あなたへ贈る愛
店を出て、後ろ手に扉を閉じながら右へ左へ視線を滑らせたが、夜々の姿が見当たらなかった。
一歩踏み出し、もう一度左右を見る。
そういうことか。
右を選んで歩き出し、一呼吸置いて振り返ると――こちらへ忍び寄ろうと企んでいたのだろう夜々が、物陰からぴょこっと生えてきた。
いたずらを見破られたというのに夜々は顔全体を嬉しそうに彩り、小さな歩幅で駆け寄ってくる。
憂の前で足を止めて、更に笑みを深める夜々。
いまにも崩れてしまいそうな、柔らかい表情。
「もうこの手は通用しないかー。前は隙だらけだったのにさ」
「夜々さんの生態にはそれなりに詳しくなったつもりだよ。それに、この状況で居るはずの夜々さんが居なかったら、流石にね」
「覚えててくれたんだ」
「忘れられない。きっと何年先も」
初めて夜々が単身この店を訪れた日。
物陰から飛び出してきた夜々にまんまと驚かされてしまったあの日を、忘れたことはない。
それは憂が屈辱を根に持つタイプだから――というわけではなく。
振り返ってみると、すごく嬉しかったからだ。
一緒に帰ろう、なんてごく普通を、生まれて初めて言われたことが、嬉しかったからだ。
憂は自身の頬が緩むのを感じながら、過去を思い返しながら――今度は、こちらから。
「どっかご飯でも食べに行く?」
と。
かつての夜々を再現するように言った。
「いいね。行こ」
待ってましたとでも言うような調子で夜々が答える。
誘って。
応じて。
そして二人は笑った。
おかしそうに、声を出して笑い合った。
「行くわけないだろ、って言ってたよね。強めに」と、夜々。
「そこにはあんまり触れないでよ。恥ずかしいから」
「いまあんな風に言われたら泣いちゃうかも」
「冗談でも言わないよ」
身体の後ろで手を組んだ夜々が歩き出して、憂を横切る。
憂は身を翻し向きを合わせて隣に並ぶ。
そうして二人は並んで歩く。
「寒くない? 僕ので良ければ、上着貸すよ。主役の夜々さん」
「ありがと。でもだいじょぶ。平気の平左なブリザードって感じ」
夜風を浴びて気持ち良さそうに空を見上げ。
ふふ、と微笑み懐かしむように夜々は言う。
「誕生日で思い出したけど、憂くんさ、会ったばかりの私に氷佳ちゃんのこと自慢してくれたよね。毎日が誕生日みたいって言ってた」
「言ったね。そこに関しては、いまでも言うよ」
よくよく振り返ってみると、ほとんど初対面の相手に妹の自慢話を語り聞かせたのか僕は。
なかなか攻めたコミュニケーションである。
「私ね、あれを聞いて、この人と仲良くなりたいなって思ったんだ」
「……そうだったの? あれはどうなんだろうって今更省みてたとこなんだけど」
「まあ、人によってはびっくりするかもね」
なにやら威張るようにそう言って、夜々は視線を憂へ移す。
「私にとってはすごく素敵な自己紹介だったよ。家族を大切にする人なんだって。誰かを大切にできる人なんだって、これ以上ないくらい伝わってきたから。聞いてる私まで嬉しくなっちゃった」
夜々から送られる優しい声がくすぐったくて、憂は誤魔化すように頬を掻いた。
あの妹自慢が期せずして夜々の心を打っていただなんて、都合の良い妄想みたいだ。
けれど確かな現実で。
あれから関係が始まって、いま隣に夜々がいる。
「まさか喜んでもらえてたなんて。僕、調子に乗るよ? しかも今度は四倍長い」
「乗って乗って。憂くんが持ってる愛情の深さを知ったいまは、もっと嬉しくなるだろうね」
「ここで話し始めると夜々さんが風邪引いちゃうから、また今度、暖かい場所で」
「ありがと」
夜々は再び空へと視線を定め、小さく息を吸い、目を閉じて。
「そんな憂くんの大切の中に、私もいられることが、嬉しい。嬉しくて嬉しくて、すごく嬉しい」
澄んだ声でそう言って、立ち止まる。
憂は一歩、二歩と進んだところでそれに気付き、同じく足を止めて、夜々と向かい合った。
すると瞼を上げた夜々が真剣な面持ちで、
「改めて言います」
と、かしこまった前置きをした。
先程までと打って変わって引き締まった雰囲気。
思わず後じさりしそうになりながら、ぐっと堪え、憂は真っすぐ夜々の瞳を見る。
得も言われぬ緊張、落ちてくる空の下にいるようなそんな感覚の中、見つめ合って。
耐えきれず憂が先を促そうとしたのを待っていたかのように。
相好を崩して、夜々が言った。
「ありがとう。私達と出会ってくれたのが、憂くんで良かった」
その言葉を受けて。
憂は息をするのも忘れて目を見開いた。
不意を打たれて。
胸を打たれて。
上手く言葉が出てこない。
――考えなかったといえば嘘になる。
