葉火ちゃんはアホ
「それじゃあ早速、おばあちゃんの部屋へ乗り込みましょうか」
大きな池の見える庭に面した廊下を歩いていると、先頭の剣ヶ峰がそんなことを言い出した。
目的まで一直線、実に葉火らしい一手である。挨拶は早めに済ませておきたかったし、せっかくの休日だ、緊張感なんてものはさっさと手放したかったので、そうしようぜと憂は賛同した。
息を吸う。
ヒノキの香り。
床をはじめ柱や壁、天井の素材にヒノキが用いられており、匂いだけでなく視覚的な明るさもあって、呼吸の度に進む度に、緊張が薄らいでいくように感じられた。
そんな憂の後ろを、虎南が落ち着きなく周囲を見回しながら歩いている。虎南はなにかを思いついたのだろう、そして何も聞いていなかったのだろう、ニヤリと笑って言う。
「ヒノキの語源はいくつかありますが、そのひとつに『火の木』からきているという説があります。火ですよ火! 葉火さんにピッタリですね!」
「虎南ちゃんって、こじつけ好きだよね。なんとしても葉火ちゃんを褒めたいその心意気は買うけど」
「ちなみに花言葉は『不死』や『不滅』だそうです」
「撤回する。葉火ちゃんにピッタリだ」
突き当りを右に折れ、再び直進する。
葉火は振り向かずに言う。
「あたしが不老で不死になったら、憂、あんたも付き合いなさい。行ってみたい場所たくさんあるのよね。世界中を隅から隅まで味わいつくしてやるわよ」
「心躍るお誘いだよ。なれたらいいな、不老不死」
「そうなったら流石に行けるわよね。ダーツバーにも」
「言っただろ、葉火ちゃんとは絶対行かねえ」
死なないだけで、きっと痛いことに変わりはない。
もしかすると死ぬより辛いかもしれない。
だから行かない。
再び角を折れたその時、唐突に虎南が「ひゃーっ!」と驚きながら憂の腕にしがみついた。
「い、いま! こっち見てましたよ座敷童が! 黒い着物のおかっぱ頭が!」
「おバカねえ。そんなのいるはずないでしょうが。いたらあたしが退治してるわ」
「言われてみるとそうかも! なーんだ、安心です」
「座敷童を退治するな。するとしても絶対に僕を巻き込むなよ」
あれは従妹よ、と言って葉火が足を止める。
目的の部屋に到着したのだろう、葉火は軽く拳を握ると、障子の木枠を叩きながら中へ呼びかける。こいつ障子をノックしてるぞ、と憂は驚き呆れた。
「おばあちゃん。葉火だけど、入っていい? 入るわよ」
返事はない。
葉火が「むう」と口を尖らせながら勢いよく戸を引き、中を覗き込んだ。
「あれ? いないわ。お出掛け中かしら。そういえば
「巳舌さんって?」
「家政婦さんよ。家政婦の巳舌さん。おばあちゃんと違って厳しい人で、あたしのこと嫌ってるみたい。良い人よ」
葉火のこういった言い回しに慣れている憂は簡素な返事をし、慣れていない虎南はあからさまに不満そうだ。
一旦あたしの部屋に行きましょう、と来た道を引き返す葉火の後に続く。
葉火さんを嫌いだなんて私の敵です。虎南はぷりぷり怒っていたが、葉火の部屋に着くと別人のように上機嫌となった。
招き入れられたのは、八畳ほどの和室。
入って正面の壁には大きな丸窓があり、横に大きな本棚がどんと構えている。
部屋の中央に小さな丸テーブルが置かれていて、その隣に真っ赤なビーズクッション――いわゆる人をダメにするソファがある。目につく家具はそれぐらいだ。
床には鞄や部屋着や雑誌、ドライヤーだったり漫画本だったりが乱雑に広がっており、家具は少ないものの生活感に溢れていた。
「おばあちゃんの手掛かり探してくるから、好きにしてなさい。衣類は全部押し入れにあるわ。覗くんじゃないわよ」
わざとらしい前振りをして葉火は部屋を出て行く。
残された憂と虎南は所在無げに視線をさ迷わせたのち、とりあえず、憂は物が落ちていない壁際に、虎南はビーズクッションに、それぞれ腰を落ち着ける。
「ふぃー。それにしても意外でした。葉火さん、和室で育った娘さんだったんですね」
落ちていた輪ゴムを拾った虎南が、指に引っ掛けて憂へ飛ばす。
山なりの軌道を描いたそれは、憂の頭にゆっくり着弾する。
「侘び寂びとは真逆みたいな奴だけど、そうらしいね」
