剣ヶ峰葉火は嫌われている
憂が他人との交流を避ける理由は二つある。
一つは自分を含め人間性の出来上がっていない学生同士で当たり前に発生する諍いを嫌うため。
もう一つは、一つ目の理由をより強固にする憂自身の性質からなるものだ。普段から大人しく穏やかに努めている憂だが、それは周囲との調和を重んじた故の猫かぶりで、実際の所、憂はなかなかに感情的な人間である。
なんとしても回避したい面倒事が意気揚々と向こうからやって来た際、渋面を繕うことが出来なくなるくらいには、感情的な人間なのだった。
いま憂が持て余しているのは怒り。トラブルを生みだす厄介な感情だ。
その矛先に居るのは剣ヶ峰葉火――失恋というトピックを翌日には自ら塗り潰そうとするしたたかな女生徒。
葉火はわざわざ教壇に立ち見下ろすような目つきで教室を一望している。
「なによ古海いないじゃない。慰めてあげようと思ったのに。どっかで一人泣いてんのかしら」
触れづらい発言に近くの生徒は揃って目を逸らした。正反対の位置にいる憂も視線を手元へ逃がした。
お前も泣けば可愛げあるのに、と毒づきながら弁当を食べ進める。出来るだけ縮こまり虹村に隠れようとしたが、その虹村はゴシップ好きの血が騒いだのだろう葉火へと近付いていく。
「古海ならいつも教室にはいないぜ剣ヶ峰さん」
「誰よあんた。別に古海なんかに用はないわ」
憂は自分の耳を疑いかけて、どう考えても葉火に問題があると結論する。
まさかこの女、建前と本心両方を口にするタイプのツンデレか……?
顔を上げると実に堂々とした葉火の姿があった。
「あたしはお腹が空いたからふらりと立ち寄っただけよ」
そう言って葉火は教壇を降りると、正面に居た女子の弁当箱から唐揚げを摘まみ上げ、口に放り込む。続いて一つ後ろの男子からはミニトマト、その後ろの男子からはサンドイッチ、更にその後ろの女子からはおにぎりと、次々食べ歩いてゆく。奪い取られた全員が唖然として葉火の後姿を見送っていた。
ああ、こりゃ嫌われるわ。
あまりに逸脱した行動を目の当たりにして、憂は怒っていたのが途端にバカバカしくなり溜息を吐いた。
それから麦茶を飲もうと手を伸ばして、空振りする。憂の前まで来ていた葉火にペットボトルを奪われたからだ。
葉火は憂の麦茶を一気に飲み干し、ラベルを剥がし分別してから元の位置へ戻した。
「ごちそうさまでした。このビュッフェ形式いいじゃない。あとはデザートがあれば完璧だけど、ま、感謝するわ皆の衆。ありがとね」
と言って、なぜか挑発的な笑みを憂に向ける。
何も返さないのも不自然だと思い、憂は当たり障りのない返答を選んで投げた。
「やめた方がいいよ嫌われるから」
「それはもう遅いわね。もっと周りに目を向けなさい。苦労するわよ色々と」
「……ソウデスネ」
「あたしの名前を言ってみなさい」
一方的とはいえ会話らしきものが成立してしまったことで周りの視線が憂達へ集まっていく。
状況的に憂が不利。いや目立った時点で負けなのだから既に負けていると言ってもいい。
悪い意味でも目立つ葉火とは相性が最悪である。
観衆を味方につけるのではなく敵のまま利用して――悪意を着こなし葉火は笑う。
「……剣ヶ峰葉火さん」
「そう、あたしは剣ヶ峰葉火。よく覚えて――」
「弁償しろ」
ついに件の人物を確定させようとした葉火の言葉尻を大慌てでぶっ潰そうとした結果、立ち上がった拍子に、非常に気性の荒い発言が飛び出した。
出すつもりの無かった本性が、飛び出した。
それがまごう事なき失策であることは考えるまでもない。嬉しそうに口元を歪めた葉火の反応が物語っている。
「弁償? それってお茶のお誘いね。いいわあたしがご馳走してあげる」
「違う。初対面の相手とお茶する気概は僕にはない。いいか、キミと僕は今ここで初めて会ったんだぞ。困っちゃうだろそういうのは、はしたない」
