キミへの好意とキミからの好意
憂の脳内では一時間ほど前に甘ったるい笑顔から放たれた宣言が繰り返し響いていた。
――これから本気出してくよ。覚悟しといてね。
果たしてどんな甘え方が繰り出されるのか。
覚悟は決めたし期待もしていたのだが、全て受け止めた上でしっかり反撃までしてやろうと意気込んでいたのだが――そんな憂の胸中を見通しているのかいないのか、夜々にこれといった変化は見られない。
いつも通り。
いつも通りの距離感でいつも通りの会話をしながら、洋食店でオムライスを味わい、ファンシーな内装の菓子店で珍妙なパッケージのチョコレートをいくつか購入し、店を出た。
隣を歩く夜々はチョコの入った紙袋を眺め、口元を綻ばせている。
嬉しそうな姿に和みつつ、憂は夜々がなにも仕掛けてこないこと、その意図へ意識を割く。
なにも考えていないという結論は真っ先に排除する。
夜々はしっかり企むタイプだ。もしかすると既に、自分が気付いていないだけで彼女の術中に嵌っているのかもしれない。
むしろそちらの公算が大きく、例えば変化の無いことに意味があるとか――
憂が夜々の横顔を凝視する。
視線に気付いた夜々は「どしたの?」と不思議そうに首を傾げた。深謀遠慮とは無縁、そんな顔だ。
「夜々さん、いまどんなこと考えてる?」
「このチョコをどう調理してやろうかで頭がいっぱいだよ」
「僕が相談に乗ってあげよう。たくさん甘えてくれたまえ」
と、憂は半ば降参じみた発言をしつつも、胸を張ってお兄ちゃんスタイル。
すると夜々の口元が不敵に吊り上がった。案の定しっかり企てていたようで、からかうような口調で問い返してくる。
「憂くんは、どんなこと考えてるの?」
「脳内でハムスターが放し飼いされてるから、どうしようかなって」
頭の中を元気に駆け回るげっ歯類は、いまもなお鼠算式に増え続けているため、早いところネタバラシをしてくれないと意識を乗っ取られるかもしれない。
それくらい、憂は夜々のことで頭がいっぱいだった。
「このままだと僕も名瀬夜々って名乗ることになりそうだけど、構わないね?」
「どうしてそうなったのさ。ダメだよ。ダメに決まってるでしょ」
「ダメ……?」
「似てない!」
夜々の物真似で立ち向かってみたがあっさり一蹴されてしまった。
本家本元名瀬夜々ちゃん曰く、もっと観察が必要だね。
というわけでじっくり観察してやろうと思ったが、夜々が再び不敵な笑みを浮かべたため中断する。
そして夜々は声を弾ませ、
「狙い通りだよ」
と言った。
タイミングすらも狙い通り、という響き。
夜々は器用に表情を切り替え、褒められるのを待つ子供のような勝ち誇った顔で、無邪気に笑いながら、種明かし。
「私のことたくさん考えたでしょ。頭の中、独り占めしようと思ってさ」
「……そういうこと。見事にやられたよ。やっぱりもう甘えられてたんだ」
「まだまだ序の口だからね」
独り占め。
確かに、甘えられている。
変化が無いことに意味がある――答えに近付けてはいたようだが、考え続けてもきっと辿り着くことはできなかっただろう。
甘え上手な人である。
憂は「次は先回りして甘やかす」と言った。
そして二人で笑い合い、行き先も決めずにただ歩く。
歩くだけ。
歩くだけでも、十分に楽しい。
一緒にいるのはそんな相手だ。
同じように感じてくれているのか、それとも目論見通りの成果をあげて嬉しいのか、あるいはその両方か――夜々は上機嫌に肩を揺らしている。
ゆらゆらと。
揺れて、肩をぶつけてくる。憂は肘で夜々の腕をつついた。
くすぐったそうに笑って、夜々は言う。
