続・グイグイ期

 三月十八日、金曜日。

 修了式――今日で高校生活一年目が幕を下ろし、春休みがやって来る。


 区切りの季節。

 終わりの春。

 モラトリアム中のモラトリアム。


 上空より注がれる暖かな陽射しは、否応なしに過去回想を喚起する。

 本当にあっという間だった。

 ――本当に、楽しかった。


 これから先の未来に胸躍らせながらも、もう少しだけ、と足踏みしたくなる程に。一つ一つ丁寧に振り返りたくなったが――しかしそこまでの時間は与えれなかった。


 前を歩いていた葉火が足を止め、勢いよく反転してこちらを向く。


「さてと時間はあんまり無いけど、うららかな気分だから勿体ぶるわね」


 下の句だけを表したような余裕に満ちた顔で言って、葉火は髪をかき上げる。


 場所は、校舎裏。

 葉火の対面には憂と三耶子、そして夜々が並んでいる。

 じきに式典が始まるため体育館へ移動しなければならないのだが、話があるからと葉火が三人を連れ出したのである。

 葉火が何を話すつもりなのかは、想像に難くない。


「問題よ。どうしてあたしはあんたらを外に呼び出したでしょう」


「聞かれたくない内容だから――ってのが不正解なのは分かる」


 憂の答えに葉火は「正解よ」とややこしいことを言って。

 挙手して待つ三耶子と夜々に回答のチャンスを与えず、自身の足下を指差した。


「あたし以上にこの靴が似合う奴はいないって自慢するためでしたー。さ、褒めなさい」


 右脚を伸ばして靴を見せびらかす葉火。

 真っ赤なスニーカー。

 プレゼントをこれ以上ないくらい気に入ってくれている姿に憂達は微笑み、惜しみない賛辞と拍手を送った。


「あたしも成長したものだわ。半年前なら躊躇いなく土足で歩き回ってたもの。それを見た生意気な男子があたしに言うの。おい剣ヶ峰、脱げよ。へへへ僕はお前みたいな高慢ちきを無理やり脱がせるのが大好きなんだ」


「誰だその変態は! 安心しろよ葉火ちゃん、そんな不審者は僕がやっつけてやるから!」


「自分自身と戦う展開って王道よね。まあそれはいいとして」


 言いながら左足を軸にくると周り――


「どうやらなにやら、この辺りにあたしのお母さんがいるっぽいのよね」


 と、なんでもないことのように葉火は言った。

 相変わらずの自由な筋運び。

 下り坂に差し掛かったというより足下に穴を開けられたような感覚を覚えつつ、黙って耳を傾ける。


「といっても、それらしい人を見かけたってだけで確証は無いみたい。なのにあたしを見張るってことは、よっぽど会わせたくないのね。そうだ、憂。あたしとカラオケに行った日覚えてるわよね」


「もちろん覚えてるよ。結構前だけど――もしかして」


「そ。あの頃には目撃情報が挙がってたみたい。警戒もしてたらしいわ。巳舌さんが朝から車を出してくれた謎が解けたわね」


 葉火は腕を組んで深く頷くと、「スッキリしたでしょ」と憂に向かって笑いかける。

 それから右手の人差し指をピンと立てて。


「そういうわけで。お母さんが近くにいるとして。目的があたしだったとしたら。誕生日に劇的な再会――とか狙いそうでしょ? だから巳舌さんもおばあちゃんも、最近は特に警戒してたのよ。過保護の理由はざっとこんな感じね」


 そして最後に「お父さんもいるはずよ」と推測を添えて――葉火は曇りの無い笑顔を見せた。


「面白くなってきたじゃない。もしもまだ近くをうろついてるなら、見つけ出してあんたらを紹介してやるわ!」


「頼まれなくても一緒に探しちゃうんだから」三耶子が言う。


「ありがと。でも大した手掛かりもないし顔も分かんないから、あんまり気にしないでいいわよ。用があるなら向こうから来るでしょ。そんなことより春休みなんだから、みんなでどっか遊びに行くわよ絶対に」