いつか彼女達からそう言われたなら、あなたで良かったと言ってもらえたなら、どれだけ嬉しいだろうと――都合の良い妄想をしなかったといえば、嘘になる。
恥ずかしがりつつ。
恥を知らずに。
期待しなかったといえば嘘になる――けれどいざこうして現実のものとなった時、そんな心構えはなんの意味も持たなかった。
憂は唇を噛んで俯いたが、これでは不味いという咄嗟の判断から、顔を真上に向ける。本当は正面を、夜々を見て笑いたかったけれど――すぐには無理そうだ。
そのままの体勢で、夜々からの言葉を何度も味わって、噛みしめて。
絞り出すように憂は言った。
「……ごめん、泣きそう。嬉しくて」
「泣いちゃいなよ。私の全部で受け止めるから」
両手を広げ朗らかな笑みを湛えた夜々が、一歩前に出る。
どんとこい、と自信に満ちた立ち姿だが、いまだ空を見上げる憂の視界には映っていない。それを気にする様子もなく、受け入れて、夜々は声を弾ませる。
「寒いでしょ。ほら、おいで」
優しい声で求められ、憂は目元に力を込めたのち、ゆっくり視線を下ろす。
夜々と目を合わせ、決して上等とはいえない笑顔を作った。
どこか残念そうに笑い返す夜々に対し、今度はこちらが表情を引き締めて。
「ありがとう。身体が痺れて熱くなるくらい、本当に、嬉しいよ。きっと今わの際にも思い出す」
――と、冷静ぶってみたものの。
次々と湧き上がる明るい色付けの感情を上手く処理できない。
自分がどんな顔をしているのか分からなくなっていると、夜々が、
「プレゼント貰ったんだけどな。今日の憂くんは、私に大切にされなきゃダメなんだよ」
拗ねた風で言いながら、「ん」と急かすように両手を揺らし、左手の小指を見せつけるようにした。
約束。
指切り。
「大切にさせて」
だから。
夜々が更に一歩踏み出そうとするより早く。
憂から歩み寄って――夜々の求める形に収まった。
そして強く抱き締めて。
夜々の全部で、受け止めてもらう。
「ありがとう。そして、ごめん。やっぱり今日一番の幸せ者は僕だよ。負ける気がしない」
「そこは私も譲らないよ。抱っこポイントで逆転中だからね」
「吸収してる」
「最後に総取りするから好きなだけどーぞ」
軽口の応酬を続けながら、憂は夜々が少しだけ喋り辛そうなことに気付いて、力を弱めようとする。
けれど上手く加減ができない。
彼女達への意識が変わったいまだからこそ、欲しかった言葉が。
僕で良かったとはっきり言葉にしてくれたことが。
嬉しくて――嬉しくて、嬉しくて。
嬉しかった。
〇
「ごめん。苦しかったよね」
「無傷!」
離れた二人は春暖を思わせる顔色で微笑み合い、吹き抜ける夜風を浴びて頭を冷やしながら、来た道を引き返す。
道中、大袈裟に肩を揺らす夜々がガンガンぶつかってきたので、憂も同じようにして対抗した。
「やー葉火ちゃんと三耶子ちゃんにもお礼言わないと。いまから言う。どっちから呼び出しちゃおっかなー」
上り調子で夜々が言う。
「二人もすごく喜ぶだろうね。夜々さんの誕生日なのに、僕達まで贅沢して申し訳ない」
「私の誕生日なんだから、私もたくさん感謝しないとね。いっぱい貰っちゃったし」
「そういえば店を出る時にも言ってたけど、二人からなに貰ったの? と、もう一回聞いてみる」
「なーいしょ、ともう一回言ってみる!」
「逆から読むと?」
「よいしょー!」
レスポンス重視、正確性皆無。
おかしそうに笑う夜々の声はよく通った。
「二人のことだから、僕と同じく自分をプレゼントしたんじゃない? でも、それだとよく分かんないな」
「分かんないねー」
「それに葉火ちゃんなら、自分を贈るにしてももう一癖加えてそうだ。他人を……例えば僕とかを、無許可で差し出しててもおかしくない」
「…………」
なんか当たりっぽい反応だった。
「え、本当に?」
「は、白状するか突き進むか考えるので待ってください……」
途端にしおれた夜々の顔を覗き込むとすると、ふいっと明後日の方を剥かれてしまった。憂は追撃せずじっと夜々の異変を観察するに留めた。
やがて、おずおずと。
「……バレちゃったら仕方ない。洗いざらい白状するよ。実は二人から、憂くんの自由を貰ったの」
「僕の知らないところで……夜々ちゃん、それ違法っぽいから返してきなさい。僕が正規品を用意する」
「そちらもいただきます」
「欲張りほっぺちゃん……」
「なにそれ!? 嫌じゃないけど私の前以外で呼ばないでね!」
どうやらなにやら、憂の与り知らぬところで怪しい取引が行われているらしい。
自由って。
別にいいけど。
