夜々ちゃんに優しい世界
「遅いわよ! これじゃあたしだけ楽しみにしてたみたいじゃない!」
集合時間の十五分前、午前十時半。
駅前――ではなく夜々の自宅から少し離れた交差点を訪れた憂は、腕を組む葉火の高飛車なセリフに迎えられた。
「おはようはひちゃん。これでも早いかと思ってたんだけど、何時から待ってんの?」
「九時よ。三耶子のおかげであっという間だったわ。スマホはゲーム機って本当みたいね」
一時間半もゲームをしながら待っていたらしい。葉火を沼に引きずり込むという三耶子の目論見通りに事が進んでいるようだった。
憂はえらく上機嫌な葉火をじっと見つめる。
ゆったりした五分袖の白Tシャツに裾を折り返したネイビーのデニム、靴は水色のスニーカーと意外にもカジュアルなコーディネート。
葉火の私服を見るのはこれが初めてだ。似合っているのは間違いないが、全体的に夏っぽい印象を受けた。
今日は天候にも恵まれ比較的暖かいため勘違いしてしまったのだろう。
「なによジロジロと。そこまで見るならちゃんと感想を言いなさい」
「はひちゃんらしくて似合ってるよ。でも、私服は和装じゃないんだね。てっきり野武士みたいな恰好で来るかと」
「バカじゃないの。なんで野武士なのよ、普通に武士でいいでしょうが」
言いながら掴みかかってきた葉火にヘッドロックをされる。
こういうことするから野武士なんだよ、と憂は悪態をついた。
本来ならば嬉しいイベントなのかもしれないが、じゃれ合いと言うには力が強すぎる。スイカくらいなら粉々に割れていることだろう。
「痛いから放せって! 思いっきり息吸ってやるぞ!」
「最近のあんた気持ち悪さに拍車がかかってるわね。嫌いじゃないわ。ほら吸ってみなさいよ、匂いだけであたしを判別できるようになりなさい」
甘ったるい香りに鼻腔をくすぐられながら、吸い込むべきか止めておくべきか悩んでいると、背後から声を掛けられた。
「なにしてるの二人共。私も混ぜて」
という三耶子の発言を受け、葉火ちゃんは絞めるのをやめて解放してくれた。
憂は乱れた髪を直さず三耶子の方を振り返る。
「おはよう。昨日は楽しみで早く眠っちゃったわ。早起きしたからあんまり意味無かったけど」
続けて、ピクニックと言えばワンピースでしょう、と三耶子は持論を展開しながら微笑んだ。
それから服を見せるようにくるりと回る。薄い青の膝下まで伸びるシャツワンピースに、ローカットの白いスニーカー。
三耶子のピクニックスタイルなのだそうだ。
「あたし程じゃないけど可愛いわよ三耶子。憂もそう思うわよね」
「同じくらい。同列。ちゃっかり上に立とうとするな」
「女の子はいつだって一番になりたいのよ。覚えておきなさい」
「一番は氷佳」
「うっさいわね」
三人で顔を見合わせて笑う。あとは夜々を待つのみだ。
駅前でなく夜々の自宅近くに集まることになったのは、荷物を持つため。昨日の帰り際、遠慮する夜々を三人で説得し「仕方ないなぁ」なんてふにゃっとした笑顔を引き出してやった。
雑談の合間に憂が時計を確認すると、丁度集合時間になって――曲がり角から夜々がひょっこり姿を見せた。
憂達に気付くと嬉しそうな笑顔を浮かべ、小走りでとっとこ近付いてくる。
大きめのバスケットを握っていること、これまた大きめのリュックを背負っている点を見るに、やはり荷物持ちを名乗り出て良かった、と憂は思った。
「やっほーみんな! おっはよーでる! 揃ってるね! 良い天気! 楽しいねえ!」
目の前まで来た夜々が伸び伸びとした声で言い、憂は挨拶を返して夜々からバスケットを受け取る。
