ちゅ!
氷佳と一緒に丸一日掛けてお返しの品を選び抜き、迎えたホワイトデー。
3月14日、月曜日。
愛する妹に揺り起こされた憂は、幸せな気持ちに包まれながら支度を済ませ、忘れ物が無いかどうか氷佳と何度も指差し確認をして、家を出た。
いつもと変わらない道のりを、いつものように歩く。
けれど今日は、サイズが合っているはずの靴がやけに脱げそうになった。
マチルダに出くわすといったイベントが発生することもなく学校に到着する。
上履きに履き替え、教室を目指し歩き出した矢先に。
落ち着いたトーンでの挨拶が投げかけられると同時、背中を小突かれた。
「おはよ、憂」
葉火が隣に並んで欠伸をする。
そして「聞いたわよ」とどこか拗ねた風で前置いた。
「この間、虎南と遊んでたそうじゃないの。あたしも混ぜなさいよ」
「そうしたかったけど、あの日はほら、僕と葉火ちゃんの夢が叶った日だから」
「だったら仕方ないわね」
得心がいった、という顔で葉火は快活に笑む。
憂と葉火の夢。
それは人に話すと笑われるようなものだった。
これまで友人がいなかった二人にとって、そして同年代の誰かと同じ場所で働くなど夢にも思っていなかった二人にとって、「今日シフト変わって!」というやり取りは、夢とも呼べる憧れだったのだ。
虎南と中学校で遊んだあの日、憂と葉火は夢を叶えるためにシフトを交代したのである。
「それで、今日がなんの日か分かってるわよね」
「氷佳?」
「寝ぼけてなくて安心したわ」
そこで二人は同時に立ち止まる。
「分かってるよ」
答えながらバッグへと視線を転じ、中に手を入れて箱の一つを掴む。
それを引き出して葉火へ差し出す――と、同時。
葉火もまた、何かをこちらへ突き出してきた。
透明な袋の口を閉じているリボンを上から掴み、討ち取った首を誇るかのように憂の眼前へ押し付けられたそれは、距離を取ってよく見てみると、カップケーキだと分かった。
「……これは?」
訊きながら受け取ると、葉火も憂の手から箱を引き取った。
「作ってみたの。あんたにあげるわ」
「ありがとう。一応聞くけど、葉火ちゃんは今日がなんの日か分かってる?」
「氷佳?」
「かわいいだいすき」
「ホワイトデーでしょ。分かってるに決まってるじゃない、結構楽しみにしてたんだから」
丁寧に箱の包装を解いていく葉火。
時々こういう品の良さが出るよな、と憂は思った。おばあさまの躾の賜物だろう。
「思い出してみたらあんたにあげたチョコ、半分くらいあたしが食べてたでしょ。だから、その補填よ。始まりは」
包装紙を折り畳み箱を開けた葉火は、中身を取り出して宙に翳し、ぱあっと顔中を華やがせる。
「バウムクーヘンじゃないの! しかもこれ、いいとこのでしょ」
「良かった。文化祭でメニューにねじ込むくらいだし、外さない自信はあった」
「あたしのこと、しっかり理解してるじゃない」
喜んでもらえる自信はあったし、なんだったら想像までできたが、こうして目の前にすると現実はもっと華やかだった。
葉火が袋に包まれた大きなバウムクーヘンの穴から憂を覗くようにする。そのまま横へずらし、顔の横で止めて。
「似合ってるでしょ」と、顔に自信家な色付けをして言う。
「すごく。僕の想像を遥かに超えてきた」
「当たり前じゃない。あたしを誰だと思ってんのよ」
威張る葉火から写真を撮るよう求められたので、しばしその場で撮影会をして。
再び廊下を歩き、それぞれの教室へ向かうべく別れようとした、その際で。
憂はバッグから赤の袋を取り出し、葉火に手渡した。
「あんたのバッグすごいわね。ドラえもんみたいじゃない」
「必要な用具は先週の内に運び込んである。今日はキミらのドラえもんだ。それはいいとして、これは氷佳から。中身は僕も知らないけど、ぞんざいに扱ったら一生耳元ですすり泣く」
「おバカね。あんたが嫉妬するくらい大切にしてやるわ。ありがと」
葉火は呆れた風で、それでいて嬉しそうに微笑んだ。