「みんな反応が違うね。葉火ちゃんは頭撫でてきたし、三耶子ちゃんは腕組んできたよ」
えっへへーと思い出由来の笑みをこぼす夜々。
それから自分の頭に手を置き葉火とスペアリブを食べに行った話を語り、それから今度は自身を抱きしめるようにして、三耶子とカラオケではしゃいだ日のことを話してくれた。
空を見上げ、「楽しかったな」と結んで。
「私ね、日記をつけることにしたの。お母さんみたいに。楽しかったこと、全部思い出したいから」
「夜々さんらしくて、素敵だね」
「ありがと。マチルダちゃんに話したら心配されたけどね」
「心配?」
「なんでも残りページによって感じ方が変わるから注意が必要らしいよ。特に最後のページは終わりの余韻が伴うから、些細な出来事でも妙に特別に感じるんだって」
なにやらまた思い付いたことを意味深な感じで舌に乗せているらしい美奈子ちゃん。そんな彼女は最後に「もっとも私は自分の過去など残したことも残すつもりもありませんが」――そう言ったそうだ。
自ら配膳してちゃぶ台をひっくり返すとはエキセントリックな奴である。
「確かにそうかもなって思ったよ。だから最後のページは名言で締めくくろうかと」
「……やめた方がいいんじゃない? 読み返した時、恥ずかしさに悶える気がする」
「憂くんと三耶子ちゃんと葉火ちゃんの発言からピックアップする」
「ダメだよ! ダメに決まってるだろ! 僕も読むのに!」
「見せないよ!? 恥ずかしいこといっぱい書いてるんだから!」
どの道、将来読み返して悶えそうな夜々だった。
恥ずかしいことってなんだろう、いつか見せてもらおうと憂は静かな決意を胸に秘めた。
……いや本当に恥ずかしいことってなんだ?
「恥ずかしいことってなに?」憂は臆面もなく訊いた。
「絶対ないしょ」
「けちな夜々さん。略してけちょ。楽してちょ」
「憂くんが弟感出してくる……! 負けぬ! あっ! あんなとこにクレープが! これはもう食べるしかないね!」
夜々は強引に話を打ち切り、歩道に面するクレープ店へと吸い込まれるように走り出した。
まるで子供だが、虎南がいるためか夜々を妹のようには感じない。
彼女は姉だ。姉なのだ。
追いついて注文を済ませると、間を置かずして出来上がったクレープをそれぞれ受け取り、少し移動して、ベンチに腰掛ける。
夜々はミックスベリーとホイップクリーム。
憂はイチゴとカスタードクリームだ。
早速齧りついた夜々が満足気に唸るのを見て、憂は過去にちびっこ化学者をシュークリームで餌付けしたことを思い出した。
あの「元素記号、略して元気!」と言い出しそうなコミカルでケミカルな姿を、憂は大変気に入っているのだ。
懐かしさから、憂は自分のクレープを差し出してみた。
ご機嫌なちびっこには、やはり甘い物。
目の前に現れた違う味のクレープに夜々は目を輝かせ、ゆっくり顔を近付ける――今回は一口が小さかったためクリームで口元や鼻先を汚すことはなかった。
残念。ハンカチを握っていた手をポケットから出す憂。
しっかり噛んで飲み込む夜々。
それから。
「お返しにどーぞ」
と、今度は夜々がクレープを憂の口元へ突き付けてくる――途端に緊張が訪れ、お菓子を向けられているようには感じられなかった。
おずおずと、憂は訊く。
「気持ちは嬉しいけど、いいの? これって間接キスってやつだよ。ダブルで」
「……なんで言うかなぁ」
恥ずかしそうに俯いた夜々が手を引っ込めかけて、ぐっと憂の方へ押し出す――視界を放棄したせいで、クレープはそのまま憂の口と鼻の間あたりに着弾した。
「……夜々ちゃん」
「ご、ごめん……手元が狂った」
「というのは?」
「嘘じゃないよ! ごめん!」