すかさず三耶子と葉火がリュックを奪い取り、どちらが持つか揉めた末、葉火に軍配が上がった。
「まったくもー、みんな心配しすぎだってば。私だって結構力持ちなんだからね。でも、ありがと! 嬉しいから甘えちゃうね!」
夜々が前の開いたパーカーの裾を掴み、両手を広げ「ももんが!」と笑った。
明らかにテンションが高い。可愛らしい生命である。
夜々の私服は基本的にだぼっとしたパーカーらしい。黒と黄色のツートンカラーから、憂は国民的なでんきネズミを連想した。
そんなでんきネズミを抱きしめるように、三耶子が背後から、パーカーのポケットに手を入れて言う。
「私は夜々ちゃんを持つわ」
「じゃあお願いしちゃおっかなー。今日はすっごく甘えたい気分なんだ」
「なんなりと申し付けてちょうだい」
「では皆の衆、護衛をお願い! ピクニックに出発だー!」
〇
電車に揺られること二十分程。
夜々と葉火が外の景色に一喜一憂する姿を三耶子と一緒に眺めている内、目的の駅へ到着した。
閑散とした待合室を抜けて駅を出ると、広々とした道路が広がっていた。
走っている車は少ない。開放感のある景色なのでなにか言いたくなったのだろう、数歩前に出た夜々が「海だー!」とそんなわけない発言をして、振り返る。
「ここからバスに乗る予定なんだけど、聞いて驚きたまえ! バス停が見つかんない!」
「じゃあ歩けばいいのよ。初めて来る場所だから面白そうだし」
「さっすが葉火ちゃん! 大体二十分くらい歩けば着くと思うよ! あっ、あんなとこにバス停が! うわーどうしよ!」
歩きたい気分でもあるらしいので、憂と三耶子も賛同する。
場所を知らないのに先頭を譲らない葉火。
葉火の手を握り暴走を食い止める三耶子。
その後ろで自作のメロディーを鼻歌に乗せ、上機嫌に身体を揺らす夜々。
最後尾から三人を観察する憂、の構図で移動する。
保護者の気分を味わう憂のもとへ、夜々が近寄ってきた。
「重くない? そろそろ私が持つよ」
「平気だよ。僕にも甘えてくれないと。それに片手が塞がったら、モモンガできないじゃん」
「もしかして気に入った? それじゃもっかいやってあげる!」
夜々はパーカーを広げてモモンガの真似をする。
憂が笑うと喜色を滲ませ、手招き。
「耳貸して」
「……お断りします」
「えーっ! なんでさ!」
自身の行いを振り返ってもらいたかったが、夜々のご機嫌に水を差すのも躊躇われたので、憂は恐る恐る耳を近付ける。
すると夜々は手で仕切りを作り、憂の耳に口を近付け、
「ありがと」
と小声で言って――再び。
前と同じように。
フッ、と鋭い吐息を流し込んだ。
暖かい息を、吹き込まれた。
「夜々さん!」
「あはははは! 憂くんが怒った! 捕まえてみたまえ!」
そのまま夜々はてってけてーと葉火達を追い越し先頭へ。速度を緩めずどんどん先へ行く。捕まえるわよ、と葉火が鋭く言い放ち、三耶子と手を繋いだまま走り出した。見失っては大惨事なので憂も急いで後を追う。
教師にとって遠足というのは大変な行事なんだろうな、と憂は思った。
バスケットを揺らさないよう気を遣いつつ、見失うことなく目的地へ到着する。
大きな池のある、大きな公園。
ぽつぽつと紅葉が赤く色付けを始めた園内を、夜々の案内で奥へと進み、見晴らしのいい芝生の上に拠点を構えることになった。
葉火が無遠慮にリュックを漁りレジャーシートを取り出すと、夜々が両手で受け取って、勢いよく頭上へ放り投げる。
「勝手に広がれー!」
広がらなかった。
地面に落ちたシートを憂と三耶子で広げ、セッティング完了。
四隅をそれぞれの靴で抑え、真ん中にバスケットを置き、四人で囲む。
