人の数だけ世界は廻る
名瀬夜々は悶えていた。
自室のベッドにうつ伏せ、枕に顔を埋めて足をジタバタ。
やがてピンと足を伸ばし動かなくなった――かと思えば、枕ごとひっくり返って仰向けに。
そして上体を起こすと枕を胸に抱き、お尻を基点に独楽の要領で半回転し、頭と足の位置を入れ替えながら寝転んで、再び天井を仰ぐ。
十秒程経つと、夜々は不意に両手を伸ばし枕を掲げ。
ゆっくり下ろし、顔に被せた。
直後、またしても足をばたつかせ、それでも身体中を駆け巡る何かを発散しきれなかったのだろう、左右にゴロゴロ転がり始め――行き過ぎて。
夜々はベッドから落下した。「ひゃむっ!」と間の抜けた響きが室内に溶ける。
――という一連の流れを目撃していた虎南は、急いでクローゼットを飛び出した。
お姉ちゃんが変になっちゃった!
〇
古海三耶子は逃げていた。
逃走していた。
この先に待ち受ける未来への漠然とした不安や焦燥、といった形の無い敵ではなく、実際的な、文字通り背後へ迫り来る脅威から。
大人の女性から、逃げていた。
それも葉火の手を引きながら。
「こっちよ」
かつて憂と葉火の追跡から逃れた実績を持つ三耶子は、今回も冴えた道選びで追手を翻弄し、相手の姿が見えなくなったのを潮に路地へ入った。
ひとまず振り切ったようだ。
石塀にもたれかかり、乱れに乱れた息を整える三耶子。
一方の葉火は平然とした顔で優雅に髪をかき上げる。とても追われているとは思えない凛とした立ち姿だった。
「あんたまで一緒に逃げることないでしょうに」
と、葉火は嬉しさを隠さずに言う。
「嫌よ。葉火ちゃんが困ってるんだから」
間髪入れずに三耶子は答えた。
すると葉火がご機嫌な手つきで頭を撫でてくる。わざと髪の毛をくしゃくしゃにされた。
反撃しようとしたが、すぐに両手で整え直してくれたので、不問。
身だしなみを整えてもらった三耶子は妹気分で無邪気に笑って。
「ふふふ。皆まで言わないで葉火ちゃん。分かっているわ」
今度はお姉ちゃんぶるように訳知り顔。
「私がいると足手まといだって言いたいのよね。安心して、囮くらいなら引き受けられるわ」
「はあ?」
お見通しとばかりに指を立てる三耶子だったが、返ってきたのは呆れたような声だった。何言ってんのあんた、という感じ。
「おバカね。そんなこと考えもしなかったわ。足手まといだなんて、あたしの友達をバカにするんじゃないわよ。いい? 友達っていうのは重い枷じゃなくて追い風だってこと、よく覚えときなさい――というわけで。ありがとね、三耶子」
葉火の強気な笑顔に、「どういたしまして」と三耶子も同じように笑った。
「それで、さっきのはだあれ?」
この逃走劇の始まりとなった諍いを思い返しながら訊く。
帰宅しようと学校を出ると、正門前で葉火と大人の女性が言い争っていた。恐る恐る近付いていくと、女性が葉火の腕を掴んだのを切っ掛けに口論が取っ組み合いへ切り替わった。
互いに押し合う程度のものだったが、見過ごすわけにはいかない。
たぶん、あのまま続けていれば葉火が勝っていただろうけれど。
かなり優勢だったけれど――とにかく。
「おやめなさい!」と上品ぶった啖呵と共に割って入り、意識がこちらへ向いた隙を突いて、葉火の手を引きその場から逃走したのである。
「三耶子は会ったこと無いんだっけ。家政婦の巳舌さん」
「ああ、噂の。ごめんなさい、余計に話を拗らせちゃったわね」
「いいのよ。どの道従うつもりはなかったし。あんたは命の恩人よ、巳舌さんの」
そう言って葉火は顎に指を当て、思案顔をする。
「なーんか変なのよね、最近。おばあちゃんも巳舌さんも、今まで以上に過保護っていうか、今日だって頼んでも無いのに迎えに来たし。なに企んでんのかしら」
「心配してるんじゃないかしら。最近アルバイトを始めたし、帰りが遅くなることも増えたでしょう」
「だといいけど、あたしの感覚としては見張られてるって気分なのよね。まるであたしがどこかに近付くのを恐れてるような――」
言いかけて、葉火は鼻で笑った。
「ま、いま考えてもしょうがないわね。一枚岩ってわけでもないでしょうし。巳舌さんはあたしのこと嫌ってるから、いやがらせって線も捨てきれないのよね」