早速開封するかと思われたが、しかし「あんたには見せてやらないわ」と袋をバッグに仕舞い、ひらひらと手を揺らしながら、高笑いを響かせながら葉火は去って行った。
残念。
レディにはナイショが必要、と氷佳が中身を教えてくれなかったため気になっていたのだが――そこで憂は首を振る。
仮にこの場で葉火が開封しようとしても、兄として、止めなければならない。
でなければ氷佳の立派な志を汚すことになってしまう。
あとで葉火にも口止めをしなければ。
かくして兄としてのステップアップを果たした憂は、力強い足取りで七組へ向かった。
〇
教室に入ると自席で伸びをする三耶子の後姿が目に入った。
だから憂は一度退室して、前方、教壇側から入り直し、正面から三耶子へ歩み寄る。
「おはよう三耶子さん。もう来てたんだ」
「おはよう憂くん。来ちゃった」
「学生のお手本だね――ごめん、撤回させて」
「どうしてよ!」
三耶子が睡眠を取らないことで日曜日を翌日まで引き延ばすタイプだと思い出したからである。多分、昨日から寝ていない。
微笑みながら三耶子を横切り、自席へ向かう――フリをして。
長方形の箱を取り出しつつ反転すると、同じタイミングで三耶子も振り返り、
「そうくると思ってたわ」なんて無邪気に笑った。
「残念、バレてたか。三耶子さんには敵わないよ」
「今日は氷佳ちゃんに起こされたみたいね」
「だからどうして分かるの?」
「三耶子ちゃんの勘、略して
麻雀の役だった。
先週末も一緒に遊んだ。
「次は僕が勝つとして。どうぞ、貰って欲しいな。まさか中身まで言い当てられたりしないよね」
「わあ、ありがとう。流石にそんな無粋な真似はしないわよ。失礼しちゃうわ」
と、既に見通しているような言い方をして、三耶子は受け取った箱を笑顔で抱きしめた。
開けてみてもいいかと問われたので、勿論と頷く。
包装紙に指を掛けた三耶子は勢い余って破ってしまい、慌てて弁明しながら残りは綺麗に剥がしてみせた。次いで蓋を開け、はしゃぐような声を漏らして憂を見上げる。
「マカロンね! ふふふ、すごく嬉しい。今まで隠していたけれど、実は私の好物なの」
「ふふん、お見通しってやつだよ。喜んでもらえて良かった。色とりどりで綺麗だし、三耶子さんにぴったりだねって氷佳と盛り上がったんだ」
理由としては「似合うから」というのが一番だが、もう一つ。
麻雀で遊んだ際に三耶子が放つ「ロン!」のバリエーション豊かさが好きだから、というのもある。
「全然変じゃないと思うんだけど、どうして隠してたの?」
「マカロン食べながらゲームするのって、気取ってるみたいで嫌じゃない」
「葉火ちゃんみたいな偏見を!」
「冗談よ。ありがとう憂くん。私のパジャマのボタンにするわね」
「寝ぼけて食べないよう気を付けて。虫歯になったら大変だ」
冗談を飛ばし合いながら、次に氷佳からの贈り物、水色の袋を三耶子へ渡す。
これは家に帰ってから開けて欲しいこと、中身が何か極力憂の耳に入らないようにしてもらいたい旨を言い含め、了承を得た。
それから二人で、義理チョコを配布してくれた女子生徒達へのお返しであるお菓子を設置していると。
登校してきた杜波さんが、憂と三耶子の傍で足を止めた。
「なんだお前ら。世界の真ん中みたいな顔して」
「
「私を名前で呼ぶなと言ったろ。嫌いなんだ、その響きが」
素っ気なく言いながら手で払う仕草をする杜波さん。
けれどその程度で止まる三耶子ではなかった。
「私は、好きよ。彼氏にぞっこんな藍ちゃんにぴったりの音じゃない」
「経験として付き合ってるだけだ」
「なによ。恋人繋ぎしたって嬉しそうに自慢してきたくせに」
「な、お、お前っ、なに言ってるこのバカ! ちょっとこっち来い!」
たったの一撃で外装を粉々にされた杜波さんは、狼狽のままに三耶子の頭をはたきながら教室の外へ連れ出そうとする。
揉み合う二人は仲良しにしか見えなかったが、一応のポーズとして、憂は仲裁すべく間に割って入った。
「まあまあ。これでも食べて落ち着いてよ杜波さん」
そう言ってオレオを一袋与えると、杜波さんはすっかり機嫌を直してくれた。