「それは大賛成。けれどもう少し聞かせて頂戴。巳舌さんは教えてくれなかったの? 外見的特徴とか」


「服着た狼って言ってたわ」


 褒めているのか悪口なのか怪しいラインの人物評に葉火と三耶子は口元を緩めて。憂と夜々は顎に手を当て首を傾げる同じ動き。


「髪はセミロングのウルフカット。目はあたしに似て鋭い感じみたい。でも間違いなくあたしの方が可愛いわ。あくまで似てるってだけだから気にしすぎちゃダメよ。聞いたのはそれくらい――あ、季節感の無い服着てるのも特徴らしいわ」


 確かに葉火も秋なのに夏っぽい私服を着ていたな、と憂はみんなでピクニックに出掛けた日を思い出していた。


 が、そこまで遡る途中、どこかで引っ掛かったような気がして――

 隣でむむむと唸る夜々へ視線を移す。

 またしても夜々と動きが同期して、目と目が合った、その時だった。


「あっ!」

「あーっ!」


 憂と夜々は同時に閃きを大きな声へ変換した。

 その声量とタイミングに驚いたらしく、三耶子が猫のようにびょーんと跳ねて葉火の隣に着地する。


「なによあんたら、びっくりするじゃない。三耶子が怯えてるでしょ」


「ふしゃー!」


「あ、ごめんね三耶子さん。後でちゅーるをあげるよ。それで、葉火ちゃん。もしかしたらだけど……僕達、会ったことあるかも」


「はあ?」


 心から意外だったのだろう、葉火はちょっぴり間の抜けた声で返す。

 それっぽいというだけで無闇に期待を煽るのは軽率だったかもしれないが――いま聞いた特徴にあれだけ当て嵌まる人物が他にいるだろうか?

 ――いるだろうなあ。


「ごめん、当て嵌まるってだけで人違いかも。一応、そういう人に会ったってことだけ伝えとく」


「憂くんがデレデレしてたあの人だね」


「夜々さんが甘えとろけてたあの人だ」


 二人の話を聞いた葉火は笑みを一層深め、どんな印象を受けたか、どんな話をしたのかと問うてくる。


 親近感の塊のような人、不思議な大人と憂は答えた。

 不器用だけど優しい人、と夜々は答えた。


 それから飲食店を探し求めて道に迷っていたこと、スマホが苦手なこと、いきなり頭を撫でてきたこと。

 昔この街に住んでいたらしいことを伝えると――


「あたしのお母さんに違いないわ。そんな気がする」


「いま思えばかなり葉火ちゃんに似てたかも……」と、夜々。


「当時のあんたが何考えてたか大体分かるわ。ま、真実は会った時のお楽しみってことにしとくわよ」


 そこで話を打ち切り、葉火は来た道を戻り始める。

 憂達も続くと葉火は身を翻し、後ろ歩きで活発に笑う。


「一緒に探してくれるのは勿論嬉しいけど、最優先は楽しく遊ぶことだから見失うんじゃないわよ。バカみたいなことたくさんやるんだから。両親がどうとかはついでよついで。そもそも、いるかどうかも分かんないし」