「だとしたら、私は本気で怒るわ」
「あはっ。三耶子、そんなにあたしのこと好きなの?」
「もう、意地悪なんだから」
好きよ、と三耶子は照れながら言う。
あたしもよ、と葉火は恥じらわずに言う。
「追われるのは性に合わないけど、あんたと一緒なら楽しくていいわね」
「ふふふ。ありがとう。私が葉火ちゃんを守るわ」
「なに生意気言ってんの。あんたがあたしに守られて惚れるのよ」
そんな風にどちらが騎士を務めるのか、仲睦まじく揉めながら、大通りに出る。
「お腹空いたわね。ご飯食べに行くわよ」
「なかなか挑発的ね。賛成。私、海産物が食べたいわ」
「任せなさい。でっかいホタテに延べ棒みたいなバター乗っけてくれるお店を知ってるわ」
〇
「何やってるのお姉ちゃん! 大丈夫!?」
「ひゃーっ! こ、虎南!? ななな何やってんの私のクローゼットで虎南こそ! 転んじゃったじゃん! これがコロンブスの玉転がしってやつかな! ね!」
狼狽えてはいるがしっかりとした発音で言いながら、夜々は素早く起き上がった。
虎南は夜々の背中をさすりながらベッドに座らせる。
姉が耳まで真っ赤なのは、今しがたの醜態を見られたからではないだろうな、と虎南は直感した。
夜々に促され、隣に腰を下ろす。
照れ隠しだろう咳払いをして、夜々は言う。
「どうしてクローゼットの中に居たの?」
「わたしがお姉ちゃんの部屋にいるのは普通のことだよ」
「それはそうだけど。隠れなくても良かったでしょ」
「走ってくる音が聞こえて焦っちゃった! えっへへー!」
撫でて、という意思を込めた笑みを夜々に向けると、流石はお姉ちゃん、ちょっと乱暴ではあるが撫でてくれた。
シームレスに膝枕へ移行しようそうしよう、なんて企んでいると、夜々の手が止まる。
「…………見たよね?」
「うん! 全部見てた! 瞬きしてないから正真正銘全部だよ!」
「うああ……」
愛する姉は両手で顔を覆うとそのまま俯いてしまった。
なので今度は虎南が夜々の頭をなでなでする。
「良いことあったんだね。おめでと、お姉ちゃん。それでそれで、姉倉先輩になにされたの?」
「……私がいつ憂くんの名前を出したのかな?」
「まったまたー。可愛い顔しちゃってぇ。それは元からだけど!」
これはこれはまさか。
脳裏をよぎった予感を舌に乗せ、虎南は声のトーンを一段上げる。
「もしかして、ちゅーしたの?」
「…………」
ぽふっ、と後ろに倒れ込むという行動が夜々からの回答だった。
それはつまりそういうことで。
あの先輩は自身が口先だけの男で無いと口の先っちょで見事証明してみせたようだ。
虎南もベッドに横たわり、夜々の横顔をじっと見つめ、訊いた。
「おくちびる?」
「……ほっぺ」
「上書きしていい?」
「だめ」
「じゃあ下書きにする」
「だーめ」
そこで夜々は両手を顔から外し、虎南を向く。
先程までの動揺が嘘のように大人びた表情で「だめ」と繰り返し、微笑んだ。
嬉しそうな顔に虎南も幸せな気分になったが、同時に一つまみ程の嫉妬も湧いてきて、今度会った時に姉倉先輩をどついてやろう、と密かに決意した。
「最初はからかわれたと思ったんだけどね。目閉じてって言うから待ってたのに、一回フェイントされてさ。これは許すまじと目開けたら、いきなり……不意打ちで。頭真っ白になっちゃった」
「お姉ちゃん……話したかったんだね」
いきなり饒舌になったうえ、浮かれているのか指を二本立てる夜々を優しく見守っていると――そこで。
「話は聞かせてもらいました」
と、クローゼットから声がした。
姉妹揃って視線を遣ると、そこには。
ピースサインを小さく揺らすマチルダの姿があった。
「マッ――」
がばっと上体を起こした夜々が、あんぐりと口を開けてフリーズする。
怒られるかもしれないとドキドキする虎南だったが、夜々の標的はマチルダへ定められた。
弾かれるように駆け出してマチルダへ迫ると、腕を掴んでぐいっと引き寄せ、勢いのまま後退。ベッドまで戻って来たところで、振り回すようにしてマチルダを虎南の隣へ押し倒した。
師匠に覆いかぶさる姉を見て、虎南は自慢の頭脳を働かせる。
わたしは間に挟まればいいのかな?