憂は頭の輪ゴムを取り、同じようにして撃ち返す。が、狙い通りにはいかず輪ゴムは虎南の遥か後ろへ飛んでいった。
「わびさび? お寿司の仲間ですか? それともロコモコみたいなメニューです?」
「メニューじゃねえよ。なんかさ、虎南ちゃんの知識というか意識というか、海外に偏り気味だよね」
「は、はー? そんなことあるわけないじゃないですか! それじゃまるで、私が海外イコールあったまいー! と思ってるみたいでしょ!」
つまりはそういうことらしかった。
青臭い小娘である。
なんとなく頭をよぎっただけの思い付き。暇つぶしの導入にでもなればと指摘してみたところ、見事な自爆を目撃してしまった。
立ち上がるまではいかずとも身を乗り出して虎南はぴーぴー喚き散らしている。
それを聞き流しながら、憂は入った時からずっと気になっている代物へ視線を移す。話していれば気にならなくなるかと思ったが、そうはいかなかった。
過去に一度見た、赤。
赤い、和服。
恐らく高級な物であろうそれが――無造作に脱ぎ捨てられている。あまつさえ、踏んだり上に乗った形跡さえ見て取れる。
これは着物の知識を必要とするまでもなく、絶対ダメだと確信することができた。というか、衣服全般へのNG行為である。
葉火ちゃんがおばあちゃんなり巳舌さんとやらに怒られるのは火を見るよりも明らかだ。分かっていて見逃すのは寝覚めが悪い。既に手遅れかもしれないが。
「虎南ちゃん、押し入れからハンガーかなにか、この着物を引っ掛けられそうな物を探してくれないかな」
「葉火さんは覗いちゃダメって言ったんですよ。だから私は開けません」
「あれは――まあいいや。それじゃあ仕方ない、僕が開けよう」
二人しかいない内の一人が拒絶する以上、必然、役割はもう片方が果たすしかない。だからこれは、仕方ないことなのだ。
万が一見てはいけない物を見つけても、不可抗力、少年漫画的お約束に過ぎないのだ――そんな言い訳をしながら憂は立ち上がり、押し入れを向く。
するとその背中――腰付近へ虎南が飛びつき、腕を回して憂の歩みを邪魔し始めた。
「見下げ果てましたお前先輩! 私まで怒られるでしょ! どうせ怒られるなら私が開けます! 私メインで怒られたいです!」
「離せこの真面目風味! 会ったばかりで葉火ちゃんに怒られようなんざ百年早ぇよ!」
もみ合いを演じること一分程。
結局、二人で仲良く押し入れを開けた。
下段には衣装ケースが二段ずつ、三セット並んでいる。
上段には布団が敷かれていて、もしかすると葉火は、猫型ロボットと一緒に住んでいるのかもしれなかった。
虎南の好きなひみつ道具は、アンキパンらしい。
それはさておき、ハンガーを探してみるもそれらしい物は見当たらなかった。
というわけで。
「虎南ちゃんが着たらいいんじゃない? サイズは合わないだろうけど、このまま放置しておくより絶対良いし」
「いいんですかね。そりゃ、お祭りの時も私服な私としては、着物への憧れはありますけど」
「平気だって。もしもの時は僕に無理やり着せられたとでも言えばいいさ」
憂の言葉を受け、遠慮がちだった虎南は態度を一転させ、着物を手に取った。
「じゃあ仕方ないですね。さてさてこの着物、私のデミグラスな体型に似合うでしょうか」
「どんな体型だよ煮詰まってんのか」
「間違えちゃいました。アマテラスな体型です」
「思い出したように海外から戻ってきやがって。もう分かったから。グラマラスって言いたいんだろ」
「それが一番の間違いだって思ってますね?」
当て推量だろうに、えらく恨みの籠ったジト目を向けてくる小娘。小癪である。
「……思ってないよ、ほんとに。それより早く着てみなよロコモコ娘。似合う似合う、デミグラスデミグラス」
「ふふん。知らないんですか姉倉先輩。ロコモコはグレイビーソースが主流です」
「うるせえ」
再びの小競り合い。どちらかがミンチになるようなこともなく、すぐに収まって。
虎南は着物の袖に腕を通し、くるりと回った。
「葉火さんの匂いがします。羨ましいでしょう」
中一の平均よりも小柄であろう虎南だ、やはり、袖も裾も不格好に余っている。