「それじゃ、楽しくバカやりつつ、全部まとめて手に入れようぜ」


「あはっ、言うと思ったわ。ありがと。愛してるわよあんたら」


 投げキッスをした葉火は再び反転して前を向き直し。

 突然しゃがんで両手を地面に付けた。


「気分が良いから逆立ちして歩いてあげる。そっちの方が靴を見せびらかせるし、土足問題もクリアでずっと履いてられるわ」


「早速おバカめ。スカートなんだからやめとけって。はひたなぶる。はい僕は止めました! あとはお好きにどうぞ!」


 憂が放った形ばかりの制止を受けて、葉火は両手に力を込め――本当に逆立ちしようとしたが、三耶子に足首を掴まれ阻止された。


 と、そこで憂の視界が暗転する。

 正面へ来た夜々に両手で顔を覆われたからだ。


「暗くってなんにも見えない……なぜ……明かりを消したんです?」


「ほらほらみんな、早く行かないと先生に怒られちゃうよ!」


 両手でぎゅーっと憂の顔を押さえながら、楽しげにそう言って。

 手を離した夜々は、渋々立ち上がった葉火の背中に飛びつきおぶさった。


 そのまま進み始めた二人の後ろを歩きながら、憂と三耶子はどっちが相手をおんぶするか言い争った。



 〇



 奈良端先生の簡素な挨拶を以って、年度を締めくくるホームルームが終了した。

 別れの言葉を口にする者はいない。

 クラスが変わるだけで今後も顔を合わせる機会は多いから――というのもあるけれど、夕方に再集結するからというのが主な理由である。


 いわゆるクラス会。奈良端先生を含む奇跡の全員参加で、だから懐かしんだり名残惜しんだりをするとしたら、その時だろう。

 もっとも、既に沈みがちな人もいるけれど――


「杜波さん、私達と離れるのが寂しくて仕方ないみたいだから、時間までみんなで慰めてくるわ」


「そっか。三耶子さんは、大丈夫? 寝てないでしょ」


「ふふふ、超平気」


 クラス会が始まる十八時まで三耶子達はエンジンを温め続けるらしい。

 嬉しそうな三耶子に憂は笑い返し、「またあとでね」と手を振って教室を出た。


 約六時間の隙間がある――よし、一度家に帰るとしよう。

 昨晩は葉火の誕生日会で盛り上がったこともあり中々寝付けず、睡眠時間が不足気味だ。


 お昼寝をしよう。もしも氷佳が添い寝をしてくれたなら身体が更に進化する。きっと向こう百年疲れない。


 パーフェクトな皮算用に浮かれる憂の足取りは軽い。

 このまま自宅まで一直線――と思ったのだが、憂の足は自然と家路を外れていた。


 訪れたのは――前に夜々と買い物へ出かけた際、呼び止められた場所。

 葉火の母と思しき人物と遭遇した、なんの変哲もない道だった。

 立ち止まって左右を見る。

 当然といえば当然だが、それらしい人物は見当たらなかった。


「いるわけないか」


 小さく呟き空を見上げる。

 なんとなく。

 本当に、なんとなく――今日という日の空の青さを瞼に焼き付けておきたくなった。


 いつか大人として過ごした時間の方が長くなった時。

 何気なく見上げた空の色を思い出せたらいいな、と憂は思った。


 しばらくその場に立ち尽くし、見惚れていると。

 不意に。

 いきなり。

 ひょこっと――左腕と腰の間から、頭が生えてきた。


 何者かの後頭部。

 背後から差し込まれたそれに驚きつつも、憂は両足に力を込めて踏ん張ってみせる。


「私は誰でしょーか!」


 小っちゃな頭のその人物は――朗らかに問いを投げながら上体を起こし始め、頭がどんどん上がってくる。

 顔を見るまでもなく声を聴くまでもなく、誰なのか分かった。


「夜々さんでしょ」


「正解! 呼ばれて飛び出てじゃじゃ馬娘、名瀬夜々でした!」


 やがて夜々が背筋を伸ばし、肩を組む形が出来上がる。

 あざとい登場を果たした夜々が、人好きのする可愛らしい笑顔で見上げてくる。


「かつての葉火ちゃんみたいな紹介文だね」


 と、憂も笑い返した。


「夜々さん達はクラス会とか無いの?」


「夕方から! 一回家に帰るつもりなんだけど、ここに寄っておきたくてさ。憂くんもいるだろうなって予感がしてたよ」


「バレてた?」


