夜々は甘さを控えない
なんでもない日を記念日にしなさい。もしもの時に忘れやすいから。
結婚秒読みと囁かれる奈良端先生の無感情な格言を以って、冬休み明け最初のホームルームは幕を下ろし、放課となった。
時刻は十一時、お昼前。
学生達は過ぎ去った連休を思い憂鬱な気持ちを抱えつつも、教室に残って友人と雑談したり窓から外を眺めてみたり――などと平和な光景は訪れない。
呑気は頓死。
教壇から動こうとしない異常な目つきの奈良端先生と二人きりになるなど考えるだけで恐ろしい。あれはなんでもなくない日を記念日にした者の目だ。忘れがたき絶望だ。
八つ当たりで八つ裂きにされては堪らないので、全員が全員、我先にと飛び出していくのだった。教室を離れる憂の耳に杜波さんの悲鳴が届いた。
クラスメイトを見殺しにしたことに後味の悪さを覚えながらも学校を出て、緩やかな足取りで家路を辿っていると、背後から知っている声に名前を呼ばれた。
身構えつつ振り向くと、こちらへ駆け寄ってくる夜々の姿があった。
「やっほー憂くん! 待って待ってー!」
言われた通りその場で待っていると、追いついてきた夜々が憂の右隣に並ぶ。
そして、ふふんと威張るように胸を張り、ばっちり威張った顔で、
「憂くんのことは後姿でも分かるよ。いっぱい見てるからね」
と、なかなかにあざとい一発をぶつけてくる。
どう反応するのが正解なのか悩んでいると、夜々はにこーっと蕩けるように笑んで、言う。
「それだけ! じゃ、また明日ーっ!」
「え、それだけ?」
奇妙な展開に憂が間の抜けた声を漏らすと、ピースサインを掲げた夜々が来た道を引き返すように走り出し――ぐるりとターンして、憂の左隣へ並び直した。
「というのは嘘だよ! 引っ掛かったね! まだ帰らない!」
「というのも嘘だったり?」
「せぬ! セプテンバー!」
今日も変わらずおてんばな夜々ちゃんである。
底抜けに明るい笑顔を見て、憂は自分の心も明るくなるのを感じた。
犠牲になったクラスメイトなどいないのだ、どこにも。
そう結論付けて歩き出すと、隣の夜々が新たな動きを見せた。
手を後ろで組み上体を傾け、憂の顔を下から覗き込むようにする。
「本日のご予定は? 私に付き合う時間はおありかな?」
「もちろん。こんなこともあろうかと予定は空けてある――というのは嘘じゃないよ!」
すかさず答えると、夜々はふにゃりと笑った。
「びっくりしたぁ。じゃ、ちょっと買物に付き合ってくれるかな」
「夕方からバイトだけど、それまでなら、いくらでも」
「ありがと」
ついでにお昼ご飯もどこかで食べることにしよう、とスムーズに予定を組み上げ、進路を繁華街の方へ定めた。
買物に誘われたということは荷物持ちが必要なのだろう。
腕を回し準備運動と心構えを済ませる憂だったが、どうやらその必要はないらしく、夜々のお目当てはチョコレートなのだそうだ。
「バレンタインの練習をしておこうと思ってさ。憂くんの好みも聞いときたいから、付き合ってもらうことにした」
「えー? もしかして、手作りしてくれるってことぉ? 贅沢すぎて申し訳ないなぁ」
「そ、そんなに嬉しそうにされると緊張が高まる……」
「肩を壊しちゃ不味いよね。鞄を持ってあげる」
憂は表情を引き締めると、後ずさりする夜々からスクールバッグを受け取り肩に掛ける。
少しだけ重かった。
出会ったばかりの頃、二人で葉火の家を訪ねたあの日よりも、重くなっている。
その変化に思わず微笑みながら、憂は言った。
「これはチョコを貰った時に返すとして――でも、いいの? ハードルが上がるっていうかさ。ここまで真剣に考えてもらえると、もはやチョコがなくても嬉しいくらいだけど」
「いいのだよ。喜んでもらえるように頑張るから、それなりに期待はしててくれないと。でも上げすぎ注意。いい感じの高さに調節して心待て! あ、鞄は今日返してね」
「五百年後の僕の子孫が、僕の手記だけを頼りに、生涯かけて味を再現しようするくらいってのは、高い?」
「高すぎるに決まってるでしょ! 下げて! いますぐ! 超えられる気がしないから!」