せめてもう少し体裁を整えたかったが、着付けの知識など持ち合わせていないためこれ以上手の施しようがない。落ちている帯を眺めるばかりである。
虎南が満足そうなので良し、ということにして。
さてどうするか、散らかった部屋を綺麗にしようかと足下の帯を手に取った時、葉火が戻って来た。
虎南が全身を見せびらかすように両手を広げる。
「どうですか葉火さん!」
「似合ってるじゃないの虎南。コナンくんって感じね。着付けしてあげましょうか」
言いながら葉火は丸テーブルの上に皿を置く。
皿には切り分けられた梨が乗っていた。
「冷蔵庫に隠れてたから切り裂いてやったわ。さ、食べなさい」
「葉火ちゃんが剥いたの? すごいじゃん! 刃物、投げる以外の使い方もできたんだな!」
「あたしは家庭的な女よ。あんたの胃袋掴んであげましょうか」
小指から親指へと順に指を畳んでいく、何かを握りつぶすような動きで拳を作る葉火。野性的な女性である。
三人でテーブルを囲み、梨を食べながら、雑談。
「おばあちゃんと巳舌さん、お買い物に出てるらしいわ。本当かどうかは分かんないけど。お昼には帰ってくるんじゃないかしら」
「じゃ、それまでゆっくりするか。今の内に、おばあさまの人柄とか聞いておきたいんだけど」
「大体あたしと一緒よ。それより、あたしの部屋に対して感想とかないわけ? 血族以外で足を踏み入れたのは、あんたらが初めてなのよ」
「物が少なくて意外だったかな」
「部屋に置いとく物なんて最低限でいいわ。欲しい物ってそんなにないし。あたしが欲しい物って、基本動き回るのよ」
あんたらとかね――葉火は何でもないことのように言い、続ける。
「スマホだってあの機械自体が欲しいわけじゃないもの。あんたらがあたしに意地悪するからいけないのよ」
「悪かったって。と、いうかさ。なんで葉火ちゃんってスマホ持ってないの? おばあさま、過保護だって言ってたし、だったらスマホなんて頼まずとも持たされそうだけど」
「邪魔だし必要性を感じなかったから、断ったのよ。あの時も凄まじい言い合いになったわね」
曰く、その辺りから家政婦さんに嫌われているらしい。
「じゃあ、葉火さんがお願いすればすぐにでも買ってもらえるんじゃないですか?」虎南が言った。
「そうね。あたしが意地を張ってるだけよ」
「意地ですか?」
「負けを認めるのが悔しいっていうのが第一ね。次点で――手が掛かる孫娘だから、せめてお金は掛からないようにしたいじゃない。最近、色々あって出費もかさんでたし、いくらあたしでも言い辛いわ」
一点の曇りなく威張る葉火の姿は理解不能だったが、彼女なりの事情があって、彼女なりに気を遣っていることは分かった。
――だったら着物も大切に扱った方がいいよ、と言おうか悩む憂より先に、虎南が話を繋いだ。
「出費がかさむというのは、もしや、デートですか? デートですね!」
出会ったばかりの小娘である虎南は、当然だが葉火のことをほとんど知らないはずだ。だから虎南が、この秋に失恋を経験したばかりで、同級生からの嫌がらせにより物を壊されていた葉火の、苦い過去を見事に踏み抜くような発言をしたとて、仕方のないことだろう。
それとなく話を逸らそうと憂は決意した。葉火本人が気にしていないと公言しているとはいえ、良い気分ではないはずだ。
なので、咳払いをして。
憂は虎南を見たのち、視線を逸らしながら言う。
「実は僕が、葉火ちゃんに遊ぶ金をせびってるんだ。弱みを握ってるもんでね」
「はぁー!? なんだとお前ーっ!」
虎南は果敢に憂へ跳びかかり、肩を押して後ろへ倒そうとする。なぜ自分が着物を着ているのか、その理由は頭の中から蒸発してしまったようだった。
「そんなわけないでしょうが。あたしに弱みなんてないわ。憂の弱みならいくつか握ってるけど。そうじゃなくて、別に隠すようなことでもないから言うけど、鹿倉っていう女があたしの持ち物を手当たり次第壊してた時期があるのよ」
憂が虎南の両手を掴み反発していると、葉火がそう言った。
虎南の力が弱まったので、警戒しつつ、憂は手を離す。
「なんですかそれ。ちゃんと牢屋送りにしてやったんですよね」
