第23話 暗い闇の奥で②
エリスは暗く寒い部屋の中で、割れた食器の破片をぎゅっと握りしめて、ドアの裏になる部分に身を潜めた。外の廊下では見張りの兵士と誰かが話していてざわざわと騒がしい。しかし声は小さく会話の内容は聞き取れない。
誰かのくぐもった悲鳴と、大きくて重い、鎧を着た人が倒れる音が続けて聞こえる。
エリスは恐怖の中、食器の破片をぎゅっと握りしめ、息を殺す。
ベッドには丸めたシーツや椅子やらを置いて人が寝ているようなシルエットを作っている。誰かが入ってきたらまずそこを見るはずで、エリスが隠れている壁際はドアが開けば死角になる場所だ。
うまく隙を突いて逃げられればそれでよし。こちらに気づかれて危害を加えられそうになったら――誇りを汚されそうになったら――この破片で自らを傷つける。王妃がエリスを殺そうとするなら、きっと病死に見せかけたいはずで、外傷は都合が悪いだろうから。
カチャカチャと、鍵が開いて錠前が外される音が響く。
鉄製のドアが、開く。
「エリス!」
飛び込んできたその声は、エリスを凍り付かせていた恐怖を溶かした。
(アルウィン様?)
声が出ない。身体が緊張しすぎていて。
その時エリスの視界の隅で、部屋の端にいた金色羽の妖精が牙と爪を剥き出しにして金色の目を獰猛に輝かせて、アルウィンに飛びかかる姿が見えた。
「アルウィン様、危ない!」
エリスが叫び終わるよりも早く、アルウィンの手は反射的に金色羽の妖精を払いのける。妖精は短い悲鳴を上げて壁にぶつかって、よろよろと床にまで落ちた。
アルウィンはそれに目もくれず、エリスの方へ駆け寄る。
「エリス……!」
アルウィンの両腕がエリスの身体を抱きしめる。
突然の抱擁にエリスは硬直し、全身が赤く染まった。お守りのように握っていた破片は手から落ち、床に落ちる。
「怪我は? 痛いところはないかい? 何かひどいことをされては――」
「い、いません。何もされてはいません。わたくしは無事です」
むしろいま口から心臓が飛び出しそうだった。
「よかった……あっ――ご、ごめん」
アルウィンは慌ててエリスから離れ、上着を脱いでエリスの肩にかける。そのあたたかさで、エリスの感じていた寒さも怖さの記憶もすべて消えてしまう。
「手紙を読んだよ。最後まで」
――最後まで。
それは炙り出しの、王妃に気をつけてくださいという部分もだろうか。エリスが視線を上げると、アルウィンはどこか辛そうな顔で微笑んだ。
「フレデリックからも、君が城で倒れて、なのに会わせてももらえないと聞いた。君の行方を捜していたところにテオが来てくれて、ここまで導いてくれた」
テオがアルウィンの首の後ろから顔を出す。
「テオ――! ありがとう、テオ」
「別に」
ぷいとそっぽを向く。ただしそのふわふわな尻尾は横に揺れている。これは喜んでいるときの動作だとエリスは知っている。エリスのことをかなり心配してくれていたらしい。そのことが嬉しかった。
「帰ったら、たくさんお礼をするわね」
相変わらずそっぽを向いたままだが、尻尾の振りが大きくなる。
「ありがとうございます、アルウィン様」
エリスはアルウィンにも頭を下げて礼を言う。
アルウィンにとってもつらい状況だろうに、それでもエリスを探してくれたこと、気遣ってくれたこと、そのやさしさがエリスには苦しかった。
「……ここはいったいどこなんでしょうか」
「この塔は貴人専用の牢獄のようなものだ。まさかこんなところに君を閉じ込めるなんて、母上はいったい何を――」
アルウィンは首を横に振る。
「ともかくここを離れよう。歩けるかい?」
