姉倉氷佳の放課後はしたなぶる
今日もたくさん楽しかったな。
そんな風に一日をまとめながら、氷佳は教室を後にした。
姉倉氷佳、八歳。
お兄ちゃんが大好きな女の子。
他にもお父さんやお母さん、暁東、灯台娘や学校の友達、ケーキにグミなどなど――たくさんの好きな人や物に囲まれて生きる小学二年生。
教室で上履きにさよならをして、ランドセルの背負い紐を握りしめ、足取り軽く学校の敷地を出ると――そこで。
そこには。
フェンスにもたれかかって空を見上げる制服姿の高校生がいた。
兄の友達であり、そして氷佳のお姉ちゃんとなる存在だ。
「よよー!」
どうやら今日という日はまだ伸びしろを残していたらしい。
氷佳は目をキラッキラに輝かせて夜々へ駆け寄り飛びつくと、お腹のあたりに顔を埋める。
そのままわずかに顔を上げて。
くすぐったそうに笑う夜々と目を合わせた。
「氷佳に会いに来てくれた?」
「うむ。氷佳ちゃんに会いたくて来ちゃった」
夜々が優しく頭を撫でてくれる。
たっぷり三十秒ほど味わい、惜しみつつも分離して。夜々にしゃがんでもらって高さを調整し、今度は氷佳が頭を撫でてあげた。
そうして手の平に夜々を馴染ませながら。
夜々が知りたがっているであろう暁東の行方を口にした。
「あきとくんは、クラブ活動だよ。四年生だから」
「あ、そうなんだ。たまには一緒に帰ろうと思ったんだけど、そっかそっか。じゃあ今日は私が氷佳ちゃんを独り占めだ」
と、柔らかく微笑み立ち上がった夜々が、右手で氷佳の左手を握る。
「帰ろっか、家まで送るね。私に氷佳ちゃんの護衛を務めさせてちょーだい」
「ありがとう。いざという時は、氷佳が夜々を守るね」
「ありがと。でも安心して、実は私強いんだよ。葉火ちゃんに勝ったことあるんだから」
「ドラえもんが未来に帰っちゃったの?」
「勇気でじゃないからね!?」
この例えだと葉火をジャイアン扱いすることになるので、失敗だった。氷佳は葉火が居そうな方向に頭を下げて謝った。
「とにかく、氷佳ちゃんは私が守るよ」
「よよ、かっこいい……! あきとくんみたい!」
そして二人は手を繋いで仲睦まじく、姉倉家を目指し歩き始めた。
氷佳の小さな歩幅に合わせ、急ぐことなくゆっくりと。
だからたくさん、話ができる。
「兄ちゃ達は一緒じゃないの?」
「憂くんと三耶子ちゃんはクラスのみんなとボウリング大会。葉火ちゃんはアルバイト――あ、そうだ。一緒に葉火ちゃんのとこ遊びに行く?」
夜々の提案に再び目を輝かせ、「行く!」と元気に返事をしかけた氷佳だったが、思い直し、首を横に振る。
「ごめんねよよ。氷佳はいま節約中だから」
「節約?」
「うん。おこづかいを溜めてるの。お菓子いっぱい買う。そしてね、よよとみやことよーかをお泊りに誘うんだ」
「ひゃーかーわいー! ありがと氷佳ちゃん、楽しみにしてる! いつでも呼んでくれたまえ!」
この計画には母も全面協力してくれていて、毎日のお手伝いを頑張ることと引き換えにお小遣いを増やしてくれた。それを愛用の猫型貯金箱に蓄えながら、来たるお泊り会へ思いを馳せているのだ。
じき目標額へ達するため、春休みあたりに誘おうかと考えているが――それはそれとして。
いいことを思いついちゃった。
氷佳は母譲りの押しの強さからくる発想を、確かな現実にしてみせるぞと決意した。
「それじゃ、今日は私にご馳走させてよ。葉火ちゃんも喜ぶしさ。お姉ちゃんに任せなさい!」
「氷佳ね、この前あきとくんとチューしちゃった」
「うぇっ!? ちゅ、ちゅーって!? ベーゼのこと!? ベーゼルワイス!?」
頼りがいのあるお姉ちゃんは急な話題転換によって置き去りにされてしまったようで、一転してひゃーひゃー騒ぎ始める夜々。
「ほっぺたにだけど」と、氷佳。
「あ、あーね。ほっぺね。ほっぺ……」
「どうしたの?」
「……なんでもないよ。気にしないで」