慌てて夜々はハンカチを取り出し、憂に付着するクリームを手早く拭き取る。そしてさささとハンカチを折り畳み、ポケットへ戻す。
大人しく受け入れてみたが――これ、想像以上に恥ずかしいぞ。
お子様扱いされても平然としていた過去の夜々に賛辞を送っていると、今回はその本人も、照れの混じった顔で口をもごもごさせていた。
「もー。私が悪いのは間違いないけど、憂くんが変なこと言うから意識しちゃったじゃん。……一口交換するくらい普通だよ?」
「はしたなぶる……もう少し節度ってやつを」
「なんだとー!? 私が誰彼かまわずやってると思われちゃ心外だよ!」
ちょっとした冗句のつもりだったが、夜々が怒り心頭掴みかかってきたため、憂は謝りつつ自分のクレープを夜々の口へ突っ込んだ。
もぐもぐ、たっぷり噛んで飲み込んで。
「憂くんだからだよ」
と呟くように言って、今度は自分のクレープを頬張り始めた。
いつものあざとい発言だが――今回はより深く急所を抉ってきたため、憂はクラクラしつつ、逃げるようにクレープを齧る。味はよく分からなかった。
しばし沈黙の中お互い食べ進めていると、あっという間に完食してしまう。
さてなんと切り出すべきか憂が慎重に言葉を選んでいると、先に夜々が口を開いた。
「あのさ」
自分の手元を見つめながら言って、憂を見る。
「覚えてる? 前にさ、私の口についたクリーム拭いてくれたこと。みんなでピクニックした、前の日」
「覚えてるよ。僕も、思い出してた」
どうやら同じことを考えていたらしい。
同じ日を思い返していたらしい。
そりゃ思い出すよね――なんて憂が笑うと、夜々の表情に穏やかさが差す。そして時折見せる慈しむような大人びた笑みを浮かべ――
「嬉しかった」
と、そう言い切って。
続ける。
「嬉しかったよ。私、すごく、嬉しかった。憂くんが大事なハンカチ使ってくれたこと」
実直な夜々の眼差し。
それを形作るのが自分の行動であることに憂は驚き、咄嗟に言葉を返すことができなかった。
改めて感謝されるようなことだとは、思っていなかった。
「私も……氷佳ちゃんと同じくらい、っていうのは、調子に乗りすぎかもだけど。近いとこにいるのかなーって、嬉しくなった」
そんな風に思ってくれていたことを、憂は嬉しく思う。
劇的でもなんでもないあの瞬間、意識したわけでもない自分の行動を、夜々が喜んでくれたのなら。
肩の力を抜いて生きていける。
もっと自分を好きになれる。
もっと、彼女達を、好きになれる。
「夜々さん達は、氷佳と同じくらい大切だから」
妹と同じくらい――というのが友人に対する評価として相応しいのかは分からないが、少なくとも夜々には、顔に熱を集められるくらいには伝わったようだ。
伝わるように、伝えられた。
赤くなった顔を隠すように夜々が正面を向く。そのまま横へずれて、憂と肩を触れ合わせる。
そして。
頭をくてんと倒し、憂の肩に乗っけて。
「大切にしてね」
と、油断すれば聞き逃すような声量で、そう言った。
確かに、そう言った。
飛び込んできた八文字を咀嚼して、憂は思う。
――この子、絶対僕のこと好きだろ。
いやいや待て待て思い上がるな早まるな。
好かれているには好かれている、それくらいは自負しているし間違いない。
しかし、好きには種類がある。
憂も灯台娘達が心の底から大好きだが、それぞれに対する好意の種類は微妙に異なっている。
夜々と。
葉火と。
三耶子とで。
異なっている。
残念ながらどう違うのかははっきりした答えを持っていない――その違いに関して恋愛アドバイザーを自称する推定詐欺師、虎南ちゃんと話し合う予定なのだが、お互い完全に忘れていたため未だ進展はなしだ。
