あたしにとってのあんたは

 互いに自らが相手の自宅を訪ねると主張して譲らなかったため、待ち合わせの詳細を詰める話し合いは難航したが、最終的には自転車という移動手段を手に入れた憂に軍配が上がった。


 ――二十一時に剣ヶ峰宅の近所にある小さな神社で。


 そのように時間と場所を取り決めて、憂は三耶子との自転車練習に戻った。


 そして夕方。三耶子を自宅まで送り届け、一度家へ帰るか悩んだ末、そのまま待ち合わせ場所へ直行することにした。


 時間にはかなり余裕がある。

 しかし、かつて四人でピクニックへ出かけた際、集合時間の一時間と四十五分も前に現着していた葉火のことだ。こちらが移動を開始した頃には行動を終えているに違いない。


 あの日は九時から待機していた。

 葉火がキリのいい時間を好むからだ。


 薄暗いであろう神社に長時間留まることは考えにくい、というのを鑑みて一時間前。二十時には神社で待っているだろう――などと、その程度の読みで勝ちを確信するほど、姉倉憂は剣ヶ峰葉火を甘く見てはいなかった。


 葉火はきっと、二十時に姉倉家までやって来る。

 そして勝ち誇るのだ。

 ――遅かったじゃない、と。


 大体葉火にとって夜の神社で過ごす時間は何分だろうが長時間だ。

 アホなロジックだが確かな手応えを感じる。

 思考が進むにつれてペダルの回転数も上がっていく。


 そうして憂は、二時間も前の十九時に、剣ヶ峰宅へ到着したのだった。


 もしかするとこちらの読みを上回り既に葉火は家を出ているかもしれない、なんて考えつつ、門扉の前でブレーキを掛ける。

 すると。

 それを合図のように、タイミングを計っていたかのように――開いた門の先から、葉火が現れた。


 自転車に跨ったまま憂が片手をあげて挨拶すると、葉火は一瞬だけ驚いた顔をして、


「遅かったじゃない」


 と、不敵に破顔した。

 丈が長くだぼっとした白のトレーナーに薄いグレーのショートパンツという、のんびりした印象のある装いとは対照的ともいえる、サディスティックな笑み。

 この切り替えの早さには感服するばかりである。


 そんな余裕綽々の葉火だが、急いで家を出てきたのだろうか、首より下の髪の毛が服の中に入ったままだ。


「褒めてあげる。よくぞあたしの考えを読み切ったわ。そして残念ね、手土産買って行こうと思ってたのに」


 言いながら葉火は右手で後ろ髪を掴み一つの束にすると、背中の剣を引き抜くような動作で髪の毛を引っ張り出した。

 次いで首を左右に振って大雑把に髪型を整えたのち、憂の自転車に瞳を据える。


「あたし好みのいい自転車じゃないの。次あたしの番でしょ。ほら貸しなさいよ」


「念のため聞くけど、葉火ちゃんって自転車に正しく乗れる?」


「当たり前じゃない。あらゆる乗り物を巧みに操れるのがあたしの長所よ。さっきまで巳舌さんと乗馬体験に参加してたんだけど、あまりの乗られ心地の良さに馬があたしを愛してたわ。あ、馬を乗り物って言うつもりはないから勘違いするんじゃないわよ」


 なにやら愉快なイベントを楽しんできたらしい葉火の話を聞きながら、自転車を降りる。


「葉火ちゃんが馬にねえ。北米大陸横断レースに参加するとか言わないよな」


「その時はあんたも一緒よ。『LESSON5』をあんたに授けるわ」


 入れ替わりで自転車に跨った葉火が「さあついてきなさい」と号令を掛けて、走り出す。引き止めようとした憂の手は虚しく空を切った。


「神社、そっちだっけ!」


「夜に出向く先じゃないわよ気味悪い!」


「バチ当たるぞ!」


「上等じゃない! あたしが恐れるのは食あたりだけよ!」


 それもバチに該当すると思う。

 憂の指摘は遠ざかる葉火の背中には届いていないようだった。




 しばらく追いかけっこを演じていたが、道の途中で不意に葉火が止まった。自転車を降りて脇へ寄せ、スタンドを立てる。そして道を外れて短い草の生えるなだらかな斜面を下っていく。