〇
たこ焼きも海産物よね。
と、香ってくるソースの匂いにつられて店を覗いていたところ、運悪く巳舌さんに見つかってしまい、二人は再び走っていた。
葉火曰く、巳舌さんが家政婦として重宝される理由の一つに「ホラーじみた執念深さ」というのがあるらしい。
「凄いのよあの人。幼い頃、よくかくれんぼしてくれてたんだけど。ある日のあたしは、家の中だけっていうルールを破ってバスで逃げたの。そしたら巳舌さん、終点までキックボードで追いかけて来たわ」
「執念深さとは……違うんじゃ、ないかしら。責任感、というか……」
走りながらの会話をこなせるほど体力を持たない三耶子は、息も絶え絶え、なんとか絞り出すのが精一杯だった。
バッグを捨ててしまおうか。
「ここは……私に任せて、先に、行って頂戴」
「あたしもそれ言いたいわ。その役目は譲りなさいよ」
「冗談。置いて行ったら、恨むから」
一切の疲労を見せない葉火に手を引かれ、路地へ入る。
幸い巳舌さんの追跡は無く、息を整えることができた。
三耶子の背をさすりながら、葉火は快活に笑む。
「言っとくけど、途中で離脱なんてさせないわよ。最後まであたしに付き合いなさい」
「当然、そのつもりよ」
「あんたのそういうとこ、好きよ」
ふぅ、と大きく息を吐いて回復を伝えると葉火が歩き出したので、三耶子も続く。が、いきなり葉火が立ち止まったので背中にぶつかってしまった。
「ちょっと待ちなさい」
言いながら葉火は巧みな指捌きでスマホを操り、ポケットへ戻して何事もなかったかのように歩き出した。
「やっぱり人混みに紛れる方がいいのかしら。木を隠すなら森の中って言うものね」三耶子が言う。
「あたしくらい際立ってるとむしろ逆効果ね。森の名前より木の名前の方が有名になるわ」
わざわざ振り返って胸を張る葉火を見て、三耶子はくすりと笑う。
深く根を張った揺るぎない自信。
葉火のこういうところも好きだった。
「なによニヤニヤして。ほら、行くわよ」
「お店は近いの?」
「ご飯は後回しにするわ。もうちょっとだけ気張りなさい」
そういえば、となにかを思い出したらしい葉火が口角を吊り上げる。
「こういうシチュエーションで一度やってみたかった隠れ方があるのよね。丁度良いわ」
と、言って。
首を傾げる三耶子の両肩を掴む。
そのままゆっくり押してくるので、されるがままに後退するうち、三耶子の背中は壁にぶつかった。
壁に、押し付けられた。
そして葉火が――そっと顔を寄せてくる。
まるで口づけでも交わすかのように。
三耶子の唇に自身の唇を近付けて――触れ合う直前で、止めた。
「恋人のフリしてやり過ごすのって定番よね」
「そ、そうね」
いきなり迫られたことで三耶子の心臓はバクバクと忙しない。
確かによく見るけれど……自分が経験することになるとは思っていなかったから、この構図における感情を上手く処理できなかった。
「そういえば、あんたには舌を好き放題されたわね。ここでお返ししてやろうかしら」
「あの時の葉火ちゃん、可愛かったわ」
三耶子は、文化祭の少し前に葉火が古海家で寝泊まりしていた時のことを思い出していた。
二人して行った悪ノリの数々。
あれは割と本気で門外不出である。
過去より攻め込んでくる恥ずかしさに耐えきれず三耶子が目を閉じると、葉火が「誘ってんの?」と嗜虐的に言う。
その直後、悪ノリを阻むように「おい」と声がした。
目を開けると、葉火の背後に巳舌さんが立っているのが分かった。
「いい加減にしてください。私が怒られるんですから。ほら、帰りますよ」
やれやれ、と大袈裟に肩を竦める巳舌さん。
更に目を伏せて大きな溜息を吐く、という隙を見せてくれたので、すさかず三耶子と葉火は逃げ出した。
巳舌さんは意外とポンコツなのかもしれない。
「あはははは! まったく迂闊だったわ! あたしが後姿まで余さず美少女なばっかりに!」
「そういう問題じゃないと思うけれど――いえ、きっとそれが問題ね」
そして三耶子と葉火は、思い切り笑った。
〇
虎南とマチルダは床に正座させられていた。