自分のバッグを両手で掴み、取り返さんと引っ張る夜々。憂は両足で踏ん張り死守してみせた。揉み合いの末に夜々が折れてくれたので、ハードルを丁度いい高さに調整し直して、話を切り替える。
「そういえば、虎南ちゃんはどう? 昨日うちに来たんだけど。頭が変色してたよ。そういう季節?」
「可愛かったでしょ。虎南はなんでも似合うんだよね」
うんうん流石は私の自慢の妹だね、とでも言うように深く何度も頷く夜々。
最近の彼女はシスコン気味なのだった。
姉妹だけあって、似た者同士。
実は弟も現役ド級のシスコンなのだが、お姉ちゃん達は知らないらしいので黙っておく。
「それはそれとして、ちゃんと叱ったよ。私はお姉ちゃんだからね」
「怒られちゃいました! って嬉しそうなメッセージが届いたよ。しっかり反省もしてるみたいだけど……なんていうか、虎南ちゃんって放っておけないよね。僕、あの子のことほぼ自分の妹だと思ってる」
憂の知る限りもっとも遠慮の無い年下である虎南は、いつの間にかちゃっかりと、当たり前のように違和感なく、妹ポジションに収まっていた。
位置としては一番下、つまり氷佳の妹にもなってしまうのだが、正すつもりはない。話している感じ、暁東の方が虎南より年上に思えることが多いからだ。
「……私も、氷佳ちゃんのこと自分の妹だと思ってるよ?」
「ありがとう。氷佳もたまに夜々さんのことお姉ちゃんって呼んでる」
「え、なにそれかわいー!」
憂としては氷佳が暁東と結婚する気満々で、それを揺るぎない未来として扱っているようで複雑だ。
けれど文句のつけようがない。
氷佳と暁東の関係は、互いに好きだらけで隙が無い。
恋心は変わらないと宣言されて、そこにケチをつけるようでは兄どころか人間失格だ。
だから人間らしく、兄らしく、二人を祝福すると泣く泣く決めたのだ。
確か法律上、兄の承諾がなければ結婚できなかったはずだから、せめてもの抵抗として、しっかり見定めさせてもらうとしよう。
それはすなわち自分の口から「結婚を認める」と言わされる挙句を意味するのだが、自分の知らないところで話が進むよりは遥かに良い。
まったく。
嫌な法律である。
いや、無い法律である。
そんなことを考えていると、ふと、先程受けた奈良端先生の恨み節が脳裏をよぎった。だから話題として提供することにした。
「夜々さんはさ、記念日ってなにかイベントのある日がいい? 誕生日だったり、祝日だったり、クリスマスとかの行事がある日」
「記念日って? どしたの急に」
「例えば、結婚記念日とか。担任の奈良端先生が言ってたんだ。なんでもない日を記念日にしなさいって。それでも忘れない人を選びなさいとか、そういうことかな?」
続くネガティブは口にしないでおいた。
何かを思い出しそうで恐ろしかったからである。
夜々は怪訝そうにこちらを見ていたが、やがて顎に手を添えると真剣な顔でじっくり考え込んだのち、答えを出した。
「……そうだなぁ。私は誕生日とバレンタインが一緒だから、別に一票入れてみる。折角なら別々で楽しみたいよね――でも、好きな人と一緒なら、やっぱりどっちでもいいかも」
と、夜々は空を見上げ。
憂を見る。
「憂くんは、どっちでもちゃんと覚えてるんだろうね」
「僕だけ盛り上がって迷惑かもしれないけど」
「そんなことはないと思うよ」
氷佳相手に空回りした経験を思い出し弱気な発言をした憂に、夜々は柔らかな笑みを向けた。
流石はお姉ちゃん。お姉ちゃんだけあって、欲しい言葉をくれる。
よし、これからも氷佳との些細な記念日には素敵な贈り物をしよう。憂は前向きに決意した。
礼を言って前を向くと、同じく前を向いた夜々が問いかけてくる。
「ねえ憂くん。前に私があげた『なんでも券』使わないの?」
なんでも券――夜々がなんでも言うことを聞いてくれる権利。
不気味なハムスターのイラストが施された、魔法のチケット。
「私が使っちゃうよ?」
「え、あれって僕が一方的に夜々さんを好き放題できる権利じゃないの?」
「言い方が……まあ、忘れてないならいいんだけどさ」
照れくさそうに口をすぼめる夜々。