「謝ってもらったわ。いままで壊した分も弁償してくれるってことらしいから、文句なしね。憂と三耶子のおかげよ」
「ほとんど三耶子さんだけどね。僕はまだまだ」
「本当ですよこのポンコツがっ! ちゃんと息の根止めとけーっ!」
またしても暴れ出した虎南は、先程の反省からか動きが素早くなっており、見事体当たりで憂を押し倒すことに成功した。そのまま馬乗りになり、憂の左頬を指ドリルで抉る。面倒くさいので憂はあえてされるがままになった。
姉と違って害獣寄りなハムスターである。
彼女を突き動かしている感情がなんなのか気になるところだ。
「あたしくらいになると、次元が違うのよ。ちゃちな嫌がらせなんて、暇を潰せて丁度いいくらいだわ」
「ひょわぁ! 葉火さんかっこいー!」
葉火は一度立ち上がり、憂の頭のそばまで移動して、膝立ちになる。
憂の視界に横から覗き込んでくる葉火の姿が映った。
そして。
「憂、あんたにご褒美をあげるわ。先払いね。そうした方がやる気も出るでしょうし」
と、言って――憂の頭を持ち上げると、その下に自身の両膝を入れ、正座の形をとる。
憂の後頭部に広がったのは、葉火の太腿の感触。
膝枕。
「ひゃあっ!」
憂は情けない声をあげながら上体を起こそうとするも、葉火の両手が顔に被さってきて――蓋をするように押し返された。
虎南は葉火のアシストを決めたのだろう、腕を組んで憂の腹に跨ったままだ。
「これくらいで何を慌ててんのよ。子供も見てるんだから堂々としてなさい。眠かったら寝てもいいわよ」
「せ、せめて横向きに……」
「そしたらあたしの顔が見えなくて味気ないでしょ。存分に味わいなさい」
葉火は挑発的で蠱惑的な笑い方をして、憂の頭を撫でる。
憂は葉火の身体と反対へ首を回したが、頬を差しだす形となるため、虎南の指ドリルが容赦なく突き刺さってきた。
そのまま出入口の障子へ視線を定め、考える。
――なんだこの状況。人喰いの村に迷い込んだ気分だ。そんな風に考えていなければ色々間違ってしまいそうだった。
「虎南。うちのお風呂、なかなか広くて気持ちいいのよ。一緒に入りましょうか」
「え、いいんですか。お背中流します! 私も一緒に流れます!」
「いくら定番とはいえ、間違えて入ってきちゃダメよ、憂」
いっそマジで寝てしまおうか、なんて考えたその時だった。
「葉火。入ってもいいですか」
部屋の外から女性の声がした。
鋭い発音。
一太刀で首を落とすような、そんな声音。
憂は固まり、虎南も硬直して――しかし葉火は呑気に朗らかに歌うように「あ、おばあちゃん。どうぞ」と言った。
――どうぞ?
――どうぞ。じゃねえよバカかこいつ!
起き上がろうとする憂を、葉火は先程と変わらない動きで押さえつける。
スーッと、戸が引かれ、声の主である葉火の祖母が姿を見せた。
葉火とよく似た鋭い目つきが印象的である。祖母は憂達を見て、その威圧的な目を更に細める。
孫娘が知らない男に膝枕して。
その男の上にはサイズの合わない着物を纏った小娘が乗っている。
軽く惨劇である。
静寂がひたすらに濃度を増していき、迂闊に息を吐くことすら躊躇われる空間が、いままさに出来上がろうとしている。
祖母の口がわずかに開いたのを憂は見た。が、音が発せられることはなく。
そのまま。
スーッと、戸を、閉じられた。
見なかったことにする、とでも言うように――隔たれた。
憂は何も言わない。
虎南も何も言わない。
黙って、葉火を見る。
葉火はきょとんとした表情で障子を眺めたのち、口元を嬉々と彩り、憂の頭をわしわしと撫でた。
「あんなおばあちゃん初めて見たわ。あんたらのこと気に入ったみたい。これは勝ったも同然ね」
「いや……ほんとかよ。絶対嘘だろ。僕がおばあさまの立場だったら、とりあえずまとめて池に沈めてるぞ」
「私もですか!? そんなー! 泳げないんですよぉ私」
「安心しなさいってば。というわけで行くわよ。今なら何をお願いしても通る気がするわ。だから思いっきり欲張りなさい、憂。たぶん、結婚のお願いでも許してもらえるから。試しに言ってみなさいよ」
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