 当然ですがその二つは別物です。オッカムの剃刀とオカンのカミナリくらい違います」
「虎南ちゃんの頭の中って没ネタ集みたいだよね」
「はぁー!?」
再び激昂した虎南が両手で耳を引っ張ってくる。
千切れたその時はその時だ、と言わんばかりの力の込め具合。
「謝って! あ、や、ま、れー!」
「ごめんごめん! 今のは僕が悪かった! 虎南ちゃんの才気に嫉妬したんだよ!」
平謝りで許しを得て。
話が一向に進まないので遊び心は程々に、という協定を結んだ。
耳が無事であることを確認して、憂は喋りはじめる。
「――今度は僕が話を戻すけど。区別はついてるつもりだよ。この気持ちは、僕から生まれた僕だけのものだ。誰かの真似事じゃない。だから、どうすればいいのかじゃなくて、どうしたいのかで行動する」
「どうしたいんですか? 姉倉先輩は」
「大好きだって、伝えたい。僕から夜々さんに」
そして。
願わくば彼女からも、大好きだよって言われたい――そこまで憂は言葉にして虎南に聞かせた。
胸焼けしそうです、と虎南は憂のコーヒーを引っ手繰って一気飲みする。
「そりゃあ、断られたらどうしようって不安は、どうしても付きまとうけど。うじうじするつもりはない。僕は夜々さんに告白する」
「……そ、それは、いつ?」
「この春休み中に」
「これまた急マッハ!」
「らしくないと笑ってくれ」
「いえ、元々いきなり大胆なことする人でしたから納得といえば納得です。あなた自分で思ってるより変ですからね?」
今日から始まった春休み――残り、二週間と少し。
新学期までには、と捉えられる言い方をしてしまったが、なるべく早く伝えるつもりでいる。
猶予期間を広く設けたのは、土壇場で決心を翻し明日へ明日へと先延ばすことを危惧したから――ではなく。
その前に、やるべきことがある。
物事には、順序がある。
「だけど、まずは。三耶子さんと葉火ちゃんに打ち明けて、聞いてもらう。友達だから。大事な、友達だから。結果だけ伝えるような真似は絶対にしたくない」
それに――と続けて、憂は一度言葉を切り。
数拍置いたのち、言う。
「……一応、ほら。僕って男子じゃん?」
「お二人が姉倉先輩に恋してるかもしれないと」
間を置かず最速で答えが場に出される。
そういうことだ。
何食わぬ顔をしておきながらマチルダへの恋心を募らせていた虹村を見て、そんなこともあるのかもしれない、と憂は可能性に目を向けたのだ。
「まあ、その……可能性の一つとして。恥も知らずに自惚れてるとは思う――いや、この言い方は失礼だった、反省する。とにかく、もしもそんな万が一があったとしたら。先に話をしておかないと、きっと後悔する。僕が自意識過剰だとからかわれて終わりなら、それでいい」
「じゃあ――」
言いかけて虎南は続きをぐっと飲み込む。
もしも。
そんな万が一があったとしたら。
「どうなるのかは、分からないけど。僕は三耶子さんと葉火ちゃんと、本音で語り合えると思ってる。遠慮なんかしないで、言いたいことを言い合えるって。だからどんな形であれ、そこには納得があるって……そう思ってる」
自分勝手な、自己満足。
理想の押し付け。
物事は白と黒だけで出来ていない。
それでも。
三耶子と葉火は、大切な友人だから。
どんな結末を迎えるとしても、この可能性から逃げたり目を背けたりしない。
結末そのものを回避しようなんて、あってはならない。
「……ごめんね虎南ちゃん。巻き込むようで申し訳ない」
「いいえ、嬉しいことです。誰かに頼られるのは。姉倉先輩は一人であれこれ悩むより、誰かを頼る方が似合ってますよ」
そう言って虎南は微笑する。
そして右手の人差し指をピンと伸ばし、教え諭すような口調で、
「一人で抱え込まない。友達を信頼できる。信頼できる友達がいる。兄がそんな人で妹も誇らしいです」と言った。
「ありがとう、虎南ちゃん」
憂が笑い返すと、虎南は照れたようにそっぽを向いた。
「まあ、気休めにしかならないでしょうけど、心配ないとわたしは思います。先輩方を外側から見守ってきたわたしには、そんな気がします。いいじゃないですかご都合主義」
人生は少年漫画なんですから――と虎南は言って。
「というか皆さんがバラバラになるとか絶ーっ対いやなんですよわたしは! 例えお姉ちゃんにフラれたとしても元通り仲良くしてくださいよ!」
「縁起でもないことを……」
「頼みましたからね姉倉先輩っ!」
「がんばるよ。だから虎南ちゃん、僕を応援してくれ」
「がんばれおにーちゃん! かっこかりっ!」
虎南の平手打ちを胸に食らった憂はしばし悶えて。
三耶子と葉火のことを考える。
どんな結果になろうとも、憂にとって二人が掛け替えのない友人であることは変わらない。
絶対に。
絶対に――この気持ちは、変わらない。
そして夜々のことを考える。
もしかすると夜々は、今のままの関係を望んでいるかもしれないけれど。
それでも、この気持ちを伝えたい。
キミのことが好きだと、言葉にして伝えたい。
伝わるように、伝えたい。
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