これからも隣にいてね
綾坂と終里は言葉を探しているようだった。
憂は小さく手を振りながら三耶子の隣に並ぶ。
葉火と終里が再会した際にも味わったが、一人だけ事情を知らないというのは中々に居心地が悪い。
何も知らない。だから迂闊に発言することは躊躇われた。
三耶子はこの遭遇になにを思っているのだろう。
同じ学校に通っている以上、どれだけ意識的に避けたところで徹底的でなければ遭遇する可能性の方が高い。果たして三耶子が二人を避けていたのかは不明だが――どうであれ、彼女はこんな事態も想定していただろうな、と憂は思う。
なにも考えない人ではない。
三耶子がそういう人だということは、知っている。
程なくして硬直が解けた三耶子は、やけに泰然とした態度で「ふふふ」と微笑み、そして言った。
「隣の空き地に囲いができたんですって――あらいけない、オチを失念してしまったわ。憂くん、覚えているかしら」
「かっこいー」
本物の静寂が訪れる。掛け値なく本当に無音である。
やがて心臓の脈打つ音が聞こえてきて、人生で一番恥ずかしい瞬間はいまかもしれない、と憂は思った。
空気が重くならないように、という三耶子の意図が伝わってきたため喜んで協力したのだが、結果はご覧の有様だ。
葉火には突き放されて怪我をしたが、三耶子には付き合って怪我をした。かかる状況下においての距離感は未だに分かる気がしない。
三耶子が、わざとらしく空咳をしながら、立て直しを図る。
「……こほん。こほんこほん。漢字で書いたら古本ね。そういうわけで、お久しぶり」
と、髪をかき上げる三耶子。
隙あらば冗談を混ぜたがるのは普段通りだが、やや空回り気味だ。
強がっている。
もしかすると自分の存在が事態をややこしくしているかもしれない、と憂は思った。三耶子は憂と綾坂達に接点があると知らないだろうから、彼女は中間の役割を果たすべく気負ってしまい、バランスを崩しているのかもしれない。
なので、憂は言った。
「よく会うね、綾坂君に終里さん。もしかして僕のファン?」
わずかな驚きの混じった表情で、三耶子が憂を見る。
「面識があったの?」
「少し前にベタな出会い方をしたんだ。綾坂君が空から降ってくるっていう、王道の。以降、顔を合わせる機会が増えて話すようになったんだよ」
「そうだったのね」
三耶子が視線を正面へ戻すと、綾坂と終里がそれぞれ「久しぶり」と言った。それから終里が意を決したように表情を引き締める。
「古海さん……その、元気だった?」
間違えた、という心の声が終里の顔いっぱいに広がる。
しかし三耶子は気にした様子もなく答えた。
「ええ。健康そのもの、身も心もロコモコよ」
「ロコモコ……?」
困惑する終里に助け舟を出そうとする憂だったが、それは無粋だと思い留まる。
三耶子も終里も互いに歩み寄ろうとしている――だからいまは見守ることにした。そして三耶子と妹ハムスターを会わせてみたくなった。
「終里さんと……綾坂君は、どう? 順調?」三耶子が問いかける。
「えーっと……うん。順調、かな」
言い辛そうに答えた終里を「おめでとう」と平坦な声で祝福する三耶子。次いで憂を向き、背伸びをして手招きをする。
その意図を汲み、憂は三耶子の口元へ耳を寄せた。
「いまの嫌味っぽかったかしら。嫌な奴だと思われたら悲しいわ」
「……ひそひそ話は手を添えるのがセオリーだよ」
仕切りが無いため丸聞こえである。
終里は「思ってないよ」と苦笑いをして、綾坂はなにか言いたげに口を開き、なにも言わず唇を引き結んだ。
しばしの沈黙が置かれ、それを終里が回収する。
「……それじゃ、私達行くね。ごめん邪魔しちゃって」
名残惜しそうに終里は言って。
綾坂と共に歩き出す。
二人が憂達を横切り、一呼吸おいたタイミングで。
「待って」
と、三耶子が振り向きながら、去り行く二人を引き止めた。
終里が振り返り、遅れて綾坂もこちらを見る。
全員の視線を一身に受けながら、三耶子は深く息を吸い、吐いて、吸う。
更に吸って、吐きながら言う。
「――ずっと、言っておきたかったことがあるの。終里さんに。綾坂君に。伝えなきゃって思ってたことが」
受けた二人の表情には緊張の色が見えた。
確かに身構えてしまいそうな前置きだが――古海三耶子はいつだって前を向いている。
だから続く言葉に憂は驚かなかった。
「ありがとう」
意外そうな顔をする二人と、穏やかに笑う三耶子。
――ありがとう。
それは裏も表も無い、ただひたすらに、感謝の言葉だった。
「私はいま、毎日がすごく楽しい。二人と出会っていなければきっとこうはならなかったわ。だから――ありがとう。ようやく言えて嬉しいわ」
過去を否定すべきでないという彼女は、ともすると余計に嫌味っぽい、負け惜しみのようなことを――そんな意図を一切込めずに言う。
