ずっと、ずっと、ずっと
よく考えてみれば。
よくよく考えてみれば。
巳舌さんの目に留まらない為に男装しているのだから、顔が割れている憂達は同行者として不適格ではないか――という意見を、葉火は高笑いと共に踏み潰した。
計画に乗るんだから同乗者ね、なんて笑いながら。
一秒だってあたしの可愛い子猫ちゃん達と離れるのはゴメンよ、なんて笑いながら――上履きを靴箱へ放り込み、スニーカーに履き替える。
葉火によく似合う、鮮やかな赤のハイカット。
「なに見てんの。憂ってほんと、あたしの脚に興味津々よね」
「そうじゃなくって、靴。かなり目立ちそうだけど」
「む、うっとりしてたわ。お気に入りなのよねこれ」
足を前に出して靴を見せびらかす葉火。
正面の憂と三耶子、隣の夜々と全員が葉火の足をじっと見つめた。
「なんなのよ黙って。あ、分かった。履いてみたいんでしょ。憂の言うことにも一理あるし、交換しましょうか――」
言いながら葉火は隣の夜々へ視線を移し、ふっとニヒルに笑んだ。
「夜々に渡したら住処にされそうね。サイズが違い過ぎるわ」
「私をなんだと思ってるのかなっ!」
自分を大きく見せるためだろう、夜々は背伸びをしたバンザイの格好で威嚇する。そんな小動物を真っ正面から抱きしめ、持ち上げて、葉火は涼しい顔で歩き始めた。
憂と三耶子も靴を履き替えて後を追う。
正門の手前でようやく夜々は大地に降り立った。そこで葉火と三耶子が靴を交換して。
よし、と憂は場を仕切る。
「これから三耶子さんの家に向かうわけだけど、いくらなんでも四人組は挑発的すぎるから、一時的にツーマンセルで動こう」
「先行した二人が世間話なりで巳舌さんの注意を引いて、その隙に後発の二人が通り抜けるというわけね」
息継ぎを境に三耶子が続きを引き取ってくれた。彼女の読心術は今日も冴えに冴えている。
「面白そうじゃない、それなら賛成よ。じゃあ、身長的にジャージ二人がバリケード担当ね」
憂と三耶子は同時に頷いた。
ジャージ組。制服を貸し出している憂は当然として、三耶子はファッショナブルな気分を理由にブレザーではなくジャージを羽織っているのだった。
チーム分けも済んだので、早速決行。
黒のおかっぱはひちゃんが、嬉しそうにバッグのジッパーを開けたり閉じたりするのを横目に、ジャージ組は学校を出た。
正門を抜けてすぐ、左手側の壁に巳舌さんが寄りかかっていた。逆方向だと助かったが仕方ない。
巳舌さんは走ることを想定しているようで、上は水色のパーカー、下はタイツの上から黒のショートパンツという出で立ちだ。
こちらもスポーティな服装というのは結果的に失敗だったかもしれない。
ひとまず三耶子と雑談しつつ、正面に差し掛かった辺りでこちらから声を掛けようと目論んでみたのだが――
「そこのお二人」
と、先手を奪われてしまった。
「はい? あ、確か葉火ちゃんのところの」
憂の白々しい演技と共に巳舌さんに歩み寄る。
無機質な瞳が三耶子と憂を切りつけるように左から右へ動いた。
「見た顔ですね」
「こんにちは。先日は失礼しました。遅れましたが、私は古海三耶子です」
「気にしてませんよ。どうせアレに付き合わされたんでしょう。で、アレは今どこに?」
「私の友達を物みたいに呼ばないでください」
行儀よく頭を下げていた三耶子だったが、顔を上げるやむっとした表情で食いかかる。
「……失礼しました。言い直します、バカ娘は今どこにいますか?」
「知りません」
拗ねた風で顔を背ける三耶子。
代わりに憂が会話を引き受けた。
「あんまり意地悪しないでくださいよ。葉火ちゃんがバカだってのは同意しますけど」
「ならば話は早いですね」
「全く。全然。葉火ちゃんをバカと言っていいのは僕だけです」
沸点の低い男、姉倉憂。
最近はトラブルの無い生活を送っているため本人も忘れがちだが、憂はかなり感情的な人間である。
巳舌さんが葉火を嫌っているという話は半信半疑で、だから二人の正確な距離感も掴めていないけれど――吐き捨てるようにバカ娘だなんて言われたら、当たり前に腹が立つ。
「ふうん」と巳舌さんは抑揚なく言う。
「重ねて失礼しました。争いに来たわけでは、ないんです。火富さんに言われてあの子を連れ帰りに来ました」
「……僕の方こそ失礼しました。あの、連れ帰るっていうのは、どうしてですか?」
「あなた達には関係ありません」
ぴしゃりと言い切られる。
拒絶。
取り付く島もない。
関係ない――関係ない、ね。
家の事情が絡んでいるとするのなら、確かに憂達は関係ないのかもしれない。
けれど憂の中にはその言に対する反発心が生まれた――すなわち、三耶子も同じことを考えているはずだ。
それを口から吐き出そうとしたところで。
視界の左側に、歩いてくる夜々と幽火くんの姿を捉えた。
憂の思考はブラインドの役割を果たすことを優先とし、壁に手をつき巳舌さんに身体を寄せる。隣の三耶子も同じ動きをして――
あっという間に、年上の女性に迫る高校生の図が出来上がった。
「なんのつもりですか。私は子供に興味ありません。枯れ専なので。それともここはカツアゲロード?」
――枯れ専ってなに?