ぶんぶんと左右に頭を振る夜々を見て、感情豊かなこの人がお姉ちゃんで嬉しいな、と氷佳は思った。
やがて平静を取り戻したらしい夜々が、柔和な声で言う。
「このことは憂くんに絶対言っちゃダメだよ」
「うん。氷佳はレディだから、ナイショとハンカチはにくじゅばん」
「肉襦袢?」
「まちがえた。ひつじゅひん」
「氷佳ちゃんどこから言葉を仕入れてるのかな!? 強引な人と見た!」
レディな氷佳は右手の人差し指を立てて口の前へ持っていく。
内緒という意思を示したのち、仕切り直し。
「よよはある? ちゅーしたこと」
「うぇっ!? え、えーっと……あるかないかで言ったらアルカナムって言うか……もにょもにょ」
「もにょもにょ!」
夜々が繰り出した言葉尻を濁すための苦し紛れが可愛くて、氷佳は笑った。
氷佳の反応を受けて進むべき方向が定まったらしく、夜々は擬音を巧みに操り始め、二人の帰り道は陽気な音で満たされていった。
そうしている内に、到着。
あっという間に着いてしまった。
名残惜しいがここでお別れ――という展開を、姉倉氷佳は許さない。
「よよ。ここで遊んでいこ」
と、母譲りの強引さを発揮して。
離れようとする夜々の手を渾身の力で握りしめ、ついには両手で引っ張り始める。
夜々は初めこそ呆気に取られていたが、すぐに頬を緩め始め、笑ってしまうのと同時に「お邪魔しちゃいます」と回答した。
夜々の気が変わっては大変なので、急いでドアを開けて中へ入る。
「ただいま! おかーさん、よよが来たよ!」
「おかえり、氷佳。夜々ちゃん」
母がリビングから顔を出すまでおよそ一秒。
あまりの早さに驚いたのだろう、夜々は慌てて会釈をした。
「お邪魔します、渦乃さん」
「ただいま、でいいよ。憂は一緒じゃないんだね」
「今日は氷佳のお嫁さん」
威張るように言って、氷佳は靴を脱ぎお行儀よく端へ並べ直す。夜々も同じようにして、それからリビングへ荷物を置き、一緒に手洗いうがいを済ませ、氷佳の部屋へ。
と、思わせて。
部屋の前で立ち止まった氷佳は、困った顔で済まなそうに言った。
「忘れてた。氷佳の部屋、いま工事中。困った」
「工事? 模様替えとか? 私も手伝うよ。こう見えて結構力持ちだからね」
「よよはお客様。だから兄ちゃの部屋行こ」
客人の手を煩わせるわけにはいかない、ということで丁重にお断りさせていただき、夜々には兄の部屋で寛いでもらうことにする。
「ゆ、憂くんの部屋に? それはちょっと、ほら、勝手に入るのは……」
「平気。氷佳はね、兄ちゃの嫌がることはしないよ。それとも、いや?」
「ううん、嫌じゃないよ全然! むしろ入りた――むしろ針、針の筵ってどういう意味だったっけなー!」
針の筵がなんなのか氷佳には分からなかったが、むしろ入りたい的なことを言いかけてたっぽいし、それを誤魔化そうとしたことまで子どもながらに理解できたので、安心して連れ込める。
同意を得たので憂の部屋へ。
ドアを開けて堂々と踏み込む氷佳、遅れて遠慮がちに夜々。
「し、失礼します……ごめんね憂くん」
言いながら夜々は部屋の中央あたりに置かれた小さめのテーブル、その脇に腰を下ろす。
「ジュース持ってくるね。ゆっくりしてて」
と告げて氷佳は部屋を出た――ドアを閉め切らずに。
リビングへ行きジュースを注いだグラスを二つトレーに乗せて、引き返す。
足音を立てないようにそーっと近付き、ドアの隙間から中を覗き込む。
夜々は最初に座った位置から動いていないが、動作自体は慌ただしく、正座をして落ち着きなく室内を見回していた。
なにか見つけてしまったのだろうか、顔がほんのり赤らんでいる。
よよかわいい。
氷佳は勢いよくドアを開け放ち部屋へ踏み込んだ。
「おまたせ。よよ、どうしたの?」
「んー? どうもしないよ。おかえり」
氷佳の姿を見るや一瞬で落ち着きを取り戻し、何事もなかったかのように微笑む夜々。
さすがは高校生。
テーブルにグラスを置き、夜々の左側に座って寄りかかる。