確かに、二ヶ月も開けば忘れられたと危惧するのも無理はない――が、忘れるなんてことは脳がビビッとステラってもあり得ない。
何度も何度も考慮した結果、難航しているだけである。
「忘れるなんてとんでもない。あれから毎晩寝る前に、一日として欠かすことなく使い道を考えてる」
「まいばん……」
「少年期、青年期、壮年期、中年期、高年期ごとに三位までは決まった」
「確かに期限は書いてないけど!」
「どころか回数の指定も無い。これに気付いた時、雷に打たれたような衝撃に襲われたよ」
「そんなズル許すかーっ!」
ぷりぷり言い募る夜々だったが、その頬は緩んでいる。
許してくれそうだった。
「ちなみに少年期はどんな使い方を考えてるの……?」
「…………」
「どうして黙っちゃうのかな」
「夜々さんに軽蔑されたくないし」
「ほんとになに考えてるの!? 気になるから私に教えてみよう!」
余程気になるのだろう夜々は「うりうり、ぼーぼー」と肘で憂を小突きながら、周りをちょこまか動き回る。
ヘンテコな前振りをしておきながら申し訳ないが、言うつもりはない。
言えるはずがない。
一日だけ僕を虎南ちゃん扱いして後戻りできないくらい甘やかしてくださいこたつの神様、なんて言えるはずがない――
「一日だけ私の妹になって甘やかされたい――とかだったら平気で言ってそうだし、なんだろう」
「待ってくれ僕のイメージどうなってんだ!」
「だってよく年下のお姉ちゃんが欲しいって呟いてるし……」
「そんな倒錯は絶対口にしてない! 思考が無意識に口を出ることはあるけども!」
思えばその悪癖が原因で葉火に気に入ってもらえたのだから、世の中は複雑にできているものだ。
そこで憂はハッとして。
「ということはまさか、僕がことある毎に夜々さんを見て『可愛いなこのハムスター』って思ってることも筒抜けだったりする?」
「……どもです」
「嘘じゃないよ」
「言わなくていいよ!」
言わなくていいらしい。
もう一度言うと脇腹の骨の隙間をつつかれた。
「……でも実際のところ、使いどころが難しいんだよね。本当に大事なお願いする時は自力でいきたいし、かといって、背中が痒い時に使うのも違う。そもそも余程の無茶を言わない限り、聞いてくれそうだから」
「言われてみるとそうだね。断る自分が想像できないや」
案外、難しい。
塩梅が難しい。
少年期から高年期に掛けて用意してはいるが、それだって相応しいかと問われれば首を傾げてしまう。
逆転の発想として夜々のお願いを聞かせてもらうという案も浮かんだが、それは思考の放棄に他ならないので却下した。
他にもいくつか候補はあったが、あまりに常識を逸脱しているので棄てるしかなかった。
完全に、持て余している。
これが三耶子から教えてもらったラストエリクサー症候群というやつだろうか。
いっそ思い切り無茶なお願いでもぶつけてみようか――なんて考えていると。
「そこのカップル。止まってくれ」
知らない声に呼び止められた。
正真正銘、初めて聞く声。
憂と夜々が同時に振り返ると――視線の先には、背の高い女性が立っていた。
セミロングのウルフカットと切れ長の目から、まさしく狼のような人だという印象を受ける。白のブラウスに紺のデニムというラフな服装は、一つ先の季節を生きているようだった。
姿勢正しい凛とした佇まいからは、どこか人を威圧するような鋭さが発せられていて、憂は思わず身構えてしまう。
「どうしました?」
夜々が訊いた。
「この辺りにカレーの美味しいお蕎麦屋さんがあったと思うんだけど、迷ってしまった。教えてくれ」
そう言って女性は無邪気な笑顔を作る――心安さを伴ったその笑みは、何も考えていないようなスッキリとしたもので、憂は警戒した自分を恥ずかしく思った。
――親近感の塊のような人だ。
同じ感想を抱いたのだろう夜々は、女性に負けじと朗らかな笑みを見せ、「お任せあれー」と快諾し、スマホで検索を始めた。
両手でポチポチ操作する夜々を見た女性が、
「悪いね。苦手なんだ、スマホってやつ」
と言って。
