名瀬夜々は何故か来る

「――ということがあって散々でした。元はと言えばマスターのせいなんだから反省してくださいよ」


 時刻は十七時前。

 バイト用の制服に着替えながら昼休みに自身を襲った悲劇の顛末を語り上げた憂に、マスターの髭親父は柔らかい笑みを向ける。


 孫の話を聞くようなその態度に、憂は小さく溜息を吐いた。


「最近の若い子は元気で良いね。楽しかったかい」

「冗談言わないでくださいよ。僕はいま明日が怖くて仕方ないんです」


 本日も通常運転で客がいないため、髭親父は憂との会話に興じている。


 着替えを終えた憂は、これまでだって仕事に手を抜いたつもりはないが、今日は一段と張り切って仕事に臨むつもりだ。拭いきれない不安を拭き掃除にぶつけてやると意気込み事務室を出ると、各テーブルの清掃を始めた。


 無心で汚れを落とし続ける。備品の補充にも抜かりはない。


 憂の中にある漠然とした不安が確かな達成感に塗り潰された時、カランコロンと出入口の鈴が鳴った。


 不意の来客に憂は身構える。


 考えなかったわけではない。

 考えないはずがない。


 剣ヶ峰葉火という人災――人の姿をした災害という意味で――が、獲物の居所を知っていながらみすみす見逃すはずがないと、短いと言うにも足りない付き合いの中でも理解しているつもりだ。