「うむ、ばればれ。憂くん、私達のこと大好きだもんねー」


「うん。会わせてあげられたらいいよね」


 憂の言葉に夜々は嬉々として同意する。

 さっきからずっと可愛らしい。


「夜々さんも来てくれたことで条件を満たしたかと思ったけど――そう簡単にはいかないね。というかさ、夜々ちゃん。照れるから……離れてもらってもいい?」


「……では、この手は一体?」


 夜々が左手を自身の左肩へ持っていく。

 そこには既に憂の手があった。

 憂は左手で夜々の肩をしっかり掴んでいるのだった。

 強めに。更には自身の側へ抱き寄せるように力を込めている。これでは離れたくとも離れられないだろう。


 そんな矛盾をつっつかれても憂は動じない。

 どころか爽やかな微笑と共に、そのまま歩き出した。


「ごめん、つい。離したくはないんだよね」

「なにそれー」


 夜々が微笑みながら右腕を憂の腰に回す。

 そこで憂は夜々が何かを握っていることに気付いた。


「何持ってるの?」


「傘! ずっと置きっぱなしにしちゃってたから回収日!」


 憂の右側で透明の小さなビニール傘が揺れる。


「最近あんまり雨降らなかったもんね」


 言いながら、右手で傘を掴む。


「わ、いいよ。自分で持つからさ」


「代わりに僕を持ってちょーだい」


「こやつめ……」


「前に『思い出は晴れの日ばかり』って言ってたでしょ、あれ、気に入ってるんだ。だから、なんというか。傘は僕に持たせてよ」


「……じゃあ、ありがと」


 思い出は晴れの日ばかり――夜々らしくて素敵な言葉だと思う。

 それに確かに不思議なことに、憂の持つ夜々との思い出は晴れの日ばかりだ。

 出会ってから今日まで、一度も雨なんて降らなかったんじゃないかと錯覚してしまう程に。


 そんなことを考えていると、バカバカしい思い付きが浮き上がってきて、憂は思わず笑ってしまう。

 けれど――やってみたい。


「ねえ夜々さん。ちょっとだけ、バカなことをしてもいい?」


 周囲を見回して人通りが少ないことを確認する。

 前後から人が歩いてくる様子はない。


「うむ、どーぞ。ヘンテコすぎたらちゃんと止めるよ!」


 というわけで。

 憂は右手で器用に留め具を外し――傘を開いた。

 夜々はきょとんと首を傾げて瞬きを一つ。


「やってみたかったんだ。一緒に傘入るやつ。夜々さん達と一緒の時って、なかなか雨降らないことに気付いてさ」


 本日快晴。

 生地越しでも空は青い。


 周りに迷惑が掛かることはないと思うけれど、目撃されれば恥ずかしい。

 だから夜々次第ですぐに止めるつもりだったが――


「あはははは! そういえばそーかも! それじゃこの機会にやっちゃお!」


 夜々はおかしそうに笑って。

 憂を抱き寄せる右手に力を込めた。





 晴れた日の相合傘というちょっとした奇行で春休みのスタートを飾った憂と夜々は、以前と同じ場所で以前と同じようにクレープを食べた。


 葉火の母親探しは、葉火の要望通り日を改めて四人で行おう。

 そっちの方があっさり会える気がする、なんて話をしながら。


 あの狼みたいな人は、たまたま近くに来たから寄ってみただけで、昼食が済んだら出て行くと言っていた。

 けれど憂は、なんとなく、まだこの街にいるだろうなと思った。

 居て欲しいと、そう思った。


「あったかいねー」


 夜々が言う。

 現在二人は、ベンチに横並びでのんびり陽射しを浴びていた。


「僕、このまま寝ちゃうかも。昨日は余韻が抜けなくて寝るのに時間掛かってさ」


「私もー。虎南とマチルダちゃん巻き込んじゃった。葉火ちゃんも式典の時寝てたなー」


「三耶子さんは寝てなかったよ。ちょっと心配」


 憂と夜々は前を向いたまま笑う。

 段々と頭がぼんやりしてきた。本格的に侵攻してくる眠気に抵抗していると、


「ねえ憂くん」


 私に考えがある、と言うような調子で夜々が呼びかけてくる。

 そして、今度はおずおずと。


「……うち、来る? お昼寝できるよ」


 憂はゆっくり瞼を下ろし――勢いよく開いて夜々を向いた。

 名瀬家でお昼寝?