よし、早速仕掛けてみるとしよう。
部屋に連れ込んだだけで終わる程、氷佳は慎み深くなかった。
「氷佳ね、ちょっと眠い。一緒にお昼寝する?」
「私が膝枕してあげよう」
欲求に素直な氷佳はこの申し出に関しては迷わなかった。
即座に寝転び、夜々の太腿に頭を乗せる。
しかし一撫でされるとすぐさま立ち上がり。
「ベッドにしよ。そしたら夜々も寝れるね」
「うぇっ!? と!」
ベッドを指さす氷佳と、大袈裟な身振り手振りで辞退する夜々。
追撃。
「ダメ……?」
「さ、流石にね。人様のベッドで寝るなんて――ほら、私、制服だし。汚れちゃうでしょ?」
氷佳は部屋を飛び出しリビングへ行き、母を説得してパジャマ一式を受け取り、夜々のもとへ。
「かいけつ。おかーさんのパジャマ借りてきた。新しいよ」
母から譲り受けた紺色のパジャマを差し出しながら、氷佳は言う。
シルク素材で肌に優しく着心地抜群。
まるで最初から用意していたかのような手際の良さが気になるのだろう、夜々は困惑しきりである。
「あ、ありがたいけど……か、髪の毛とか。今日体育あったし」
「じゃあお風呂だね」
怒涛の展開に目を見開いて驚愕を露わにするお姉ちゃん。
口をぱくぱく開閉させ、上手く言葉を送り出せないといった様子。
「兄ちゃもお父さんもいないから大丈夫だよ」
「そ、そういう問題じゃなくてね……?」
「ダメ?」
「うう……そんな愛くるしい眼で見ないで……」
眩しそうに顔を背け、下唇を噛んでいる。
あと一押し。このまま押して押して押し切ろう――と、そこで突然。
なんの前触れもなく、冷静さが戻ってきた。
――いけない、あまり無理強いするとお兄ちゃんに迷惑が掛かるかもしれない。
自分のせいで夜々に距離を置かれるような事態になってしまったらどうしよう。
さっきまでの全能感が、見る見るうちにしぼんでいく。
「……ごめんなさい、よよ。氷佳、わがままを言い過ぎました」
正座して頭を下げる。
さんざ調子に乗って後々後悔するあたり、兄とよく似た妹だった。
叱られることも覚悟の上だったが――優しい声で夜々に名前を呼ばれ、恐る恐る顔を上げると。
「いきなりで驚いただけだよ。行こっか、お風呂」
夜々が穏やかな表情で笑っていた。
「……いいの?」
「もちろん。でも私はお客様だから、氷佳ちゃんに背中を流してもらうよ」
そう言って。
表情をちょっぴり意地悪く彩る夜々に、氷佳は満面の笑みで、元気よく返事をした。
〇
人生で一番楽しいお風呂だった。
身体を拭く間も服を着る時も、ドライヤーで髪の毛を乾かし合っている最中も、氷佳はその一言を繰り返していた。
パジャマ姿で二人は憂の部屋へ。
お風呂上がりの爽快感も手伝ったのだろう、氷佳がベッドへ飛び込み手招きをすると、夜々もゆっくり後に続いた。
寝転んで。
大きな枕に頭を乗せ。
どちらからともなく横向きになり、向かい合う。
「よよ」
「氷佳ちゃん」
名前を呼び合いながら、氷佳は不意打ちで夜々の胸に顔を埋めた――が、すぐに引き剥がされてしまう。
その理由はいまの接触だけでよく分かった。
だから、聞かない。
顔が赤いのは、お風呂のせいだけじゃないみたい。
「お話しよ。夜々に聞きたいことと、聞いて欲しいことが、たくさんあるの」
「うむ。たくさん聞かせて」
夜々は氷佳の腰に手を回して、わずかに抱き寄せる。
優しく、それでいて力強い。
全て受け止めてくれるような安心を感じられる、聞き上手な力加減。
だから氷佳は遠慮なく。
最初から遠慮はしていなかったけれど――とにかく、自分の話したいことを、聞いてもらうことにした。
それは、兄の話。
自分を大切にしてくれる、大好きなお兄ちゃんの、話。
こんな風に優しくて、こんな所がかっこよくて、こういう部分がちょっとダメで――プラスからマイナスまで、氷佳から見た憂の姿を包み隠さず、自慢した。
夜々はバリエーション豊かな相槌を節々に差し込みながら、楽しそうに笑って、聞いてくれた。