目顔で三耶子に問うてみると、「年上好きってことよ」と教えてくれた。
「じゃあ、ぬれせんは濡れた人が好きってこと?」
「違うわ」
「濡れた男性には色気がありますよね。水滴と関節って非常に相性が良いんですよ」
「もう、巳舌さんまで」
意外にもこちらのノリに合わせてきた巳舌さんが喋々と嗜好を語り始める。
徐々に対象年齢が上がっていき、憂と三耶子が気まずさに目を逸らす中――その犠牲に報いるように、夜々と葉火は拍子抜けするくらいあっさりと通過して行った。
かくして。
隠して。
無事に関門を突破することができた。
あとは良い感じに切り上げて後を追いかけよう――と思ったのだが。
「そこのおかっぱ。止まりなさい」
変態から一転、鋭さの伴った声で巳舌さんがおかっぱを呼び止める。
二人は立ち止まり、夜々だけが振り返った。
「おかっぱも。こちらを向きなさい、ゆっくりと」
「…………」
この窮地を打開すべく、考えもまとまらないまま憂が口を開こうとしたところで。
葉火はネットごとウィッグを外しながら振り返り、大胆に口角を吊り上げた。
「やるじゃない。流石は巳舌さんね。褒めてあげる」
「誕生日を祝ってもらうと嬉しそうに語られて、この三人を警戒しないはずがないでしょう」
「浮かれすぎるのも考えものだわ。やめないけど」
乱れた髪を整えながら、葉火は巳舌さんの前に立つ。
それを機に憂と三耶子は迫るのを止めて後ろへ下がった。
「で、どうします? やりますか、追いかけっこ」
「やらないわ」
時間が勿体ないもの、と葉火は続けて。
巳舌さんを真っすぐに見つめて。
笑わずに。
「あたしだけじゃなくて、こいつらも――憂も、三耶子も、夜々も。あたしの誕生日祝うのが楽しみで仕方ないみたいなのよ」
春に指先を掛けるような穏やかさを言葉に込めて――息を吸い。
「あたしだけの時間じゃないの。だから今日は勘弁して。お願い――」
と、頭を下げようとして、途中で止まった。
止められた。
夜々と三耶子が両側から腕に組み付き、憂が背後から両手で葉火の頭を持ち上げたからだ。
そして三人は葉火の前に出て、巳舌さんと向かい合う。
「そういうのは僕らがすべきだろ。葉火ちゃんは誕生日なんだから、一番偉いんだから、胸張ってドシンと構えてろよ」
「いつもみたいに頼りにしてよね葉火ちゃん。小さくとも針は呑まれぬって言うでしょ。そーいうわけでソーイングだよ」
「ふふふ。これからはイベントムービーだから、葉火ちゃんは見ているだけでいいのよ」
前を向いたまま捲し立て、葉火の反応を見ないまま、三人は巳舌さんに向かって頭を下げた。
「葉火さんと一緒にいさせてください。お願いします」
巳舌さんは答えない。
憂達は顔を上げない。
葉火は口を挟まず沈黙と共に場を静観する。
粘る友人を。
ねだる友人を。
願う友人を――黙って見届けようとする。
「……顔を上げてください」
不意に巳舌さんが小さな溜息をついて言う。
三人は体勢を戻して巳舌さんと目を合わせる。
「私には。大人として、保護者として。葉火を守る義務があり、義理があります。例え火富さんに頼まれなくても同じことをしました」
「何を心配しているのか教えてください」
と。
鋭く切り込む三耶子を、
「あなた達には関係ありません」
先程と同じ言い回しで拒絶する巳舌さん。
関係ない。
あなた達には。
――それは違う、と憂は言った。
「巳舌さんが葉火さんを案じていることは伝わってきました。その心配が、一人の大人として、保護者として。間違った選択ではないってことも」
正しさは人の数だけ存在する。
だから巳舌さんは間違っていない。
だけどそれは。
間違っていないけれど。
交わっていない。
今のやり方は大人と子供であって、巳舌さんと葉火ではない、と憂は思う。