恐らくこの微妙な違いってやつが重要なはずだから、右も左もわからない今の自分が軽率に判断を下すのは悪手だろう。
だからいま、夜々に対する好意と、夜々からの好意を。
変に思い込んで固定したくない。
なのでこういう時こそ冷静に一呼吸置く。
まずはこのあざとい生き物をなんとかしなければ。
と、頭では分かっているのだが、そう簡単に割り切れるものでもない。
だってこの人、見た目も中身も可愛いんだよ。
ふわふわした気持ちのまま、憂はこちらもあざとく反撃する方針に決め、正面を向いたまま努めて泰然と構え、夜々の名前を呼び、言う。
「あんまりこういうことされると、僕も本気になるよ?」
「ほ、本気……?」
「こんなこと出来なくなるくらい、僕に本気になってもらう」
返事は無かった。
ただ、反応はあった。
頭を戻し姿勢を正した夜々がゆっくりと顔を逸らしていき、憂の反対へ向けたところで止める。
伊達に夜々と付き合ってきたわけではない、こんなこともできるのだぞと憂は胸を張った。
「なーんてね」
と、おどけた調子で言いながら夜々の表情を覗き込もうとする憂。
しかし夜々は丸まるように俯いて顔を隠してしまう。
「……い、いまは見ないでちょーだいな」
「見せてよ。笑ったりしないから」
「こやつめ……」
丸まったまま夜々は悔しそうに呻き、次いでどうしても冷たくて苦い飲み物を買ってきて欲しいと言い出した。
このまま夜々の観察を続けたいところだが――正直に告白すればいま夜々の顔を見たらこちらがノックアウトしそうだったので、この提案は渡りに船である。
そうして憂は薄氷の上に勝利を飾った。
どちらが勝ってもおかしくなかった。
はったりがバレる前に憂は素早く動き出し、夜々を残して先程のクレープ屋へ行き、ドリンクを二つ購入した。
季節外れのアイスコーヒー。年中美味しいけれど。
ベンチへ戻ると、すっかり元通りの夜々がこちらへ手を振っていた。
憂も頭を冷やせたので、顔を合わせても動揺することはない。
「ありがと。ごめんね、次なにかあったら私が行くから」
「じゃあ、その時は甘えようかな」
そして二人はアイスコーヒーを瞬く間に飲み干し、じゃあ行こうかと再び進路も定めずに歩き出した。
あのまま留まっていたら、なにを言い出すか分からない。自分も、夜々も。
早いところ――明日にでも虎南ちゃんを呼び出して相談に乗ってもらうとしよう。
憂は隣の夜々を横目に窺う。
相変わらず上機嫌に肩を揺らしている。
いまも頭の中では新たな甘え方が生み出されようとしているのだろうか。
これ以上は耐えられる気がしない――と、そこで憂は閃いた。
「僕さ、ずっと夜々さんに言いたかったことがあるんだよね。褒め言葉っていうか、それに類することなんだけど」
「……な、なにかな?」
夜々は緊張を含んだ表情で、けれど期待の隠しきれない表情で、憂を見る。
聞きたい気持ちが前面に押し出された夜々の姿、それでも憂は心を鬼にして――
「言わない」
と、そう告げた。
夜々が一瞬だけ目を見開き、それから残念そうな顔になり腕に縋りついてくる。
「えーっ! なんでさ! 教えてよ!」
「気になる?」
「気になる!」
「しばらく考えてるといいよ」
「断るっ! いま聞かせてもらいたいな!」
どれだけ可愛くあざとくおねだりされようと、憂は微笑みかけるばかりで答えなかった。
しばらく悶々としているといい。
僕で頭の中をいっぱいにするといい。
言葉にするのは、また今度。
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