――怒った杜波さんには麻酔銃よりオレオの方が効果がある。
かつて三耶子から授かったライフハックが、期せずして炸裂した瞬間だった。
〇
一限目の授業を終えてすぐのことである。
なにやら視線を感じた憂が教室の入口を見遣ると、そこには顔を半分出してじーっとこちらを見る夜々の姿があった。
愉快な光景に笑いそうになりながら、席を立つ。
バッグから包みを一つ取り出し、背後に隠して夜々へ近寄る。
「いらっしゃい夜々ちゃん。昼休みに訪ねるつもりだったけど、せっかく来てもらったから、今いいかな?」
「うむ。私の時間は憂くんのものだよ」
抱きしめてやろうか、人目をはばからず。
早速仕掛けてきた夜々と共に、教室から少し離れた位置の窓際で向かい合う。
そして互いに微笑んで。
憂は右手で頬を掻き、一度視線を逸らして――おずおずと、左手に持った袋を差し出した。
「これ、虎南ちゃんに」
受け取った夜々は、透明なビニールに包まれた塊を見て首を傾げ、顔を寄せて凝視する。
「これは一体……? 南の島からきた豆腐?」
「キャラメルを溶かし続けて固めた物。地道に舐め溶かして欲しいって伝えて欲しい」
虎南にはボム兵のようなチョコの塊を貰ったので、こちらもインパクトを重視したキャラメルの塊を用意させてもらった。
買物中に氷佳がキャラメルを欲しがったので、虎南にもぴったりだと購入して作り上げた一品である。
「ありがと。虎南すっごく喜ぶよ。憂くんに懐いてるし」
「ありがたい。それじゃ、僕戻るよ。さらばぼうる!」
軽快な動きで踵を返すと、夜々に腕を掴まれた。
振り返ってみると、空いている左手で自身の顔を指す夜々が、笑顔を浮かべている。続けて「ん!」と弾んだ音。
憂が向き直ると夜々は手を離し、そのまま左手と同じ形を作って更に口角を上げた。
そんな期待に満ちた顔をされてしまったら、小賢しい駆け引きなど一息に吹き飛ばされてしまう。
憂は微笑を以って夜々の正面突破に降参の意思を示した。
「夜々さんみたいに焦らしたかったんだけど、無理そうだ。ねえ、今日の放課後空いてる? 一緒に帰ろうよ」
「うん、いいよ!」
「バイトがあるから、その――」
「じゃあ今日は遊び行っちゃおっかな!」
それじゃお返しはその時に、と憂が告げると夜々は元気よく返事をして身を翻した。
そのまま走り去ろうとする夜々の腕を掴んで引き止めると、こちらを向いて不思議そうに首を傾げた。
「どうしたの?」
「ごめん。特に意味は無いんだよね。本当に、なんとなく」
「えー、なにそれー」
くすぐったそうに笑った夜々の手を離し、今度こそお別れをして。
それから。
脱衣麻雀に乗り気な三耶子に一人では着脱不可能な宇宙服を着せるべく杜波さん達と結託したり、虹村と二人でマチルダに返礼ゴシップを届けたり、突如として行方不明になった九々雲を捜索したりと愉しく過ごしているうち、あっという間に放課後がやって来た。
急いで正門前へ向かうと、既に待っていた夜々がこちらに気付き両手を振る。
駆け足で距離を詰め、憂は言った。
「お待たせ。夜々さんも葉火ちゃんも、どうしてこんなに早いの? 僕の最速がまるで児戯だ」
「私も葉火ちゃんも足速いからね! 持久力にも自信あり!」
雑談しつつ、二人は憂のバイト先へ向けて歩き出した。
ひと月前と比べて日が高く、夜との隙間はまだ広い。
隣で肩を揺らす夜々を見る。視線に気付いた夜々からふにゃりとした笑みを返された。
「憂くんは、葉火ちゃんから貰ったカップケーキもう食べた?」
「まだ。氷佳と半分こしようと思ってて」
「氷佳ちゃんに渡しに行くって言ってたよ。虎南にも」
「じゃあ氷佳と半分ずつ分け合えば完璧だ」
「私もそうしよっと」
波長の合う妹自慢をしながら、ゆっくりと進む。
止まりはしないけれど、止まっていないだけ。
到着を優先すべきなのは分かっているが、こうしてのんびり並び歩く心地良さはなかなか手放しがたい。
そんな風に先延ばす憂の右手に、夜々の左手がぶつかった。
二度、三度と繰り返して夜々が言う。