 憂は自転車の位置まで辿り着いてから、葉火の足取りを追う。下り終える直前で足を止めた葉火がその場に腰を下ろしたので、その左手側に憂も座った。

 目の前にはギリギリ一歩で渡れなくもない細く小さな川が緩やかに流れている。


「なんの変哲もないとこだけど、この辺りは人通りも少ないし、ゆっくり話すにはもってこいよ。意外と虫も少ないし」


「そっか、ありがとう。よく来るの?」


「たまーに笹舟作って流したくなるのよね。ま、今はいいじゃない。それよりもあんたの話ってやつ聞かせなさいよ。といっても大方予想はついてるけど」


 前振りをしようとする憂よりも早く、葉火は。


「夜々と付き合うことになったって話でしょ?」


 と。

 確信めいた口調でそう言った。


 初めて葉火の家を訪れた際にも同じことを言われたっけ――あの時はバカだと一蹴した。

 直線的な在り方を理解できないと断じていた。

 けれど、今は違う。

 憂は隣にいる葉火、その横顔を見据えて。


「そうじゃない。でも、告白しようと思ってる。僕は夜々さんのことが好きだから」


 これから先を。

 これから先も変わることのない意思を、真っすぐに伝えた。

 受けた葉火は憂を向き、薄く、薄く――微笑んだ。

 全てお見通しだとでも言うように。


「ようやく気付いたこの気持ちを、恋心を。僕は葉火ちゃんに、大事な友達に、聞いて欲しかった。応援して欲しいとそう思った」


 それでも憂は、全てを言葉にして葉火に向ける。


「僕はこれからも葉火ちゃんと、一緒にバカやれる友達でいたい。友達でいて欲しい。だから葉火ちゃんの気持ちを聞かせてくれないかな」


 直截的な言い回しを好む葉火へ。

 憂は直截的な言葉を選び、口にする。


「もしも葉火ちゃんが僕に恋愛感情を持ってくれているのなら。ちゃんと聞いて、ちゃんと答えたい」


 恥ずかしいことを恥ずかしげもなく、至って真剣に憂は言った。

 目を背けない。逃げない。

 そんな憂と真っ向から斬り結ぶように表情を引き締めた葉火だったが、しかしすぐに、その頬が緩んだ。


「昔あたしから逃げ回ってたやつと本当に同一人物かしら。実にあたし好みの導入だわ」

 

