君はあざとい夜行犬

 夜が落ちてくる。街灯のまばらな道を夜々と並び歩きながらそんな風に思った。


 今日の夜闇はいつもより重い。両肩を押さえつけられるような感覚に歩きづらさを覚えつつ隣の夜々を見ると、わずかに顎を上げ、鼻歌交じりに身体を揺らしていた。


 機嫌が良い。不自然なくらいに、機嫌が良い。

 とても落ち込んでいるようには見えなかった。


「名瀬さん、昨日とキャラが違うから驚いた」

「もーそれは言わないでよー。本当の私は元気いっぱい名瀬ちゃんだからね」


 自称元気いっぱい名瀬ちゃんは、えいっ、と言って自分の鞄を憂に投げた。


 意味分からん――驚きながらも憂は夜々の鞄を抱き留める。もはやファッション意外の役割を果たしていない軽さだった。


「名瀬さんって家で勉強しないタイプ?」

「家は勉強するとこじゃないよ? え、姉倉君って家で勉強するタイプ?」

「……程々にね。最低限だけど」

「へー。そいえば姉倉君は、姉弟とかいるの?」

「いるよ。妹が」


 憂は妹の話になると饒舌になる。聞かれてもないのに話したりはしないが、聞かれた際には聞いてもないことまで話し尽くそうとする化物だった。

 夜々としては世間話に過ぎなかっただろうが、期せずして地雷を踏んだのである。


「氷佳って言うんだ。いま小学二年生なんだけど、これがもう可愛くて仕方ない。僕がバイトをしてるのも氷佳の好きな甘い物をたくさん買ってあげたいからなんだ。氷佳は毎日違った角度の可愛さを見せてくれるから、毎日が誕生日って感じかな。氷佳も僕に懐いてくれてて、家にいる時はいつも色んな話をしてくれる。その時以上の幸福を僕は知らない。名瀬さんも一度会ってみるといいよ。この世の全ては氷佳のためにあるって分かるから。写真見る?」


「姉倉君が全然キャラ違う!」


 キモイと一蹴しなかったのは優しさだろうか、夜々は気持ちの良いツッコミを入れる。

 一方の憂は平然とした顔で会話を繋いだ。


「名瀬さんも妹と弟がいるんだよね。自慢話なら聞くけど」

「あはは……姉倉君には敵わないからやめとくよ。あ、そうだ! それじゃ今からちょっとだけ氷佳ちゃんに会いに行っちゃおうかな」

「それは困る。時間が時間だし、氷佳と会うならドレスコードを守って貰わないと。それに極力身近な人を会わせたくない」

「なんなのさ姉倉君! 会ってみればいいって言ったよね!?」


 繰り返しにはなるが、憂は妹が絡むと気持ち悪い化物になる。

 夜々が身振り手振りで抗議するのをツンとした表情で跳ねのけた。


 悔しそうに眉を下げた夜々が、唇を尖らせ不満を漏らす。


「いいなぁ氷佳ちゃん。そんなに愛してもらって」

「名瀬さんだってそうだろ。かなりモテるって聞いてるよ」


 夜々は答えなかった。

 きゅっと口を結び、困った風で目を伏せて、それから別方向へと話の舵を切った。


「そーいえば姉倉君、葉火ちゃんの話だけどさ」

「……なに?」

「いきなり冷めるじゃん。あははっ! 姉倉君かわいー」


 氷佳の話をした直後に天敵である葉火が話題に上ったことで頭がくらくらした。これがヒートショックか。


「葉火ちゃん、ものすごーく騒いでたけど姉倉君の名前は出してないよ。私の知る限りだけど」

「……そっか。その辺りはもう考えるの止めててさ。でも良かったよ、安心した」


 憂は夜々の気休めを受け入れる。


 普段なら懐疑的に詰める所だが、思考力が削ぎ落されている今日、分かりやすい安心はありがたい。それに夜々が他人を気遣う人間だという印象は未だ揺るがないため、心遣いを無下にするのも忍びないと思った。


 そもそも夜々が気にする話ではないのだ。姉倉憂と剣ヶ峰葉火の小競り合いなのだから、放っておいても文句をつけられる謂れはないだろう。


「姉倉君はあんまり目立ちたくないんだよね。三耶子ちゃんが言ってた。そんな風に見えるって」

「まさか古海さんに見られてるとは思わなかった」

「ボーっとしてるように見える時も色々観察してるんだろうね。私と違って」


 にひひ、と笑って夜々は続ける。


「三耶子ちゃんと話してみたら? せっかく同じクラスなんだしさ。ちょっとくらい話さないと逆に目立つよ」

「いや……別に話すこと無いし。特にいまは剣ヶ峰さんのせいで疑惑の渦中にいるから尚更嫌だ」


 周囲から疑惑を向けられる現在、古海と会話しようものなら自ら正体を明かすのと同義だ。ほとぼりが冷めるまで知らぬ存ぜぬを貫き通し、やがては最序盤に仕込まれた布石の如く人々の頭から抜け落ちたい所である。もちろん回収されることは無い。