「なによいきなり。頭おかしいんじゃないの」
「剣ヶ峰さんには負けるよ。尊敬する」
もはや憂はパニックで自分が何を言っているのか分からなくなっていた。
如何にしてこの場を切り抜けるか、それだけが脳内を暴れ回り全然まとまってくれない。
最適解はなんだ。いや、そもそもこの状況に正解なんてものがあるのか。
剣ヶ峰葉火という侵略者の接近を目の前まで許した時点で全ては遅きに失しているのかもしれない。
ただ一つ確かなことは。
どれだけしらを切った所でこの女を野放しにする限り破滅は避けられない。
あることないこと触れ回るのだろう。
翻せば、周囲に情報さえ与えなければ言い訳のしようがある。
噂話への対処法として肝要なのは実体を与えないこと、曖昧で不確かなまま霞のように漂わせることだ。
であれば、多大なリスクを負うことにはなるが葉火を追い出すのが第一だ。迅速に、この場から消え失せていただくしかない。
憂は希望を土台に都合よく思考をまとめあげ――目の前の脅威を排除すると決めた。
物理的に。
「出て行ってくれ。みんな迷惑してるから」
そう言って憂は葉火の両肩を掴み、ぐるりと180度回転させ、背中を押しながら教室の出入口へ進んでいく。
既に周囲の視線は自分と葉火を同一に扱っているようにも思えたが、なりふり構っていられない。というわけで、憂は初対面の相手を押し出す男になった。
「あははははは! まるで子連れ狼ね!」
「全然違う! いいから早く出てってくれ!」
高らかに笑いつつちゃっかり踏ん張る葉火をひたすら押す。出来れば下に押し込みたいがそれは無理だ。
意外に体幹の強い葉火に苦戦を強いられながらも根性で成し遂げ――廊下へ出ると同時、突き飛ばすように手を離した。
直後。
反転した葉火が素早く憂の右手を掴み引き寄せる。その最中で反転させた憂のその首へ左腕を回し、背後から締め上げる形を作った。
「やっぱりあんたおもしれー男だわ。さああたしとお茶でもしばくわよ」
「一人で行けよ……!」
教室の出入り口前という、教室内からも廊下からも丸見えな位置で晒し者にされた憂は、本気で身を捩り抵抗したが葉火の拘束から抜け出ることが出来なかった。どころか、そのままずるずる引っ張られていく。後ろから引かれているため踏ん張るのが難しい。
なんでこんなに力強いんだよ。
憂の疑問を察したのか葉火が言う。
「剣道三倍段ってあるでしょう。剣道やってると人より三倍強くなるのよ」
「堂々と嘘言いやがって! 離せ!」
「おほほのほーむらん。離したらあんた逃げるから嫌よ。残念ねぇ姉倉」
「だったら分かった! 一度落ち着いて話をしよう!」
「その為に移動してるんでしょうが。話聞きなさいよ」
なぜか言い負かされたような空気の中で憂は、どうすればこの窮地を脱することが出来るのか考える。
しかし葉火はこれまでの自分が知らないタイプの人間で、だから有効打が見つけられなかった。
廊下を行き交う人々や教室から顔を出す連中は、好奇を向けるばかりで手を差し伸べようとはしない。
降参である。
これ以上抗うのは得策でないと判断した憂は、目を閉じ、糸の切れた人形が如く脱力した。
それを受けた葉火の反応は早く、右腕を憂の脇の下に通し左腕も同じようにして、脱力に伴い発生した重さを受け止める。
「なによ姉倉。あんた初心なのね」
男子高校生一人の体重を支えてなお平然とする葉火。
その抱えられた男子高校生は、死んだふりをしていた。またの名を狸寝入り。怒られるのを怖がった子供の選ぶ手段である。
背後を振り返ることなく憂を引きずっていく葉火はやがて階段へ差し掛かると、間隔で分かるのだろう一度だけ立ち止まり、気にせず降りようとして――
「ちょ、ちょっとちょっと葉火ちゃん! なにしてんの!」
階段を上がってきた夜々に呼ばれ足を止めた。
慌てた様子で駆け上がってきた夜々が、二人の顔を横から覗き込む。