 言って腰を上げた葉火は憂の正面に立ち、「褒めてあげる」と鋭く言い放つ。

 そして伸ばした両手を憂の肩に置き、倒れ込むようにして押し込んだ。


 憂の身体の背面が余すところなく地面と接する。

 葉火は四つん這いの格好で倒れた憂に覆いかぶさった。


「葉火ちゃ――」


「あたしも大事な話をするから、じっとしてなさい」


 動こうとした憂を葉火が制する。

 憂は起き上がるのを止め、剣のような鋭さを伴う葉火の眼差しと、視線を交差させる。

 それでいいのよ、と葉火は笑わずに言って。


「あたし、あんたのこと、好きよ」


 と、想いを落とした。

 一音たりとも聞き逃すことは許さないと語るような、丁寧で力強い発音だった。

 一文字の無駄もなく全てが主役と言っているようだった。


「男の子の中で憂が一番好き。あたしは憂に恋してる。だから――あたしを好きになりなさいよ」


 剣ヶ峰葉火が姉倉憂に恋をしてくれている。

 あり得るかもしれないと構えておきながら、いざ現実になると、上手く考えがまとまらない。


 葉火に男として認められたことが嬉しくて。

 応えられないことに胸が痛んで。

 友達でいたいという言葉が、葉火にとってどれだけ残酷だったのかと、ここに至ってようやく考えて――


 でも、黙ったままではいられない。

 自分で決めたことだから。

 ちゃんと聞いて、ちゃんと答えると、決めたから。


「……ごめん」


「後悔はさせないわ。これでも尽くすタイプだし、あたしが彼女だと毎日楽しいわよ」


 そんな日々は、間違いなく楽しいものだろう。

 友達という関係を通して、それが掛け値なく真実であると思い知っている。

 けれど。

 それでも――ごめん、葉火ちゃん。


「葉火ちゃん、僕は――」 


 口を開いたのと同時に、葉火が顔を寄せて憂に迫る。

 口で口を塞ごうと。

 言葉の外でも語ろうと。

 唇同士を重ね合わせようとする。


 しかし距離を詰める速度は遅く、憂が間に右手を差し込むのに充分すぎるゆとりがあった。

 人差し指と中指の腹で葉火の唇を受け止めて。

 ゆっくりと、押し返す。


「僕は夜々さんが好きだ。この先もずっと。ずっと、変わらない。だから葉火ちゃんの気持ちには応えられない」


 たとえ夜々への恋心が儚く散ってしまったとしても。

 この答えは変わらない。

 好きな人に、変わってしまうような恋心は、向けない。


 上体を起こして膝立ちの格好になった葉火と無言で見つめ合う。

 やがて葉火が肩を落とし、


「――そ。フラれちゃったわね」


 微笑み交じりにそう言うと、憂の隣へ転がり、手足を投げ出し大の字となった。


「あーあ。やっぱりこうなるわよね。ほんとあたしって見る目あるわ。優れすぎるのも考えものね」


 乱暴な調子で投げ捨てるように言う葉火。

 憂は頭を右へ倒す。視界に映る葉火の横顔は、晴れ晴れとしたものだった。


「憂が夜々を好きなことくらい分かってたわよ。一途でブレないってことも。そんな奴だから、あたしはあんたを好きになったの」


 葉火は首を回して憂を向き、目を合わせて意地悪く笑う。


「泣いて欲しかった? おバカね、泣かないわよ。そんな次元はとっくに通り過ぎてるんだから」


「……ごめん」


「なに心苦しそうな顔してんの。調子狂うじゃない」


「葉火ちゃんだって、苦しいはずだろ」


「はあ? あんたにだけは気遣わないわよあたし」


 不満気に唇を尖らせた葉火が半身を起こし、見下ろす先の憂を睨む。


「これからも友達でいたいってのは悪質な冗談だったわけ?」


「それは違うよ。僕は今も……そう思ってる」


「だったらいつも通りに接しなさいよ。ちゃんとあたしを見て、あたしの相手をするの。あんたならそれをできると思って話したんだから」


 憂は身体を起こして葉火と向き合う。


「ほら、慎重にならないで言葉を選びなさい。気を遣ったり同情してると判断したら、即座に川へ叩きこんでやるから」


 葉火らしい物言いに憂はしばし悩んだが、自分は勝手なわがままを通そうとする身でありながら相手の要求は受け入れない、なんて不誠実がすぎる。

 互いの納得できるこれからを探したいと望んだくせに、それは。

 だから憂は、葉火の言ういつも通りを、絞り出す。


「強がってる姿が、痛々しくて」


「あはっ。いいじゃない。それじゃ、あたしが今なにを言ってるのかも分かるわよね」