「葉火ちゃんはバカです」
「――っ?」
憂の言葉に巳舌さんの眉が跳ねる。
「巳舌さんもよく知ってると思います。幼い頃から見守ってきた巳舌さんだから、僕達程じゃないにしても、葉火さんがどんな奴なのか」
「随分と大きく出ましたね」
「だから子供ではなく葉火さんとして接してあげてください。心配事があるのなら、包み隠さず打ち明けた方が喜ぶじゃないですか」
言われるまでもなく巳舌さん自身分かっているだろうけれど。
どんな事情があるのかも知らないけれど。
そうして欲しいと思うから、勝手なことを言わせてもらった。
「……そうですね」
顔つきは険しいままだったが、優しい声で巳舌さんは言う。
やはり巳舌さんは葉火を嫌ってなんかいなかった。
葉火を大切に思っていて。
そして葉火も巳舌さんを好いている――それを隠せていないのだから、隠れてやり過ごすなんてやり方は初めから破綻していたのかもしれない。
あれこれ言ってはいたけれど、いくらでもあるやり方の中から、巳舌さんの待ち構えるこの道を選んだのは、そういうことだろう。
そんな彼女達だから、それぞれのやり方を交わらせて欲しい。
相手を大切に思うのはありがたいことで、決して、ありがた迷惑であってはいけないのだから。
「前に、葉火さんが言ってたんです。何か問題が起きたなら、まず巻き込んで事情を説明するって。言葉の通り葉火さんは僕の家に押しかけてきて、連れ出して、困ってるって伝えてくれました。僕はそれが、嬉しかった」
初対面の祖母を説得してくれ、なんて難易度は高かったけど。
「葉火さんは困難を前に塞ぎこんだりしません。自分一人でどうにもならなければ、素直に人を頼ります。いえ、例え一人でどうにかできるとしても、僕達を問答無用で巻き込んでくれる自信があります。友達と一緒に居たがるのが葉火さんだから。だから――僕達は僕達で自ら首を突っ込んで、最後まで支え合います。ということで、無関係というのはまず無理なんですよ」
なんともまあ、めちゃくちゃで一方的な言い分だと憂は思う。
いくらでも言い返す余地はある――けれど巳舌さんは何も言わず、黙って聞いてくれている。
そこで次に口を開いたのは、夜々。
「『あたし達に背中押して欲しいって、あたし達が一緒なら頑張れる気がするって、そう言えばいいじゃない』。葉火ちゃんが言ってくれました。その通りだったし、葉火ちゃんも同じように思ってくれてるんだって、嬉しかった。みんなが私の背中を叩いてくれたから、今があります。だから私も、葉火ちゃんの背中を思いっきり引っぱたいていきたいです」
自慢するように夜々が言って。
「葉火ちゃんは強いんです。自分で言うのは恥ずかしいけれど――おかげで私は、前よりずっと、素敵な自分になれました。一緒にいると、私もしっかり胸を張って前を向いて、たくさん自分を褒めてあげなきゃって、思えるから。今の私なら、葉火ちゃんを支えてあげられます」
照れくさそうに誇らしそうに三耶子も続いた。
「葉火さんは大丈夫です。僕達もいるから」
そして三人は誰からともなく「お願いします」と頭を下げる。
すると巳舌さんは再び小さな溜息をつき、肩を竦めた。
「青臭い」
「ちょっと巳舌さ――」
「でも、いいものですね」
葉火が口を挟みかけたところで。
巳舌さんは呆れた風で、けれど嬉しそうに、柔らかく微笑んだ。
顔を上げた憂は巳舌さんが表情筋を上手く扱えることに驚き、思わず振り返る。葉火にとっても意外だったのだろう、目をまん丸くして見つめていた。
「……まったく。多勢には敵いませんね」
「すみません。大人が相手なので、数で勝負は大前提と言いますか」憂は言った。
「質が悪ければどうにでもなったんですか、本当に、まったく」
分かりました、と巳舌さんが調子を強めて言う。