 であれば、こうして夜々と歩いていることすら本来アウトなのだが、時限爆弾じみた葉火と違い絶対に自分から言い触らさないであろう夜々との距離感が心地よく、少しだけ、ほんの少しだけ――この時間を楽しんでいた。


 憂は人嫌いではない。むしろ逆で、人が好きだから、嫌われないように距離を置こうとする。


 だから無闇に踏み入り踏み荒らさない相手との小さな交流は、揮発性の高い会話は、憂にとって好ましい物だった。


「そうだ、名瀬さんから剣ヶ峰さんに言っておいてくれないかな。絶対に僕の名前を出すなって。恐らく今日寝る前くらいから、あの人が口を滑らせるんじゃないかと気が気でなくなると思うんだ」

「うーん……姉倉君が言うなら分かったけど、あんまり期待しないでね。葉火ちゃん、私の言うことなんて聞いてくれないし」

「まあ……そうだけど。でも助かるよ。名瀬さんだって迷惑だろ、変な噂に巻き込まれて」


 私は――言いかけた夜々が突然「あ! そうだ!」と閃いた風で手を打った。


「それじゃあさ、今から葉火ちゃんと話せばいいじゃん! 明日が来る前に話しとけば安心だよ!」

「何言ってんの?」

「葉火ちゃんの家知ってるしさ、そんなに遠くないから行ってみない?」


 奇天烈な発言をする夜々が先程までと別人に思えて、憂は思い切り顔を顰めた。


 時間が時間だし、いきなり訪問するのも失礼だ。

 さてはこの子、常識に欠けるのか……?


 臆面もなくアホ抜かした夜々は誇らしげに、ナイスアイディアを褒めてくれと言わんばかりに胸を張っている。


「絶対に嫌だ。僕は帰って氷佳と一緒にテレビを見るんだ」

「そう言わずにさ! ね!」

「非常識だろ、こんな時間に押しかけるのは」

「常識なんて十八歳までに身につけた偏見のコレクションでしかないんだよ。ね?」


 格言を用いて言いくるめようとする夜々だった。当然だが反論になっていないので憂には全く響かない。


 小賢しい真似に対し、憂は真っ向勝負を挑むことにする。


「電話すればいいだろ」

「じゅ、充電が切れちゃってて」

「仲良くない割に家は知ってるんだ」

「ま、まあね。ほら、葉火ちゃんってオープンな人だから」


 途端に歯切れの悪い返答。

 憂が目を細めると夜々の黒目が斜め上へ動いた。


「……名瀬さん? 何か隠してるよね」

「は、白状するか突き進むか考えるので待ってください……」

「まさか剣ヶ峰葉火に言われて僕をおびき出そうとしてるんじゃ」

「違う違う! そうじゃなくって!」


 距離を取った憂が逃げ出す体勢を作ると、夜々が両手を伸ばして制止する。それからガクリと項垂れて、ごめんなさいと呟いた。


「ほんとは葉火ちゃんの家も連絡先も知らないの……」

「マジでどういうこと?」

「姉倉君が葉火ちゃんのこと気にしてるのは分かってたから、力になれればと」

「その言い方やめてくれ」


 憂は外気由来でない肌寒さを感じながら続きを待った。


「連絡先の方は誰も知らなくて無理だったけど、家の方は教えてもらったの。情報通のマチルダって子から。知ってる?」

「その相棒の方なら僕のクラスメイトだ……それはいいとして」

「学校だと葉火ちゃんと話自体できないでしょ? だから家に行けばゆっくり話せるんじゃないかと思いまして……」


 両手の指先を突き合わせながら、おずおずと。夜々は計画の全貌を明かしてゆく。

 自分が夜々を叱っているような気分になり胸が痛んだ。


「どうして名瀬さんがそこまでするんだ」

「……ほんとごめんね。勝手なことして。迷惑だったよね」


 そう言って、上目遣い。あざとい。いくらなんでもあざとすぎる。


 憂はその時点で悟った。さては分かっていてやってるな。


 夕方にも見た捨てられた子犬のような表情は、辺りが暗いこともあっていよいよ突き放すのに覚悟がいる。


 仕事中だと言い訳も出来ないし、裏の意図があるにせよ優しさの含まれた提案だから――とはいえ。


 断れ。断るんだ姉倉憂。

 何度も自分に言い聞かせるが、縋るように見つめてくる夜々の顔にはどこか期待も込められていて。


 裏切れってのかこれを。断ろうという考えが過ぎった時点で自分が極悪非道の悪鬼羅刹だと思わされたのに。

 だから。


「……分かった。行くよ」


 そう答えるしかできなかった。

 憂にはまだ人の道を踏み外す覚悟は無い。

 無理だ無理。


 満面の笑みで喜ぶ夜々を見ながら憂は考える。

 自分の目が如何に節穴なのかを思い知りながら、考える。


 剣ヶ峰葉火じゃない。

 本当に僕と相性が最悪なのはこの子。名瀬夜々なのだ、と。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る