「お腹空いたわ。憂の分もあたしが食べてあげるから、あんたはコンビニでパンでも買ってきなさいよ」
「嫌だ。絶対に嫌だ。僕はこれが楽しみで昨日の二十一時以降なにも口にしてないんだ」
「喋ってるじゃない、ペラペラと」
「そういう意味じゃねえよ。はひちゃんは、おバカねえ」
右隣から顔に手の平を押し付けようとしてくる葉火。憂は両手で抵抗しつつ、正面の三耶子に助けを求める。
「あの二人は放っておきましょう。さ、夜々ちゃん。準備を手伝うわ」
「ありがと。私達はアリさんだね!」
「はひちゃんのせいで僕までキリギリスだと思われただろ!」
「あたしはあんたの亡骸を食べて生き延びるわ」
夜々と三耶子は優しいアリだったので、キリギリスにも食事を与えてくれた。
それぞれに弁当箱が一つずつ。これは個人用らしい。
残りの大小様々なランチボックスはみんなで共有する用ということで、サンドイッチや卵焼き、ポテトサラダなどのメニューがシートの中央に展開された。
「さあ、たらふく食べてくれたまえ! 作りすぎちゃったから残してもいいからね!」
「すごいわ。夜々ちゃんが作ったの?」
「……名瀬さんが作ったのって聞いてもらってもいい?」
「……? 名瀬さんが作ったの?」
「そうだよ!」
快活に笑む夜々を、憂と葉火がじっと見つめる。
すると夜々は「な、なんだね」と落ち着きを失い、やがて虎南に手伝ってもらったと白状した。
というか、ほとんどが虎南の功績らしい。
「メニューは私と渦乃さんで考えたし? 盛り付けは私。まーまー細かいことは気にしないで食べよ!」
夜々がいただきますと号令をかけ、強引に食事が始まった。
文句があるわけではないし、お腹が空いているので素直に従う。
最初に渡された弁当箱を開くと――中身は、ここ最近よく耳にするメニュー、ロコモコ丼だった。
ご飯の上にハンバーグと目玉焼き、レタスにミニトマトが乗っている。
憂は葉火の手元を見遣る。
葉火の物と違い、憂のロコモコはハンバーグも目玉焼きも焦げいて不格好だった。何故かミニトマトまで焦げている。
「あ! 待った!」と、夜々。
「間違えたのが誰かに渡っちゃってない!? 不味そうなやつ!」
膝立ちの夜々が三耶子から順にぐるりと見渡し、憂の手元に視線を定める。
「ごめんごめん。それは私のだからこっちと取り換えてちょーだい」
夜々がこちらへ手を伸ばしてきて――憂は両手で弁当箱を掲げ、夜々の手を躱した。渡すわけにはいかなかった。
「これは僕のだからあげない」
「だ、だめだよほら、焦げてて身体に悪いし」
「だとしても僕はこれがいい。なんだったら毎朝食べたいくらいだぜ」
この思い通りにはいかなかっただろうロコモコ丼が、夜々の挑戦の結果だというのは察しがつく。
ぎゃふんと言わせようとしたのだと、分かる。
であればこれを食べる権利は自分にある、と憂は思う。なにより夜々が、こうして自分達のために頑張ってくれたことが、とても嬉しかった。
絶対に食べたい。
「もしかしてそれ、夜々が作ったやつ? あたしが食べるから寄越しなさい」
「嫌だ。これは僕が丸ごとぺろっと平らげる。虎南ちゃんのだって美味しそうだろ」
「だから両方食べたいんじゃない」
迫りくる葉火の顔面を右手で押し返しながら必死に弁当箱を死守していると、正面にいた三耶子が隣へやって来て、憂の抱える弁当箱に手を掛ける。
「一度私に預けてみない? 安心して、倍にして返すから」
「お断る! これは僕のご飯なんだ! ぬわーっ、はなしてー! 野伏せりが出たー!」
白昼堂々揉み合う三人の姿は、どことなく風刺画のような味わいがあった。