「……負け惜しみ?」


「ブッ飛ばすわよ」


 楽しそうに葉火が笑って。

 憂も同じようにして笑い返す。

 そして葉火は空を見上げる。


「しっかしこのあたしが二度もフラれるなんてね。こんな綺麗な世界に産んでくれて、ほんと、お母さん達には感謝だわ」


「綺麗……? 厳しい、じゃなくて?」


「厳しかったらあたしが勝つわよ」


 そこで葉火は憂を向き、


「今以上のタイミングは無いだろうから、少しあたしの話をするわ。よーく聞いてその胸に刻みなさい」


 左手の拳を握り、憂の胸を強めに叩いた。

 悶える憂を観察したのち、珍しく歯切れ悪く、葉火は語り始める。


「一見完璧なあたしには面倒なとこというか、らしくないとこというか……とにかく厄介な性質があるのよ」


 はぁ、と特大の溜息で前置いて。

 ハキハキとした口調でこう言った。


「あたしって、とことんまで負けヒロイン気質なのよね」


 葉火は再び大きな溜息を零す。


「負けヒロイン気質……?」


「そ。あたしはね、一途な人が好きなの。一途な人が恋してる姿を好きになるのよ。無意識でも夜々一筋な憂だったり、意識的に終里しか見てない綾坂だったり」


「そういえば文化祭の前、虎南ちゃんとラーメンを食べに行った時、ちょっと聞いた」


「覚えてるなら話が早いわ。強すぎるあたしは確定した負け戦に挑んでしまうの。絶対に振り向かない相手ばかりを好きになってしまう生粋の負けヒロインというわけね」


 それを覆すのがあたしのはずなんだけど――と、葉火は肩を竦めて呆れを露にする。


「重ねて厄介なのが、あたしが負ける代わりに相手は絶対勝つってとこ。良かったじゃない、あんたが夜々にフラれることはまず無いわ」


「そう言って貰えるのは、嬉しいけど。まだ二回目だよ」


「言い切るには心許ない数字だけど、自分のことは自分が一番よく分かるわ。あたしくらいの美少女にはそんな欠点でもないと、この世のバランス崩れるし」


「二回目だから、決めつけて欲しくない。自分を貶めるような言い方を……して欲しくない」


「ありがと。あんたならそう言ってくれると思ったわ」


 尊大な笑みを以って話を区切り、葉火は場に沈黙を置いて、憂を見る。


「あたしの言った通りになったわね。はじめから分かりきってたのよ、あんたずーっと夜々ばっかり見てたし」


「自分では全然気づかなかったよ」


「一応あたしなりにアプローチしてみたけど、全然靡かないもんだから、口説かれてるかと思って惚れちゃった」


 そこで葉火は語気を強め、声の調子を切り替える。


「勘違いすんじゃないわよ。フラれた以上、この気持ちはすぐに薄まって消えていくわ。奪おうとか振り向かせようとか、そんなつもりは欠片もないから」


「こんなこと聞くのは無神経だけどさ」


「いいのよ。あんたはこれからも無神経に生意気でいなさいって言ったでしょうに」


「すぐに割り切れる、ものなのかな」


「あたしでなければ難しいでしょうね。強さと弱さを併せ持つあたしだからこそ成せる芸当よ」


 憂からの問いに即答して。

 葉火は更に、燃えるように語気を強めて。


「あたしはね。負けを認められないほど弱くないし、負けを引きずって歩けるほど強くもないわ」


 と、言い切った。

 きっと悲しさだって感じているはずなのに、俯かず、声に覇気を伴わせて。

 迷いなく高らかに言い放った。


 己を鼓舞しているのかもしれない。

 気を遣わせないように振舞っているのかもしれない。

 そう思う一方で、都合のいい解釈かもしれないけれど――葉火は強がりではない本心を表に出しているのだろうと、そんな印象を憂は抱いた。


 剣ヶ峰葉火はそういうやつだ。

 隠すことはあっても嘘はつかない。

 口にするのは、心の声。

 かっこいい奴だ。

 そんな彼女を、友達として、大好きだ。


「僕は葉火ちゃんに、幸せになって欲しい」


 憂の口をついて出た言葉はまごう事なき本心だが、無意識だった。


 どの口が言っているのだとそう思う。

 けれど、堰を切ったように溢れてくる。

 止められなかった。

 願わずにはいられなかった。


「葉火ちゃんが報われないままなんて、そんなのは嫌だ。笑うなら、勝って笑っていて欲しい。僕は、葉火ちゃんの気持ちに、応えられないけど……嫌だ。嫌なんだよ、葉火ちゃんが負けたままなのは」