 考えるのを放棄した憂にとって、それだけが唯一の今日の悩みだった。


 しかし、憂の不安とは裏腹に――来客は葉火ではなかった。その人物は憂の姿を見つけると、片手をあげて陽気に言う。


「やっほー姉倉君。遊びに来ちゃった」


 店を訪れたのは葉火ではなく、夜々だった。


 名瀬夜々。

 葉火のクラスメイトであり、虹村曰く三大岬。活発なのか大人しいのかアホなのかそうでもないのか、未だキャラを掴めていない相手である。


 それはそうとして、葉火でないことには心から安心したし踊り出したい気分だが、だからといって夜々を歓迎する理由にはならない。


 何をしに来たんだこの人は。


「……空いてる席へどうぞ」

「じゃあ昨日と同じとこにしよっかな。他にオススメの席とかある?」


 無い。

 接客業において出すべきでない苦った表情でお客様を迎え入れる憂。夜々は気にした様子もなく席へ向かった。


 対応は全て髭親父に任せようと思ったが、聞きたいこともあったため、憂は自発的に水を用意して夜々の元へ運ぶ。


 ドアインザフェイスではないが、葉火との嫌すぎる交流を経て、比較的まともな夜々と接することへの心理的抵抗が薄まっている憂だった。


 グラスを置くと「ありがとっ」と夜々が言った。


「剣ヶ峰さんは?」

「んー、分かんない。休憩時間は姉倉君を追い回してたっぽいけど、学校終わったらすぐ帰っちゃった」

「ここに来る可能性は?」

「どうだろ。そういえば、放課後はあんまり葉火ちゃん見たことないかも」


 そうなんだ、と言って憂はひとまず胸を撫で下ろしながら、次いで夜々に注文を促す。葉火と大差なく中々に一方的な男である。


 メニューを開いた夜々が悩む姿を見ながら、来訪の意図を図りかねていた憂はストレートな疑問をぶつけた。


「名瀬さんはどうしてここに?」

「え? あー、その……恥ずかしい話、まだ全然立ち直れてないし、一人でいると落ち込んじゃうからさ」

「あの二人……古海さんは?」

「姉倉君けっこー意地悪。聞いたでしょ、私達そんなに仲良いわけじゃないんだよ。三人で放課後一緒に過ごすのなんて昨日が初めてだったんだから!」


 すごいことなんだよ、と夜々は表情で語る。どこか誇らしげな顔だった。


 憂がそれに触れずにいると、夜々は恥ずかしそうにはにかんだ。


「だからさ、その……落ち込んでる姿見せられるの、姉倉君くらい」

「……それはどうも」


 無感情に言ったが、しかし憂も多感な高校生である。可愛らしい女の子に上目遣いでそんな風に言われて嬉しくないなんてことはなかった。


 あざとい。

 確かにこれを誰彼構わずやっているのなら、人気を得るのも頷けるというものだ。


 気恥ずかしくなった憂は斜め上を見ながら話を逸らした。


「姉弟とかいないの? 名瀬さんは」

「いるよ。妹と弟。私よく末っ子ぽいって言われるけど実は長女なんだよね。びっくりした?」

「へえ。僕は最初から長女っぽいって思ったよ」


 それは昨日この場において葉火と三耶子に場をまとめる能力がなかったせいだが、それを抜きにしても夜々の大人びた様子から、長女らしい落ち着いた印象を受けた。


 今日の夜々からは感じられないものだが。

 昨日の夜々を見て、確かにそう思った。


「はじめて言われた! でも昨日の私すっごい落ち込んでたもんね。うう……恥ずかしい。あ、そうだ! 昨日は姉倉君が居てくれた助かったよ! ありがと!」

「それは良かったけど……」

「けど?」

「剣ヶ峰さんってなんなんだ? 僕の知らない世界から来てるのか?」

「わーお」


 勝手気ままな振る舞いに振り回されたことを思い出し、変なことを言ってしまう憂だった。


 代償として夜々が困った顔になる。


「まあ……葉火ちゃんは、その、個性的だよね」

「嫌われてるのを自覚してる辺りが手に負えない」


 他人から疎まれて。


 それでも自分を貫く姿勢が憂には理解できなかった。周りを気にして自分を隠す憂とは正反対の生き方だ。


 だから、相性が悪くぶつかってしまうのだろう。


「葉火ちゃんは強いから。強くて、真っすぐなの」


 大事な物を抱えるように、夜々が言う。


「迷惑に思うかもしれないけど、でも、嫌わないでいてあげてね。悪い子じゃないんだよ。葉火ちゃんの生き方に救われる人もいると思う」


 憂は何も答えなかった。


 夜々の言う通り、葉火の生き方にプラスの影響を受ける人間も確かにいるのだろう。

 憧れる人も、いるのだろう。


 あの人は衝突を恐れない。

 孤独こそが最も恐れるものだとでも言うように、人と繋がろうとする。


 自分を崩さず。

 直線的なまま。

 その挙句が孤独だったとしても。

 曲げない。

 剣ヶ峰葉火という人物は、不気味なくらい不器用に生きている。


 やはり自分とは正反対だ。

 だから理解できるはずがないし、どこか恐ろしささえ感じられる。


 そんな相手だから、きっと嫌いにすらなれないだろうと憂は思う。

 正しく嫌いになれる程の関係を築けるとは、思えないから。


「注文は決まった?」

「え、あ! ちょっと待ってどうしよう、じゃあコーヒー! あったかいやつで! ミルクと砂糖はだいじょぶです」


 注文を受けた憂はキッチンへ戻り髭親父にオーダーを通した。慣れた動作でコーヒーを注いだ髭親父からカップを受け取りトレイに乗せる。そして憂もまた慣れた動きで夜々の元へ向かう。


 ぼんやり外を眺める夜々の前にカップを置くと、はっと我に返った風の夜々が慌てて礼を言ったので、憂は恭しく会釈をする。


「ごゆっくり」


 仲間を呼ばれては敵わないのでお引き取り願いたい所だが、サービスを提供する側のポーズとしてそう告げた。


 夜々はもう一度礼を言って、寂しそうに笑った。

 捨てられた子犬のような表情。


 まるで自分が悪いことをしているような気持ちになったが、仕事があるからと憂はその場を立ち去った。


 それから、髭親父が何か言いたげなのを無視して仕事に励んだ。


 主に店内外の清掃や備品の補充と、たまにやって来る顧客への対応が憂の仕事である。それでも時間が余ることがしばしばであるため、キッチン周りや調理器具を洗ったり消毒も行う。