断言できる。嫌味でも負け惜しみもないと、憂はそう断言する。
「そんな、俺は――」
「ダメだよ、いっくん」
なにか言いかけた綾坂を、終里がぴしゃりと制する。
「ダメ。古海さんに失礼だよ。それだけは、絶対にやっちゃいけないんだ」
きっと終里は葉火のことを考えているだろうな、と憂は思った。
この場を去ろうとしたのだって、葉火の忠告を思い出したからだろうと、そう思った。
三耶子を真っすぐに見据え、終里は感謝を口にする。
綾坂も、続く。
「……ありがとう、古海さん。本当に、ありがとう」
「どういたしまして。二人のこれからに幸多からんことを――ふふ、一度言ってみたかったのよね。引き止めてごめんなさい。それじゃ行きましょう憂くん。みんながジュースを待っているわ」
そこで打ち切り。
三耶子は踵を返し自販機の方へ歩き出す。
憂は寂しそうに見送る終里と、いまにも消えそうに笑う綾坂に手を振って、三耶子を追いかける。
といっても自販機はすぐそこだ。
早めに立ち去ってもらわないと気まずい――憂と三耶子は目指した場所と違うところへ着地しがちで、本人達も自覚的だが、だからといって失敗したいわけではない。
格好つけたからには格好良くありたいのだ。
終里が剣ヶ峰スピリットを受け継ぎつつあるため、下手するとこちらへ近付いてくる可能性も考えられたが、杞憂に終わる。
綾坂と終里は何度か憂達を振り向きながら、ゆっくりと立ち去った。
足音が遠ざかりやがて聞こえなくなると、三耶子は憂と正対する。そしてその場にしゃがみ込んだ。
「……緊張したわ。膝の震えが止まらない。良い恰好するのも楽じゃないわね」
「格好良かったよ、すごく。転びそうになったら支える準備はしてたけど、必要なかったね」
「そんなことないわ。憂くんが隣にいてくれたから、張り切ることができたの。格好つけたいって思えたのよ」
三耶子があざとい上目遣いで憂を見上げる。
憂はこの仕草に非常に弱い。
「ありがとう。これからも隣にいてね。そしたらきっと、なんだってできると思うから。ずっと――」
と、三耶子があんまりにも屈託なく笑うものだから。
いきなり、そんなことを言うものだから。
顔が熱くなる。
ずっと。
「――友達でいてね」
友達。
そりゃそうか、そりゃそうだ。
可愛い仕草のせいで頭の中がお花畑になりかけたが、焼き払って。
雰囲気に呑まれて勘違いしなくて良かった、そんなことを思いながら憂は頷いた。
「喜んで。僕からもお願いするよ」
言って、三耶子を引き上げようと手を差し出す。
しかし三耶子のしかめっ面に驚き、出した手を引っ込める。
「み、三耶子さん? なにがご不満で?」
「なんとなく手を握るのが嫌だったの」
「三耶子さんに言われるとマジで泣きそう」
「慰めてあげる。私の胸の中でたくさん泣くといいわ」
憂は三耶子を置いてふらりと歩き出す。
「手を取り換えてくる。腕の良い医者を知ってるんだ。聞き分けも良い」
「じょ、冗談よ! ちょっとツンデレっぽく振舞いたい気分だったのごめんなさい!」
呼び止められ、元の位置へ。
仕切り直し。
「私ともあろうものが面白みに欠ける言い回しをしてしまったから、つまらない奴だと思われたくなくて、安易にツンデレへ手を出してしまったわ」
「事情は分かったけど、ツンデレで合ってる?」
「失礼。正しくはデレツンね。たぶん合ってるわ」
その道に通ずる人に聞かれた怒られそうな会話である。
「そういえば憂くん、いつから綾坂君と知り合いだったの?」
「一週間と少し前くらいかな。出会い方は、さっき話した通り」
「どんな話をするの?」
「どんな……大した話はしてないよ。世間話かな」
「夜々ちゃんと剣ヶ峰さんは、知ってる?」
「まあ、うん。葉火ちゃんと一緒にいる時、遭遇することが多いから」
「そうだったの」
気を遣わせちゃったわね、と三耶子。
「ありがとう。もう平気だから、どんどんいじってくれて構わないのよ。お前みたいな色気もない根暗はフラれて当然だな! って感じで」
「悲しいからそんなこと言わないでよ」
三耶子の自虐に憂がむっとして、それを見た三耶子はすぐに謝罪し発言を取り消した。
「実際、少し前の私は傍から見て暗かったと思うわ。そういうキャラで現状維持に努めていたし。そのおかげで剣ヶ峰さんと喧嘩するようになったんだから、複雑よね」
「三耶子さんと葉火ちゃん、最初は仲悪いフリしてたよね、そういえば」
「辛気臭い顔するなって難癖つけてきて。思い切って言い返してみたら気に入られちゃった。失望されたくないから気性嵐キャラを貫いていたけど、いまの方が踵が地面にくっついていて楽しいわ」
少なからず、背伸びをしていたらしい。つまりいまは自然体ということで、それはすごく嬉しいことだ。
「物足りないと思われてないか、ちょっとだけ不安はあるけれど」