「……そろそろよろしいかしら? いくら私が辛抱強いからって、あんまりお預けされるとさ。なにかが起きてしまうかも」
「なにか?」
「プロポーズで泣いちゃった話をする。もしもの時はこの話を語り聞かせなさいって」
「やめて! やめてください!」
誰の、とは聞かなかった。
本当に妹とそっくりなお姉ちゃんである。
憂は咳払いで強引に仕切り直した。
「渡したいのは山々なんだけど、お店まで待ってもらえないかな。歩きながらだと渡しづらいからさ」
「わかった!」
と、被せ気味に返事をした夜々が突然走り出す。
そして首だけ振り返り、屈託のない笑みを憂へ向けて。
「こうしてしまえば万事解決! 人間バンジー再降下うわー!」
正しくは、人間万事塞翁が馬……だと思われる。
意味の方は関係なく、語感で選出したのだろう。
物騒な発言を残した夜々は、正面を向きとっとこ走って行く。
浮かれている。
待ちきれないと全身で語っている。
それがとても嬉しくて、憂も走って夜々を追いかけた――が、足が速く持久力もある夜々を捕まえることは叶わず、追いつくのと店に到着するのは同時だった。
「私の勝ちー」
腰に手を当て威張るように胸を張る夜々。
憂は息を整えながら、拍手を送りつつ負け惜しみ。
「いや、トータルで僕の勝ちだね。一緒にいる時、夜々さんが喜んでると自動的に僕の勝ちになる。そういう風に決まってるんだ」
「じゃあ私は一生憂くんに勝てないね」
からかうように言って、夜々が入店する。
続いて中に入ると、相も変わらず飽きもせず、店内に客の姿は無かった。景観を守りすぎ。
けれど今日に限っては幸いだ、と憂は安堵した。
先に夜々を席へ案内して、暇そうにラジオを聞く髭親父に挨拶を投げながら、奥へ奥へと押し込んでいく。
そうして事務室でいくつか言葉を交わし、頭を下げて。
店の冷蔵庫から取り出した箱をバッグに入れたのち、夜々のもとへ。
夜々は馴染みのテーブル席に姿勢正しく座っていた。
憂はその対面――ではなく。
「スティンザー効果って言うんだって」
隣に腰を下ろし、努めて冷静にそう言った。
「虎南が毎回話してくれるから覚えちゃった」
夜々は笑いながら憂との間にあるバッグを窓際へ移すと、スペースに余裕はあるはずなのに、さながらロケット鉛筆の如く憂の方へと距離を詰めた。
そして両手を組み合わせ祈るような形で、前のめり。
早く早くと言外に促してくる。
これ以上勿体ぶる理由はないので、憂はバッグからお返しの品を取り出し、テーブルに置いた。
「お納めください」
という憂の言葉を合図に、夜々は感謝を繰り返しながら器用に包装を剥き取り、箱を開けた。
中に入っているのは、棒の刺さった真っ赤な球体。
三本の、りんご飴。
「ひゃーっ、かわいー! え、ほんとに貰っていいの?! ありゅっ――」
歓喜のあまり噛んでしまった夜々のリアクションに大満足の憂は、誇らしげに深く頷いた。
――良かった。
喜んでくれたことは勿論として、正直ヒヤヒヤしていたのだ。
冷蔵しなければならない性質上、なんとか悟られないように夜々をこの店まで連れて来なければならなかった。
彼女のあざとさに何度屈しかけたことか――なにはともあれ、無事に喜んでもらえて良かった。
「……ちなみにこれは、憂くんセレクト、だよね?」
じーっと飴を見つめたままで夜々は言う。
「うん。氷佳のアドバイスはあったけど、最終決定は全部僕。りんご飴、夜々さんっぽいなーと思って」
加えて、以前風邪を引いた夜々にりんごを剥いたのを思い出した、というのもあるけれど、口にはしなかった。
「日持ちしないから早めに食べてもらわないといけない点は、ごめん」
「どーして謝るの。私の喜びに水を差されては困る! 笑って!」
お手本を示すように夜々は笑って。
箱を抱きかかえて憂に寄り添い、くてん、と肩に頭を預けた。
「ありがと、憂くん」
このあざとさにもすっかり慣れたものだ――というのは真っ赤な嘘で、憂は身体を強張らせた。
こうしていたい気持ちもあるが、うかうかしていると時間切れになってしまう。