「……いいの?」


「うん。お父さんとお母さんはお仕事でいないし、虎南は素直で良い子で可愛いから静かにしてくれるよ」


「暁東くんは?」


「氷佳ちゃんと遊びに行くって」


「僕がそれを知らないってことは冗談だね」


「寝た方がいいよ憂くん」


 頭が回っていないと労われてしまった。

 ちなみに憂は大真面目に言っている。


 それはさておき。

 誘ってもらったからには真摯に答えなければならない。

 だから憂は――遠慮がちにはにかんで頬を掻く夜々に。

 ありがとう、と伝えて。

 座ったままお辞儀をした。断る理由など、あるはずもない。


「ありがとう。お邪魔します」


「うん。おいで」


 と、口元を緩めた夜々が立ち上がり、両手で手招きをする。

 あざとい。


 白状するとこの誘いを受けた途端に眠気はどこかへ吹き飛んでしまったのだが――それならそれで、夜々のお昼寝を見守るという大役を全うすればいい、と憂も立ち上がる。


 そして早く早くと声を弾ませる夜々に手を引かれ、名瀬家へ向かった。

 途中で誰かと出くわすこともなく。

 探すのを止めたら向こうからやって来たということもなく。


 到着。

 中へ入り、リビングへ通される。


 するとそこには――お昼寝中らしき虎南の姿があった。

 制服のまま床に仰向けで横たわっていて、『片』の字のような体勢。シャツが捲れてお腹が露出している。


 けれどそんなことより、憂が一番気になったのは――虎南を囲む白い線だった。

 チョーク・アウトライン。

 事件現場で被害者や証拠品を囲う白線。


 まさか事件が起きたとは思わないが、これは一体どういうことだろう。

 白線を凝視すると、それが長い紐なのだと分かった。


「マチルダちゃんから教えて貰ったんだって。こうしとけば無闇に触られないって」


「変なことばかり教えられてるなあ。つまりこれは、起こさないでってことか」


 二人は呆れた風の微笑を向け合ったのち、虎南の観察に戻る。

 穏やかな寝顔。きっと楽しい夢を見ているのだろう。

 憂が一歩近付くと、虎南は口をむにゃむにゃさせて――


「すぴゃーっ……むにゃむにゅ……すぴぴーっ」


「絶対起きてるぞこの子。間違いない。起きてる方に僕の右腕を賭けよう」


「取り立てる方にも配慮して欲しいなっ!」


 いくらなんでもな寝息の立て方である。

 この光景を漫画にしたら絶対に鼻提灯が描かれているだろう。


「気持ちは分かるけど、ふふん、失敗したね憂くん。虎南はいつもこんなだよ。私は寝てる方にオールイン!」


「オールイン? よし成立! 後で勘弁してと泣きつかれても僕は心を鬼にする!」


 声のボリュームを数段上げて憂は言う。反則だと夜々から物言いをつけられたが認めなかった。

 そんなやり取りの中でも虎南は目を開けない。


 観察を続けた結果、どうやら本当に眠っているらしいと分かったので――残念ながら憂の敗北で勝負は決着した。


「私の勝ちー」


 ぽんぽん、と夜々に肩を叩かれた直後。


「お姉ちゃん……おはよ」


 虎南がゆっくりと目を開いた。

 目を擦りながら上体を起こして、大きな大きな欠伸をする。


「やっぱり最初から起きてたんじゃ?」


「……あれ、姉倉先輩まで。へいらっしゃい」


 伸びをしながらそう言って、パキパキと首を鳴らす虎南。


「ふぅ。いきなりですが問題です。下は大火事、上は洪水。これなーんだ」


「……五右衛門風呂?」


「わたしが今見てた夢でしたぁ」


 幸せそうな寝顔でなんて夢を見てたんだこの妹は。

 ただちに顔を洗わせて、タオルで拭いてあげた。

 憂のお節介ですっかり目を覚ました虎南が言う。


「なんかよく分かんないですけど、丁度良かった。お姉ちゃん、わたしそろそろ出掛けるね」


「あれ。友達と集まるの夕方って言ってなかったっけ?」


「師匠とパトロールしてくる。浮かれた若者が跋扈してるから忙しいんだって」


 奇跡的におしゃれなパーマっぽくなっているからか、寝癖を直さないまま虎南は玄関へ走って行く。


「ほらほらお姉ちゃんに姉倉先輩。あらぬ疑いを掛けられては堪らないのでちゃんと見送ってください」


 呼ばれて憂と夜々も玄関まで移動する。


「もしかしてこの間のこと気にしてる?」憂が訊いた。


「はい。わたしは反省を盾にできる女なので」


「糧にしろよ。盾にされたらこちらも攻撃せざるを得ない」


 そして憂と夜々は虎南が家を出て施錠するまでを見届けた。

 寝起きとは思えない行動の早さと抜かりなさに感服しつつ、突如として名瀬家で夜々と二人きりになったことで緊張し始めた憂は、上手く言葉を送り出せずにいた。


 気まずいわけではない沈黙。

 憂と夜々は互いを見て小さく笑う。


「それじゃ、私の部屋へどうぞ――あ、やっぱ待って! なんか不安になってきた!」


 余裕から狼狽までの鮮やかなグラデーションを見せてくれた夜々は、自室へばびゅーんと駆け込んでいく。


 それを見て憂は。

 果たして僕は眠れるのだろうか――と胸の辺りを押さえた。

 むしろ眠れる何かが呼び起こされそうな気がした。

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