 それすらも終わってしまった際には、ドリンクの作り方やフードメニューの調理を髭親父から教えてもらう。憂は料理が得意でないし経験もあまりないが、知識に関してはそれなりに豊かになっていた。


 合間合間に夜々の追加オーダーを受けつつ、特に会話することもなく労働に集中し、たまに発生するおつかいイベントをこなして店へ戻った頃には十九時を回っていた。


 あと一時間だと張り切って、窓際の席を一瞥する。


 夜々はまだ帰っていなかった。テーブルにノートと教科書を広げ、しかし外をぼんやり眺めている。


「姉倉くん。少しくらいあの子と話してきてもいいんだよ」

「いえ、別に話すこと無いですから」


 そうは言ったものの、憂も夜々がいつまでいるつもりなのかは気になっていた。閉店時間である二十時まであの調子で居座るつもりだろうか。


 外は暗いし早く帰った方がいい。

 それに嫌な予感がする。


「マスター、今日は僕も閉店作業手伝いますよ」

「大丈夫。私一人でも大して掛からない。それに残業代も出せないしね」

「いりませんよ。すぐ終わるし」

「じゃあ君が辞退した昨日の分のお金も受け取ってくれるね」


 痛い所を突かれ、憂は苦々しげ呻いた。

 どうやら髭親父には憂が何を考えているのかお見通しらしい。


 このままだと閉店後に店を出た夜々と顔を突き合わせる可能性がある。

 着替える時間を考慮すれば杞憂だと判断できなくもないが、今日の憂は自分の見積もりに自信が持てない。剣ヶ峰葉火という存在が憂に与えたダメージは大きかった。


 悶々としつつ思考を組み続け、よくよく考えてみれば顔を合わせて不都合なことなど何もないと気付き、もしそうなっても別れ際の一言を間違えないようにしようと結論する。

 

 解決。

 やがて二十時になり、夜々が店を出て行くのを見送り、着替えを終えると髭親父に挨拶をして店を出る。


 外はすっかり夜に濡れ街灯による色付けがなされていた。秋風に肌寒さを覚えながら、帰ったら思いっきり氷佳を抱きしめようと歩き出したその時だった。


「やっほー姉倉君。お疲れっ! 途中まで一緒に帰ろ」


 物陰からぴょこっと夜々が飛び出してきて、憂は思わず身体をのけ反らせた。声こそ出さなかったが、誰がどう見ても驚いたと分かる反応。


 夜々はいたずらっぽく笑っていた。

 速くなった鼓動を落ち着かせながら、憂はむっとする。


「ご、ごめんね。そんなに驚かれると思ってなかったから」

「……別に驚いてないけど」


 と、見苦しく見栄を張る憂だった。


 なんてこった。やはりこの人達は想像を簡単に超えてくる。


 一緒に帰ろうなんてセリフを女の子に言われる日が来るとは思わなかった。


 断ってしまうのは簡単だが、そうして彼女の機嫌を損ねるとまたもや予想外が予想外の方向から突っ込んでくるかもしれない……憂は一瞬間に悩みに悩んで――散々自分の判断が裏目に出た経験を下敷きに、夜々の提案を受け入れることに決めた。


 下手に距離を保とうとすると向こうから詰めてくる。だったらこちらから近付き、死角に潜り込んでやろう。

 灯台下暗しってやつだ。


 上手くいけば案外簡単にこれまで通りの無関係へ戻れるかもしれない。


「分かった、一緒に帰ろう。売り上げに貢献してくれた名瀬さんの頼みなら断れない」

「わーいありがと! そうだ、どっかご飯でも食べに行く?」

「行くわけないだろ」


 突拍子の無い発言が葉火と重なり、憂はつい語気荒く言ってしまう。

 対する夜々が気にした様子もなく歩き出したので憂もそれに続いた。

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