「そんなことないよ」
憂は得意顔で言い切り、少し悩んで、過去に葉火が終里のところへ乗り込んだ時の話を三耶子に語り聞かせた。
「その時に言ったんだよ、葉火ちゃんが。三耶子さんと夜々さんは繊細だから、無闇に近付くなって。これを言うのは反則だけど――葉火ちゃん、三耶子さん達に嫌われたくないんだってさ」
「……本当に、そんなことを言っていたの?」
「勝ち誇った顔で言ってたよ」
「どうにも真実っぽいわね」
想像できてしまったのだろう、三耶子は困惑気味に、けれどとても嬉しそうに微笑んだ。
「嬉しい。私も、剣ヶ峰さんに嫌われたくない。夜々ちゃんにも、憂くんにだって。私は欲張りだから、手に入れた物を失いたくないの。前に一度、憂くんの前で大泣きしたことがあったでしょう? あれはフラれて悲しかったのも、勿論あるけれど。みんなと顔を合わせる機会がなくなることが、すごく、悲しかった」
照れくさそうに頬を掻きながら、三耶子は思いを言葉にしていく。
「思い返すと他人任せで情けない考え方だわ。嫌なら嫌なりに自分から動かないとダメよね。目下改善中といったところよ」
「心配ないと思うよ。だって僕と三耶子さんの関係は、いつだって三耶子さんから動いてくれてるんだから」
バイト先で会った時。
そしてこの場所、自販機の前で会った時。
三耶子から話しかけてくれたから、いまがある。
憂が笑いかけると三耶子がしゃがんだまま両手を伸ばし、というわけで、から続きを繰り出した。
「膝が壊れて立てないの。おんぶして」
どういうわけだ。訳が分からなかった。
真面目な話をしていた気がするけれど、もしかすると気のせいだったのかもしれない。
憂は思考のチャンネルを切り替え、探り探りで言う。
「おんぶ……? 僕が、三耶子さんを? 無理だよ。僕の膝が壊れる」
「ふふふ。まるで私がタンクローリーみたいじゃない。怒るわよ」
「そうじゃなくって、背中に女の子を乗せたら男はみんな崩れ落ちるものなんだよ」
三耶子が怪訝そうに眉を顰める。
「お姫様抱っこはできるのに?」
「あれは、ほら、裏面だから。色々あって熱くなってたし、それに相手が葉火ちゃんってのもある」
「それはどういうことかしら」
「葉火ちゃんって全然恥じらわないから、こっちの感覚もおかしくなるんだよね」
不意打ちで葉火を恥じらわせることができたなら、それはどれだけ痛快だろうと、実は常々考えている。しかし奴は手を握ろうがお姫様抱っこをしようが動揺しない。
鹿倉を追い返した時に見せた姿は激レアだった。穴あき雲くらいレアだ。もっとしっかり記憶しておけば良かったと痛感する。
「まるで私がすぐに恥じらうつまらない女みたいじゃない」
「つまらないってのは否定するけど、すぐ赤くなるのは本当だよね。いいじゃん。三耶子さんは、そのままでいてよ」
葉火には葉火の良いところがあって、三耶子には三耶子の美点がある。
それは、比べる物ではない。
比べるべきではない。
またもや赤くなった三耶子に、憂は言う。
「そうだ。多分全員が気になってたことだけど、剣ヶ峰さんじゃなくて葉火ちゃんって呼んであげなよ。本人も気にしてると思う――たぶん、泳がされてる。すごいタイミングで話題に出されるよ」
「む。意地悪ね。私の弱い所を突っついてくれちゃって。本人の許可がないのに名前を呼ぶのってハードルが高いじゃない」
「だよね。年下相手だと気にならないんだけど、僕も全面的に同意する」
「憂くん」
「三耶子さん」
「ふふふ」
「――話を戻すとして。その内葉火ちゃんから求められるとは思うけど――葉火ちゃんが喜ぶのはどっちだろうね」
「意地悪」
自分を棚上げして意地悪く笑みながら、口を尖らせる三耶子を横切り、自販機の前に立つ。
「帰り際にでも呼んでやろうよ。葉火ちゃんにピッタリの飲み物見つけたから買ってきてやったぜ、って感じで」
名前で呼ばれることを好む葉火だから、当たり前に受け入れるだけかもしれないけれど。
案外、新鮮な反応を見せてくれるかもしれない。
「な、なにをご馳走するのがいいかしら」
「なんでもいいと思うよ。毒効かないって言ってたし、色々耐性あるらしいから、入手の容易な液体は大概大丈夫なはず。お酒は心情的に苦手らしいから、効くかもしれないけど。葉火ちゃんを倒したければお酒を振舞うのがいいかもしれない」
「お酒で倒すって酒呑童子みたいね。いや、そもそも倒さないわよ。まあいいわ。コーラが好きみたいだけど、あったかい物のほうがいいかしら」
「冷たくてもいいんじゃない? 葉火ちゃん、体温高いし。めちゃくちゃあったかいんだよ葉火ちゃんの身体」
そう言った憂の背、腰より少し上に。
立ち上がった三耶子の頭突きが突き刺さった。
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