鼻先に触れる夜々の吐息がくすぐったくて。
それがとても嬉しかった。
話を終えて再び抱き着いてみると、今度は引き剥がされない。
けれど夜々の心臓は、さっきよりもずっと、うるさかった。
「氷佳ちゃんは憂くんのことが大好きなんだね」
「うん。大好き」
だからずっと、心配していた。
高校生になっても学校の話をしない兄のことを。
何も無かった、が口癖のようだった兄のことを。
そりゃあ、兄が自分だけを可愛がってくれるのは嬉しい。
嬉しいけれど――それじゃいけないことも、分かっていた。
本当は誰かと一緒に笑ったり泣いたり怒ったりしたい人だから。
家族じゃない誰かとも、繋がっていたい人だから。
それが自分のお兄ちゃんだと知っているから――心配だった。
妹として自分にできることはないか、たくさん悩んで――結局、なにもできなかったけれど。
それが、悔しかったけれど。
「ありがと、よよ」
ある日突然。
どこか楽しそうな顔で帰ってきて。
その日から一気に、兄の日常は変化していった。
夜々と三耶子と葉火のおかげで、もう、心配はいらない。
「私の方こそ、ありがと」
お兄ちゃんはいま、毎日がすごく楽しそう。
それが氷佳はすごく嬉しい。
時折、意地悪なこと言ったりしちゃうけど。
そうでもしないと、お兄ちゃんはすぐに氷佳を優先しようとするから。
――氷佳はお兄ちゃんの、一番の中のたくさんが良い。
だからいまは、とってもいい形。
でもお兄ちゃんはその中の違いがよく分かってないところもあるから。
お節介かもしれないけど、これからも氷佳なりに、力になるね。
「ねえ、よよ」
「んー?」
夜々から離れて枕に頭を置き直し、目と目を合わせる。
兄は夜々も三耶子も葉火も、同じくらい大好きみたいだけど。
誰を異性として一番意識しているのかと言えば。
それは夜々だろう、と氷佳は考えている。
ただの勘。
強いて理由をあげるとするなら――自分の兄だから。
細胞レベルで暁東に一目惚れした姉倉氷佳の、兄だから。
やっぱりただの勘。
だって家でよく聞くのは三耶子の話だし、言動は葉火に似てきているし……まあ一旦、兄の気持ちは置いておくとして。
兄がどう思われているのか、妹として大変気になるところだ。
常々聞いてみたいと思っていた――そしていま、またとない機会が訪れた。
だから、聞いてみる。
優しい夜々のことだから気を遣ってくれるだろうけれど、声の調子や表情、間の作り方から、ある程度真実を探れるはずだ。
「よよは、兄ちゃのこと好き?」
心構えを済ませ、そう尋ねてみると。
「うん。好き」
夜々は即答した。
勿体ぶることも困惑することもなく。
迷いなく、言い切った。
ちょっとだけ驚きつつ、氷佳はその先を求めようとしたが、夜々の人差し指に封じられる。
そして夜々は大人びた笑みを浮かべて。
「でもね、それがどんな好きなのかは、ないしょ。ごめんね」
と、くすぐったそうな笑顔に切り替える。次いで照れくさそうに頬を掻きながら、けれど目を逸らさずに氷佳を見据え、言った。
「本人に聞いて欲しいんだ、最初は」
そんな風に言われてしまったらこれ以上聞けないし――
そんな風に言われてしまったら。
言われなくても、分かってしまった。
氷佳は込み上げてくる嬉しさで口元を飾る。
「わかった。必要な時は、いつでも氷佳をたよってね。人肌吹くから」
「ふふっ、それだと乾燥肌みたいだね」
夜々が頬をつまんできたので、氷佳もつまみ返す。
それからお互い髪の毛をくしゃくしゃにしたり、額をくっつけたりしてじゃれ合った。
一段落すると途端に眠気が込み上げてきたので、氷佳は夜々に抱き着いたまま目を閉じる。夜々の方は睡魔に抗っているようだったが――すぐに決着。
そして二人は口を揃えて、同じ言葉を呟いた。
おやすみなさい。
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