そう言って――淀みない動作で夜々の頭に手を置くと、そのまま撫で始めた。
不器用に、がしがしと。
そこに悪意は含まれていないと伝わってくるが、どう考えても初対面の相手に対する距離感ではない。憂は慌てて女性の手を掴み、夜々の頭から引き剥がした。
「それは僕だけの特権なんで、やめてもらえますか」
「な、なに言ってるの憂くん。初対面でふざけないの」
恥ずかしそうに憂に頭突きをする夜々。
憂が謝罪しつつ手を離すと、女性は気分を害した様子もなく平然と言った。
「いい彼氏だね。大事にするべきだ」
彼氏彼女と間違われて夜々に申し訳なかったが、さっきの仕返しか操作で忙しいのか夜々が頷いたので、憂も訂正はしなかった。
そうしていると、女性が懐かしそうに辺りを見回して。
「この街、おっかない老婆が住んでるから気を付けて」
「おっかない老婆……?」
「私が子供の頃からいるんだ」
「そうなんですか。えーと、お姉さん? も昔からこの街に住んでるんですね」
「いまは別の所。たまたま近くに来たから寄ってみただけだ。お昼食べたら出て行くよ」
言われてみるとそうだ。昔から住んでいる人が道に迷うとは考えづらい。
バカな発言を後悔していると、いくつか候補を見つけ出した夜々が意気揚々と手をあげる。それから女性と一緒にスマホを覗きながら、これじゃないそれじゃないと絞り込んでいき、無事に目的の店とそこまでの道のりを探し当てた。
「ありがとう、助かったよ。邪魔して悪かったね」
「いえいえそんな。こちらこそありがとうございます」
と、夜々がなぜかお礼を言うと、女性は小さく笑って――
今度は、憂の頭を乱暴に撫で始めた。
なぜか。
なぜに。
思いのほか力が強く首がずれて外れそうだ。
夜々に制止され、女性は笑いながら歩き出すと、すれ違いざまに憂の肩に拳を当て、
「デレデレするな、憂くん。彼女が泣くぞ」
からかうような口調で言ったのち、ひらひらと手を振りながら去って行った。
後腐れなく。
跡を濁さず。
別れの言葉もなく、去って行った。
怒涛の展開に感情が追い付かず、憂は女性の背中をぼんやり見送りながら、自分の頭を触る。
雑味の強い撫で方だったが、不思議と嫌な感じはしなかった――そんな自分が節操なく感じられて嫌だった。
「変な大人だったね」
髪を整えながら笑いかけるも、夜々はジト目をこちらへ向けている。
がっつり後腐れもあるし跡も濁されていたっぽい。
「嬉しそうにしちゃってさ。憂くんってああいう人がタイプなんだ」
「そういうわけじゃないよ。年上に対する礼儀を重んじたのさ。僕は甘えたいし甘えられたいタイプだから、一番好きなのは同年代」
夜々さん達が周りに居て他に目が向くわけないだろ、とまでは言わなかった。
――いや、言ったかもしれない。
むん、と夜々がご機嫌だからだ。
そんなハムちゃんは両手を伸ばすと憂の肩を掴み、ぐっと力を込めて無理やりしゃがませた。
なすがままに膝を折り畳んだ憂の頭に、夜々が両手を置き、
「では私にたくさん甘えたまえ」
撫で撫でくしくし、毛づくろいを始めた。
お姉ちゃんモード。
憂は照れ隠しに、口だけ抵抗する。
「夜々さんが僕に甘えるんだよ。正直、いまくらいじゃ物足りないね」
「……いいの? そんなこと言って。本気の私はすさまじいんだからね。きっと音を上げるよ」
「そうなったら、なんでも券を使って手加減してもらう」
「なにそれ。かっこわるー」
夜々がくすりと笑ったのを機に立ち上がり、何事もなかったかのように歩き出す。
そんな憂の隣に並んだ夜々は、からかうような顔で言う。
「あんまり甘やかして、見通しの甘さに後悔しても知らないよ?」
「喜んで。僕、自分で思ってる以上に、甘いのが好きらしい」
「それじゃ、チョコレートはうんと甘く作ってあげる」
そして夜々は。
跳ねるような足取りで更に前へ出ると、通せんぼするように憂と向き合い――お言葉に甘えて、と前置いて。
「これから本気出してくよ。覚悟しといてね」
甘ったるい笑顔で宣言した。
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