「ふぅん、あんたがそれを言うのね」


「ごめん……本当に、ごめん。僕はいま、無責任に勝手なことを言ってる。でも心からそう思ってる。だから、少しでも。僕に手伝わせてくれないかな」


「手伝いって?」


「友達として。葉火ちゃんが満たされるように、手伝わせて欲しい。葉火ちゃんのお母さんを必ず見つけ出してみせるから。葉火ちゃんが日々を幸せだって感じられるように、がんばるから――」


 がんばるから――なんだ。

 そんなものはわがままだ。

 片側からしか見ていない、一方的な押し付けだ。

 分かってはいても――それでも。


「これからも、友達でいて、くれないかな」


 めちゃくちゃで、グチャグチャで、みっともなくて。

 呆れられても仕方がない。

 けれど葉火は嬉しそうに口角を上げていて。

 その優しさに、視界が滲みそうになる。


「――あはっ。なによもしかして泣いてくれるの? あたしのこと好きすぎよ。ほんと勝手な奴なんだから」


 葉火はからかいながら嬉しそうに笑うと、自分の笑い声を前奏にして、


「そう言ってるじゃない。いや、言ってなかったかも。まあいいわ。あんたの気持ちは素直に貰って喜ばせてもらうけど、あたしは今でも充分すぎるほど満たされてるわよ。別に恋心が報われなければ幸せを逃すってわけじゃないでしょうに。あたしを侮りすぎじゃない?」


 と言い、今度は慈しむような柔らかい笑みを見せる。

 そして葉火は再び背を地面にくっつけ、目を空高くへ向けて。

 大きく息を吸い、滔々と語り始めた。


「仕事が遅くまで引っ張った日の帰り道、偶然見つけた美味しそうな唐揚げを二人分買って、冷めないうちに家へ帰る。そこにはあんたが居て、晩御飯の支度を済ませてあたしを待ってる。買ってくるなら連絡してくれよ、なんてあんたが言って。全部食べれば問題ないでしょ、ってあたしが返す。二人で作ったお漬物も食卓に並べて。一緒にご飯を食べながらどうでもいい話をする。お酒なんかも、飲んでみたりして。それはきっと幸せなんでしょうね。あたしが小さい頃に思い描いた幸せそのものなんだと思うわ」 


 そんな、もしもの話を。

 自ら語り上げた子供の頃に描いた幸せを。

 葉火は。

「足りないわね」と一蹴した。


「その程度じゃ全然足りない。子供の想像に収まる程度のあたしじゃないのよ。おチビの頭の中なんて窮屈すぎて圧死するわ」


 そして葉火は立ち上がり、腰に手を当て胸を張って憂を見下ろす。


「いい? 今のあたしの幸せにはあんた一人じゃ全然足りないの。夜々と三耶子も一緒にいなきゃ話にならないわ。それくらい、好きになっちゃった。憂と、夜々と、三耶子のこと。おチビのあたしには想像もできなかったでしょうね」


 自分の辿り着ける一番が想像もできなかった場所にある。

 憂は静かに頷き、黙って聞き入る。


「あんたら三人にあたしが与えた影響はかなり大きいと自負してるわ。好きな人達の中にあたしがいる。つまり憂達が幸せになるってことはあたしも幸せになるって、そういうことよ」