ベッドの上に正座した夜々が腕を組んでこちらを見下ろしている。
「二人とも、反省してるかね」
「ごめんなさいお姉ちゃん」
「反省してまーす」
押し倒されて念入りに口止めされたにも関わらず、マチルダは色の無い平坦な調子で言った。
夜々はぷんすこぷんすこ、と自前で効果音をつけている。
「それで、どうしてマチルダちゃんまで隠れてたの」
「面白そうだったので。こんなこともあろうかと靴を隠しておいて良かった」
「執行猶予なし!」
マチルダに飛び掛かりくすぐりをお見舞いする夜々。
しかし不感症だというマチルダに効果は無く、どころかカウンターを食らってケラケラと笑い始めた。
お姉ちゃん可愛い。
「しかし面白い話を聞けました。これは弟子に感謝しないといけませんね」
解放された夜々がベッドに座り直す。
「そういえば二人はなにしてたの?」
「パトロールです。街の平和を守る為、あるいは脅かすため、日々足で情報を稼いでいるんですよ」
「ねー」と温度差はあるものの声を揃え、虎南とマチルダはハイタッチ。
気安いやり取りを交わせるくらいマチルダと仲を深めた虎南だった。
そんな関係なので、せっかく近くに来たのだからと家に連れ込み、結果として現在の状況が出来上がったのだ。
「部屋に入るのはいいけど、びっくりするから隠れるのは今後なしね」夜々が言う。
「どの口が」
「よくぞ気付いたね。撤回しよう」
「いえ失礼。悪かったと思ってますごめんなさい。それで話を戻しますが、ジミヘンさんにキスされたと」
「……あう」
途端にしおれる夜々を見て、マチルダは口元をサディスティックに彩った。
「おめでとうございます、両想いですね。さっさと付き合っちゃえよひゅーひゅー」
「うう……」
「今の距離感を楽しみたい気持ちも理解できますが――ああ、そういうことですか。ピンときました。ピントが合いました」
耳元の髪を束にして握る夜々に、マチルダは指で作った笑顔を向けて。
朗々と。
「ジミヘンさんから告白して欲しいんですね」
「…………」
「他にも色々な事情はあるかと思いますが、一絡げにすればそういうことでしょう」
言いながら腰を上げたマチルダは夜々の前に立つと、手を夜々の腋の下へ差し込み抱き上げた。
強制的に起立させられた夜々は、くすぐったそうにはにかんだ。
「様子を見るにキスをされてそれほど時間は空いていませんね? 何をのこのこ帰って来てるんですか」
「そ、それは……憂くんバイトだったし」
「待っていればいいでしょう。二人きりになれば更なる進展間違いなし」
「かもしれないけどさ、その……朝からずっとお預けされてたし? これ以上待ってたら身体がバラバラになりそうだったんだよ」
口元を綻ばせる夜々。
マチルダは「へいへい」と返して。
「惚気話なら本人の前で垂れ流してください。ほら、さっさとジミヘンさんの所へ戻りますよ。どうせ働いてる姿を見てるのも好きとか言うでしょうあなたは」
「な、なにを言っているのだね」
「わたしも賛成! お姉ちゃん、ほんとは行きたいんでしょ」
マチルダに腕を引っ張られ、虎南に背を押され。
夜々は力の抜けた形ばかりの抵抗をしつつ、部屋の出入口へ向かう。
「いいのかなー……一回帰っちゃったし、変な子って思われるかも」
「もう遅いので気にしない気にしない」
〇
いよいよ足が言うことを聞かなくなってきたわ、と三耶子が逆境で笑った。
それは他ならぬ葉火の影響だった。
前を行く葉火の背中を見ていると、まだまだ私は走れるぞと気力が湧いてくる。
「しつこいわね。流石はうちの家政婦さんだわ」
後方を顧みる葉火もまた、笑っていた。
困難が面白くて仕方ないといった顔で。
そんな表情を見てしまったら、友達の私が簡単に音を上げるわけにはいかないわ。三耶子は一層気を引き締めた。
「三耶子、あんたまきびしとか携帯してないの?」
「ない……」
「持ってたら驚きよ。それじゃ、とりあえず――」
葉火は肩に提げていたバッグを外し、持ち手をぎゅっと握りしめ、振りかぶり。
投げつけようとして――すんでのところで思い留まった。