「僕も同じことしそうだし、咎めるつもりは全然ないけど……わざわざ二人を介さなくても」
「ふふっ。そうだね」
憂の意見に、夜々は意味深な笑みを以って回答した。
洗いざらい白状するなんて言っていた割に、表に出していない部分があることを告白するような、そんな表情だった。
「今頃二人で私の可愛い妹と戯れてるだろうね」
「あ、なるほど。虎南ちゃんってネズミなのに好奇心で身を滅ぼす野次馬だもんね。そういうとこが可愛いんだけど」
言われてみれば、あの小娘が誕生日会の最中に抜け出した人物を放っておくはずがない。それが愛する姉となれば尚更のことだ。
こうして二人で話すにあたって、虎南を食い止める存在は必要不可欠だろう。
納得して頷きつつも、わずかに引っかかりを覚えていると、店に到着して、思考は霧散した。
あっという間の往復だった。
名残惜しい気もするけれど、三耶子も葉火も控えているし、あまり長引かせるわけにはいかない。
戻って虎南ちゃんの首根っこを掴む役割を全うしよう、と憂は誓いを立てた。
そこで扉に手を掛けていた夜々が、振り返る。
振り返り――上目遣いで。
「私、明日も誕生日だよ」
と、眼差しに期待のような色を灯し。
甘えた声でそう言って。
しばしの間を置いた後、
「なーんてね」
いたずらに成功したような微笑みで、三耶子の名前を呼びながら店内へと戻って行った。
〇
ブレザーを羽織った夜々が三耶子と共に店を出てから。
憂は虎南の首を掴んだ状態で、離れた位置から場を観察していた。
渦乃と三耶子の母に挟まれた葉火が、対面の朝巳と大河、席の傍らに立つ姉倉パパと古海パパという全ての保護者から質問攻めされている。
ぎこちない敬語で応じながら「見てないでこっち来なさいよ」と目顔で訴えてくるのをスルーして。
氷佳と暁東が肩を寄せ合いウトウトしているのを眺めていると、虎南が妙に大人びた溜息をついた。
「姉倉先輩。わたしの首が峰不二子のようにボンキュッボンで魅惑的だからといって、いつまで掴んでるつもりですか」
「どんな首してんだよ」
「見くびられては心外です。…………この繋ぎは無理筋っぽいので、一旦仕切り直し! それで、お姉ちゃんとどんな話をしたんですか?」
己の失態を潔く認め、虎南は話題を転換する。
「色々とね。嬉しいことを言ってもらった。悪いけど、あれは僕一人で味わいたい」
「そう言われてはゴシップ同好会期待の新人であるわたしも形無しですね」
「いますぐ抜けろ。制裁があるなら僕が守ってやる」
「それにしても、流石はわたしのお姉ちゃん」
まるで自分の手柄のように威張る虎南。
虎南はリアクションが愉快だし、夜々との会話を思い出すと自慢したくもなるけれど――あれは、意思を持った二人きり。
だから、話さない。
三耶子も葉火も同じ対応をするだろうし、こちらから聞くつもりもない。
今日の主役からの贈り物。
貰った本人だけの、大切だから。
「大丈夫です、わたしだって空気くらい読めますから、はなしてくださいよ。無暗に首を突っ込んだりはしませんって」
「信じよう。ごめん、痛くなかった?」
憂が手を離すと、「全然です。仮に痛かろうとおくびにも出しません」と虎南はキメ顔で言い放った。
そろそろ首は飽きてきたので、打ち止め。
その後、自由になった虎南と一緒に変な動きで葉火を煽っていると、夜々と三耶子が戻って来た。
あたたかく迎え入れようと二人の方を見て――憂は目を剥いた。
三耶子が泣いていたからだ。
夜々に背中をさすられ頭を撫でられ、めそめそ泣いている。
慌てて駆け寄り、決意も忘れてなにがあったか尋ねてみると。
「なんでもないのよぅ」
とだけ言って、三耶子は夜々の胸に顔を埋める。
ものすごく焦ったが、夜々のお姉さんじみた表情から察するに、きっと自分と同じような言葉を貰ったのだろうと憂は結論した。
続いて葉火と夜々が出て行って。
しばらく経って戻って来た二人は、揃って髪がボサボサで、着衣も乱れて皺だらけ。
どんなバイオレンスが訪れたのかは不明だが、笑顔でつつき合っているところを見るに、身体全部で愛情を表現したのだろう。
「おねーちゃん! わたしは!」
「虎南は帰ってから。家で、たくさん話そ」
それからも楽しい時間はつつがなく続いて。
最後に。
みんなでケーキを食べて、誕生日会はその幕を緩やかに下ろした。
ナンバーワンよりオンリーワン、なんて言うけれど。
憂も三耶子も葉火も、そして夜々も。
四人とも、自分が一番だと譲らなかった。
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