その様子をぽかんとした顔で眺めていた夜々が、不意に、小さな笑みをこぼす。
嬉しそうに、感極まったように。
笑って。
「私、みんなのこと大好きだよ」
夜々がそう呟くと。
憂も、三耶子も、葉火も。
揃って硬直し――ぎこちない動きで居住まいを正した。
憂と三耶子は恥ずかしそうに視線を逸らし、葉火は夜々に背中を向ける。
柔らかな沈黙が、陽射しと共に落ちてきた。
「な、なんだねこの空気! 私が変なこと言ったみたいじゃん! 葉火ちゃんまでそんな反応しないでよ!」
「あたし、そういうのに弱いのよ。一本取られたわ」
葉火は、恥ずかしがっていた。弱点さえ突けば一撃で倒せるタイプなのだろう。
とても争う空気ではなくなったので、果し合いより、話し合い。
夜々のお手製ロコモコは三人で分け合うことになった。
三等分。
「僕は誰よりもお腹が空いてるから一番大きい部分を貰うね」
「なに言ってんのよ、あたしのに決まってるじゃない。あんたは引っ込んでなさいよ」
憂と葉火が愚かしくも悲劇を繰り返そうとする隙をつき、ちゃっかり三耶子が一番大きい部分を持っていった。
その後も色々あったが、無事に分け合って。
ようやく、お昼ご飯。
というわけで、三人同時に夜々の作った焦げハンバーグを口へ運んだ。
「ど、どうかな? 見た目はヘンテコだけど食べてみると意外に美味しい! ってよくあるよね! ね!」
期待に胸を膨らませる夜々には悪かったが――はっきり言って、美味しくはなかった。
ほとんど、焦げの味。
なんと告げるべきか憂が頭を悩ませていると、三耶子が言った。
「ま」
それに葉火が、
「ず」
と続き――
「め」
反射で、憂が結ぶ。
「なにを仲良く連携してんだーっ! 普通に言ってくれたら怒ってないよ!?」
「責任を三等分しようと思って……」
真っすぐに夜々を見据える三耶子は指ドリルの餌食となった。残念ながら三等分にはならなかったらしい。
わざとらしく拗ねる夜々を宥めながら食事を続け、ロコモコを含め用意してもらったメニューを完食した。
「美味しかったわ、ありがとね夜々。虎南にも言っといて」
「うん。虎南も喜ぶよ。時間があったら葉火ちゃんのキャラ弁作るって言ってた」
「全部肉で構成されてそうだよね」
失言した憂は頭をはたかれた。
改めて夜々と虎南への礼を告げ、片付けを終え、雑談へ移る。
複雑怪奇を鍋で煮込んだような意味の分からん会話を繰り広げ、憂が自宅から持ってきたナンジャモンジャで遊んだのち――夜々がぶっちぎりで強かった――一段落着いたところで、夜々が空を見上げる。
「ほんと、みんなと来れて良かったよ。私、この公園が好きなんだ。前に――家族と来たことがあって」
と、夜々が。
不意に。
自ら家族の話を切り出した。
「お父さんとお母さんと、虎南と、弟。弟は
夜々は視線を正面に戻し、葉火を見て。
三耶子を見て。
憂を見る。
「ごめんね、急に。今日はさ、みんなと遊びたかったっていうのは、もちろんあるんだけど。それが一番上なんだけど。あと、話したいと思った。みんなに、聞いて欲しいって思った。私の話を」
私の話。
昨日夜々が緊張していた理由。
真剣な、ワガママの理由。
「聞いてくれる? 面白い話じゃ、ないんだけど」
憂は背筋を正し、優しく微笑み頷いた。葉火も三耶子も同じようにする。
ずっと聞きたかった、夜々の話。
受け止める準備は、できている。
夜々はふにゃっとした顔で笑い、そして語り始めた。
「私はね」
自分の話を。
家族の話を。
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