「好きにしてください。火富さんには私から話をつけておきます」
「いいんですか……?」
初めて葉火の家を訪れた際、謎のジョークを飛ばされたことをも思い出しつつ憂は訊いた。
巳舌さんは自然な笑みを浮かべ、揚々と言う。
「ここまで言ってもらって折れないようじゃ、大人どころか人間じゃないでしょう。むしろこちらからお願いしましょうか。葉火を祝ってあげてください、と」
巳舌さんがわずかに頭を下げる。
ここからひっくり返されることは無いと巳舌さんの表情や場の空気から分かる――確定した。
だから憂も三耶子も夜々も笑って。
未だぼーっとしている葉火の背中を小突いたり頭をつついたりして喜びを分かち合った。
「それでは私は失礼します。過保護の詳細は後日葉火から聞いてください」
そう言い残して立ち去ろうとする巳舌さんを葉火が呼び止めた。
振り向いた巳舌さんに、葉火は嬉しそうに笑いかける。
「ありがと」
「どういたしまして。大事にしなさい」
そして巳舌さんは手をひらひら揺らしながら去って行く。
走る必要がなくなったため、ゆっくり、歩いて。
遠ざかっていく。
――いつも僕達は優しい大人に助けられている。
自分より下の世代に返していけるようにならないとな、と憂は思った。
巳舌さんの背中にもう一度礼を告げて。
三耶子が意気揚々と歩き出し、夜々が後ろに続く。
「ほら、行こうぜはひちゃん」
なかなか動こうとしない葉火の背中を押してやろうかと考えていると、
「夜々、三耶子。二人もこっちに来なさい」
呼ばれて二人が引き返してくる。
そして葉火は自身の正面に憂と夜々と三耶子を並ばせて――
ぎゅっと。
ぎゅうっと。
三人まとめて、強く、強く、強く抱き締めた。
「ありがとね」
力の加減など一切考えていない、感情をぶつけるための抱擁。
左手を憂の首に、右手を三耶子の首に巻き付けて引き寄せ、真ん中の夜々を圧し潰すようにして胸に抱く。
「おかげであたし、幸せよ。今日のこと、一生忘れないわ」
「ふふふ。それを言うにはちょっと早いんじゃないかしら」
「そーだよ……そう……」
「葉火ちゃん、このままじゃ夜々さんがペシャンコになるかも」
「なによ人が真面目なこと言ってるのに」
なんて言いながらも葉火はおかしそうに笑って締める力を弱めた。
はひゅーと夜々が一命を取り留め――再び、今度は優しく抱き締める。
「ずっと、ずっと、ずっと」
右手で三耶子の頭を撫でて。
左手を憂の頬に添えて。
夜々と額同士を触れ合わせて。
「友達よ。何があっても、一生」
そう言って。
葉火は――ちょっとだけ泣いた。
〇
古海家での誕生日会は盛況を極めた。
途中、葉火に唆されてワインを飲み始めた古海夫妻が娘の楽しそうな姿に感極まって号泣し、「ブレるからやめて!」と三耶子に怒られたり。
晩酌のおこぼれ頂戴を狙った葉火がこっそりアルコールを舐めようとして、夜々からイエローカードを出されたり。
主役の葉火は全てが楽しくて仕方なかったようで、果てはピーナッツ一つ食べるだけで大笑いしていた。
そんな葉火へ、誕生日のプレゼント。
今回は諸々の都合上、三人で一つとさせてもらった。
選んだのは――スニーカー。
バスケットタイプで、色は赤。
先月葉火と遊びに行ったとき見つけた一品で、お気に召すだろうと憂は確信していた。というのも、葉火が目を奪われているわずかな瞬間を見逃さなかったからだ。
今日履いている靴が赤色だった時は大変焦ったが、同じ物でなくて助かった。
三人に見守られる中、スニーカーを箱から取り出した葉火は、
「生涯履き続けるわ。素敵な足跡、ありがと」
大切そうに両手で抱えて。
それはそれは可愛らしく微笑んだ。
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