 というわけで、と繋いで。


「手始めに夜々とイチャついてあたしらに見せつけなさい。ほら、背筋伸ばして前向きなさいよ。でないと夜々の顔見えないでしょ」


 そう言って屈んだ葉火が憂の背中に張り手をお見舞いする。

 大盤振る舞いで、三回も。

 そして葉火は不敵に大胆に、欲深さを隠さずに口角を吊り上げて。


「前に言ったじゃない。あたし、誰一人、何一つ手放すつもりないから」


 言い終えた葉火が句点を打つように、もう一度強く背中を叩いた。

 身体の芯まで響く衝撃。


 心の震える感覚にじっとしていられず憂は立ち上がり、同じく背筋を伸ばした葉火と向き合って、受けた微笑に笑い返す。


 それが葉火の望む接し方だから。

 手放すつもりはないと言ってくれた彼女に、こちらからも、掴まる。


「あんたがあたしと離れたくないって泣きついたの、すごく嬉しかったわ。変に気を遣って遠ざけようとかしてたら、流石に傷付いたわよ」


「葉火ちゃんのおかげだよ、全部。ありがとう――本当に、ありがとう」


「それじゃ、最後に改めて。もう一度あたしをフッときなさい。ついでにあたしもあんたをフるわ」


 あたしが本気で気にしてないってこと入念に分からせてやるわ、と葉火が憂を促す。二人で向かい合い、揃って真剣な顔をする。


 葉火は同情を嫌う。

 気を遣われることを嫌う。

 そうでなくとも、答えなければならない。


「僕は夜々さんが好きだ。だから葉火ちゃんとは付き合えない」


「あたしはあんたを好きだけど、あたしを好きなあんたは好きじゃないわ。だから絶対、付き合ってあげない」


 葉火が笑って。

 憂も笑う。


「あたしをフッたこと、生涯誇りに思いなさい」


「葉火ちゃんから好意を寄せられたこと、僕は一生誇りに思う」


「勿体ないことしたわね。氷佳のコスプレして甘えてくれる同い年なんて、この世にあたしくらいなのに」


 言って葉火は気持ち良さそうに伸びをすると、気の抜けた吐息を漏らし、お腹を押さえた。


「お腹空いてきたわね。なにか食べに行きましょ」


「好きなもの奢るよ」


「じゃああたしは憂の分出すわ。ちゃんとあたしを慰めなさいよ。あたしもあんたを慰めてあげるから」


 言いながら斜面を上り始めた葉火に続いて、隣に並ぶ。

 肩をぶつけてきた葉火が早足になったことで競争を挑まれていると察した憂は、押し返して応戦する。


 そうして二人は競り合いつつ自転車を目指し――勝ったのは、葉火。

 自転車に跨った葉火は意地の悪い顔で散々憂を煽り散らした。


 ひとしきり舌を回して満足したらしい葉火はペダルに足を掛け「それじゃ行くわよ」と言った。


「ま。色々言ったけど、恋なんてとっくに通り過ぎちゃってた感じがあるのが実際のところなのよね。というわけで恋人以外の関係は全部あたしが貰うわ。手始めに姉として接するから逆らうんじゃないわよ。弟くん」


 葉火は清々しい顔で無邪気に笑い、ペダルを踏み込み走り出した。


 遠ざかる背中を見て、憂は考える。

 彼女が今日の選択を決して後悔しないように、誇れる友人でありたいと強く思った。

 彼女から貰ったものを、何倍にもして返したい。

 そのためにも葉火の母親を必ず見つけてみせようと、そう誓った。


 決意を込めて一歩を踏み出すと、Uターンして戻って来た葉火が、憂の前で停止する。


「あんたのことだから、明日からあたしのお母さん探しがんばるぞとか思ってるんでしょ。まずは夜々への告白会議が先よ」


「並行して行う。僕は二兎を手に入れてみせる」


「そんなに器用じゃないでしょうに。いいから、明日朝六時に三耶子の家ね。はい決定」


 相変わらず朝一で突撃を掛けようとする葉火だった。


「いくらなんでも迷惑だから止めときなって。三耶子さんはものすごく喜ぶだろうけど」


「最近テントを手に入れたから、古海家の庭でキャンプと洒落込もうかしら」


 そこで葉火はなにか閃いた顔をして、手を叩く。


「あんたの家ペット居なかったわね。首輪もあるしお世話になるわ。わんわん」


 どうやら葉火の言うところの恋人以外の関係にはペットも含まれているようだった。目を逸らしてしまった憂の頭を葉火がはたいた。

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