自覚できる程ぎこちない動きでバッグへ手を突っ込み、薄黄色の袋を取り出し、テーブルに乗せる。
「こっちは氷佳から。家に帰って開けて欲しい。中身は僕に秘密ということで、よろしく」
「わっ、氷佳ちゃんからも! ありがと! いよいよ私もらい過ぎかも」
頭を離した夜々が箱をテーブルに置き、袋を手に取りしげしげと眺め、抱きしめた。
それから開けるフリをして憂をからかったのち、バッグに保管して、憂を向く。
「ありがとう。嬉しくてたまんない。こんなに準備してくれたのに、急かしちゃってごめんね。その……我慢するのが大変なタイプの楽しみで」
手を擦り合わせながら、恥じらい交じりに微笑んで。
ピリオド代わりに「はしたなぶるでした」と添えた。
そんな夜々に「おあいこだね」と笑い返し、憂は店内を見回す。
視界の限りに人の姿は無い。髭親父には事務室で待機してもらっている。
よし。
「実はまだあるんだ」
精一杯澄まして。
緊張を隠して。
夜々の目を見て――憂は言った。
「嬉しいけど、これ以上はもらえないよ」
両の手の平を憂に向け、遠慮を示す夜々。
そんな夜々の左手を、憂は右手で握り――
「目、閉じてもらえる?」
と、お願いをする。
夜々は目を皿のようにしたが、しかしすぐに、ぎゅっと瞼をおろしてくれた。次いでわずかに顎を上げ、手を握り返してくる。
そうしてこれからを委ねてくれた夜々の。
赤らんだ頬を見つめて。
見惚れて。
憂は意を決して顔を寄せ――鼻先が触れ合う距離まで近付いたところで、動きを止めた。
そして。
元の体勢に戻りつつ、左手で夜々の額をつっついた。
「あう」と夜々の目が開く。
いたずらっぽく笑う憂に対し、何が起こったか分からないといった様子の夜々。
しかしすぐに理解したようで、むぅと唇を尖らせ不満をぷくりと頬に溜め込んだ。
ぷんすこぷんすこ、といった感じ。
「やってくれたね憂くん! そっちがその気なら私にも考えが――」
と、言い募る夜々の。
赤く染まった右頬に。
不意打ちで、優しく――したつもりが勢い余ってちょっと強めに。
くちびるを当てた。
キスを、した。
どれくらい経ったか。
きっと一秒かそこらなのだろうけれど――
上手くできているのかなんて分からないまま。
柔らかな夜々の頬から流れ込んでくる熱を感じて、ゆっくりと離れる。
元の位置へ顔を戻すと、驚きのあまり固まってしまった夜々の姿が視界を占めた。口をあんぐりと開けている。
こんな時どんな顔をすればいいのか分からない憂は、夜々から逃がした視線を宙に彷徨わせた。
それから小さく頭を振って。
俯き、顔を上げ。
未だ硬直の解けない夜々に向けて、笑いかけた。
すると夜々の表情に動きが戻ったが、口元の制御が効かないのか口を開けてはぎゅっと結びを繰り返している。
やがて口元をふにゃりと緩め。
飛んでいくのを無理やり抑え込んでいるような、明るい表情に合わない落ち着いたトーンで言った。
「い、いまのは?」
それに対し憂は席を立ちながら回答する。
「お返し」
夜々は手を離そうとしない。どころか一層強く握ってくる。
非常に心苦しいが――
「ごめん。そろそろバイトだからさ。名残惜しいけど」
「あ、あーね! そうだよね、お店に迷惑掛かっちゃうね!」
手を離した夜々はそわそわと落ち着かない。
憂も平静を装ってはいるが仮初に過ぎず、思考が全然まとまらなかった。
頭の中は夜々で一杯だ。
なんとか気持ちを切り替える――ではなく、業務を全うできるだけの正気を織り交ぜるべく、オーダーを取ることにする。労働の息吹を感じるのだ。
「注文、先に聞くよ。今日は僕がご馳走する」
そう言うと。
夜々は上目遣いでおずおずと、左手の人差し指を立てながら、注文する。
「も、もうひとつ」
もうひとつ。
――それはつまり、そういうことだった。
だから憂はオーダーを受けて。
虎南への宣言通り、倍で返した。
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