「どうしたのよ名瀬。あたしこれから姉倉とお茶しばくのよ」
「いやいやいや……姉倉君がシバかれてない? 気失ってる? ていうか生きてる!?」
「どうかしら。あたしみたいな美少女に触れられるなんて初めての経験だろうから、昇天しててもおかしくないわ」
「葉火ちゃんが人殺しになっちゃった!」
「その時は隠蔽するから手伝って。あたし名瀬のそういう優しい所好きだわ」
と、葉火は悪びれもせず笑った。
困惑気味の夜々はゆっくり下から憂の顔を覗き、憂の目が開いた途端に悲鳴を漏らした。
「きわっ! 生きてた! 生きてるよ葉火ちゃん!」
憂は夜々の認識を変わった奴へと改めた。
「……名瀬さん。助けてくれ。いきなり現れて僕を攫ったこの人に制裁を与えてほしい」
「え、うーん……困ったなぁ」
苦笑いで誤魔化そうとする夜々に、憂は鋭い視線を向ける。とても助けを求める人間とは思えない鋭利なものだ。それくらい必死だった。
「もー葉火ちゃん。三耶子ちゃんが言ってたじゃん。姉倉君、目立つの好きじゃないっぽいって。まさかと思って見に来たんだけど」
「言ってたわね。でも疑問だったのよ。目立つのが好きなあたしにそんなこと言っても無駄でしょ。地味な姉倉のことも見てる古海がそれくらい分からないはずないのよね」
「剣ヶ峰さん? 知ってて僕をこんな風に引きずり回してるってことですか?」
そうよ、と葉火は即答する。更に、仮に言われてなくてもあんたを見てれば分かるわ、と付け加えた。
この発言を受け、憂は自分の見積もりがそもそも破綻していたのだと絶望した。
剣ヶ峰葉火という人物に目を付けられた以上、目の届く範囲に居てはならなかったのだ。身を隠した所で探し当てられ満天下へ引きずり出されていただろう。
実体がある限り逃れられない。
つまりは『避ける』のではなく『消える』が正解。どうしろと。
「……分かった。理解したよ剣ヶ峰さん。君から逃げるのはどうやら無理みたいだ。もう諦めるから離してくれないか。普通に歩いてお茶しに行こう」
「ようやく理解したの。素直なのはいいことよ、姉倉。名瀬も来なさい。180円のジュースを奢ってあげるわ」
「え? わーいやったー!」
両手を上げて喜ぶ夜々を見た憂は、この人昨日と全然キャラ違うな、と思った。
降伏宣言が聞き入れられ、憂はようやく拘束を解かれる。日頃当たり前に享受する自由に感謝しながら葉火へ向き直る。
得意げな顔で階段ギリギリに立つ葉火、その後ろへ憂は視線を遣り、言った。
「……古海さんも来たみたいだ。昨日の続きでもする?」
憂が指さした先へ葉火と夜々が振り返る。
が、そこには誰も居ない。古海三耶子の姿など、どこにもなかった。
つまりは嘘。隙を作るための――真っ赤な嘘だ。
自分から視線が外れたその瞬間、憂は形振り構わず全力疾走でその場を逃げ出した。
しっかり引っ掛かって憂の逃走を許した葉火は、しかし快活に破顔する。
「追いかけるわよ名瀬! 動けなくなるまで捕まえちゃダメよ!」
「やだよそんな陰湿なやりかた!」
背後から聞こえる声と続く足音を一度も振り返らず憂は走り続けた。
〇
ホームルームが終わると同時に脇目も振らず校内から脱出すると、早く帰って氷佳に癒されたい……そんな風に考えながらバイト先へ向かう。
幸い捕まることなく昼休みを終え、その後の休憩時間も教室に留まらないことで虹村をはじめとした連中の好奇心をも回避し、無事放課後まで逃げ切った。
逃げ切れた事実がそれはそれで不安だったが、素直に自分を褒めておく。
葉火が名前を言い触らさないか心配でならなかったが、口封じの手段が浮かばなかったこと、関わるだけ事態は悪化していくこと、既に怪しまれていることを鑑みて――全てを運否天賦に委ね、そのうち憂は考えるのをやめた。
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