「――っと、危ない。憂から貰ったお菓子がぐちゃぐちゃになるとこだったわ。冗談じゃない」
代わりに――空いている手でスマホを取り出し、迫る巳舌さんへ向かって放り投げた。下手投げで放たれたそれは、山なりの軌道を描き落下していく。
投擲されたのがスマホだと気付いた巳舌さんが「バカ娘!」と慌てながらも、冷静に着地点を見極め滑り込む。
「ナイスキャッチ」
葉火は三耶子の手を引き、前を向いたまま巳舌さんへ賛辞を送る。
そして少し走った先で、停車している車の後部座席へ三耶子を押し込んだ。
葉火も乗り込みドアを閉めると、車は速やかに発進した。
かくして、鬼ごっこはひとまずの決着を迎えた。
「みやこ、よーか! 迎えに来たよ!」
葉火と逆の窓際から楽しげな声をあげる氷佳。
「ありがと氷佳。渦乃も。助かったわ」
「頼ってくれて嬉しい」
運転席の渦乃も嬉々として言う。
三耶子は氷佳の手を握り、呼吸を落ち着かせながら、どういうことかと目顔で葉火に問いかける。
「さっき渦乃に連絡したのよ。氷佳にも会いたかったし」
葉火からカップケーキを受け取った氷佳が大喜びではしゃぎはじめる。
「渦乃の分もあるわよ」
「ありがとう。押し花にするね」
「憂って間違いなく渦乃に似たわよね」
それは間違いない、と三耶子は首肯した。
「丁度お父さんを迎えに行こうと思ってた。そうだ、せっかくだからドライブする?」
「あたし高速道路に行ってみたいわ。未知のアトラクションなのよね」
「うん、いいよ。ついでに晩御飯も食べる? 海の方で」
「行きましょうよ! あたしが奢ってあげる!」
子供のようにはしゃぐ葉火。
あたしにも運転させなさい、なんて言いながら。
もしかすると葉火はこんな風に、家族で、車に乗って出かけることに憧れていたのかもしれない。
前に聞いた葉火の身の上話を思い出して、三耶子はそう思った。
だったら止めるつもりはないし。
それを抜きにしても、一も二もなく諸手を挙げて賛同する。
「憂には悪いけど、晩御飯は自分で用意してもらわないと。お土産で許してくれるかな」
「氷佳もいっぱいあやまる。うめあわせもする。兄ちゃに連絡するね」
と、氷佳が渦乃のバッグからスマホを取り出そうとするのを、葉火が手を伸ばして阻止した。
「待ちなさい氷佳。あたしに考えがあるわ」
言って葉火は悪だくみをするような笑みを湛え、視線を三耶子へ移す。
「新進気鋭の料理人を知ってるのよ。ね、三耶子」
「ふふふ。そういうこと」
聞き返す必要も無く、その料理人が誰なのかすぐに思い至った。
三耶子は笑い返して。
ポケットから自分のスマホを取り出した。
〇
アルバイトを終えた憂は、氷佳の大好きなチーズケーキを買って店を出た。
左右を見て、物陰を覗く。残念ながらと言うべきか、夜々は潜んでいなかった。
約三時間前、お返しをしてから。
しばらく夜々は店に居て、アップルジュースをちゅーちゅー啜ったり、伸びをしたり視線を遊泳させたり、たまに目が合うと溶け落ちそうな笑顔を見せたと思えば照れ始めたり――
終始とにかく落ち着きがなく、三十分程経った頃、店を飛び出して行った。
当たり前だが、家に帰ったらしい。
待っていてくれるかも、なんて思ってしまった自分がとにかく恥ずかしかった。
できれば感想を聞きたかった――我ながら大胆なことをしたものだ。
口の先に、柔らかな頬の感触が蘇り。
憂は人目も憚らず頭を左右に振った。
数メートルおきに奇行を発動しながらも、なんとか自宅へ到着する。
平常心。
氷佳はともかく両親に悟られると何を言われるか分かったものじゃないので、憂は左手で頬を張り、痛みを以って取り繕う。
むしろ夜々が帰宅したのは幸運だったのかもしれない。
流石にこれだけ時間が空けば、理性が使い物になる――
「ただいま」
と、ドアを開けながら家族へ呼びかける憂を迎えたのは。
「おかえりっ!」
リビングからぴょこりと飛び出してきた――
エプロン姿の、夜々だった。
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