差し伸べられる手と共に向けられた碧い瞳はまっすぐで、強い意志の光が灯っていた。
「はい」
エリスが手を重ねようとした時、床で気絶していた金色羽の妖精が、またアルウィンの足に向けて飛び掛かってくる。
「うわっ――あ……」
足を上げて避けようとしたアルウィンは、バランスを崩して妖精を靴底で踏み潰してしまう。足を上げた時には、すでに金色羽の妖精の姿は跡形もなくなっていた。
「やったぜアルウィン、いい気味だ!」
まずいという顔をするアルウィンの後ろでテオが大はしゃぎする。銀色と金色はかなり仲が悪そうだとエリスは思った。
アルウィンに手を引かれてエリスは外に出る。廊下では気絶している見張りの兵がいた。
「下には人の気配がある。上から行こう。抜け道がある」
さすが城の構造には詳しい。エリスは全幅の信頼を寄せて頷く。城は広大で、その一部である塔も広い。大部分は使われていないが、見張りの兵や使用人が夜にもかかわらず動いている。アルウィンはそれらとの接触を躱して階段を上って、通路を進んでいく。迷いない足取りで。
しかししばらく行ったとき、通路の途中で小柄な人影が前に立ちはだかる。
ヘドリーだった。ひとりだけで護衛もつけずに、アルウィンのいく道を邪魔するように。不機嫌そうな顔で。
「罪人を連れ出すなんて、何を考えているんだ」
「罪人だって……?」
問い返すアルウィンの声には疑問よりも怒りが含まれていた。
「お茶会でのマナーを忘れてしまっていたことは、王妃殿下や皆様に申し訳ないことをしてしまったと思っています。改めて謝りにいくつもりです。ですが――」
エリスは毅然として答える。顔を上げて背筋を伸ばし、胸を張って。
「ですが罪に問われるようなことは、このエリス・カルマートの名に誓ってしていません」
堂々と宣言する。冤罪を認めるつもりなど微塵もない。
ヘドリーは更に眉根を歪めたが、アルウィンはその視線からエリスを庇うように立った。
「……罪とやらについては僕はまだよく知らない。だが罪状が確定していない状態で、彼女が不当な扱いを受けていたのは事実だ。エリスは僕が責任を持って預かる」
「うるさい! 出来損ないのくせに!」
「ヘドリー……」
「年上だからってだけで上から押さえつけるな! ルウをどこにやった!」
ヘドリーは激しい怒りに震えながらアルウィンを睨む。
――ルウ。それはおそらく金色羽の妖精の名前だろう。ヘドリーはアルウィンがエリスを連れ出したことよりも、妖精がいなくなったことに対して怒っていた。
「金色羽の妖精さんは、妖精王のところへ帰りましたわ」
「嘘だ!」
「嘘ではありません」
「嘘だ嘘だ! ルウはずっと俺といっしょにいたんだ! いなくなるわけが……う……うわああああ!」
堰を切ったように叫び出し、すべてを拒否するように背を向けて逃げ出す。
ヘドリー自身も感じていたのだろう。金色羽の妖精ルウがそばからいなくなってしまったことに。そして傷ついているのだろう。友人がいなくなってしまったことに。
エリスの胸が痛む。だがいまはきっとこれでよかったと、エリスは自分を納得させた。
ヘドリーは金色羽の妖精のことを友人だと思っている。いまここで真実を知ってもアルウィンに対する恨みを募らせるだけだ。
妖精についてのこと、金色羽の妖精が何をしていたのか、何をしようとしていたのか、そういうことを話すのにはもっと落ち着いた場所での方がいい。だからアルウィンを差し置いて前に出た。
「差し出がましい真似をして申し訳ありません。ですがあの妖精は、いたずら好きの怖い妖精でした。ヘドリー様のそばにはいないほうが、きっと……」
「ごめん。僕が言わなければならないことだったのに。ヘドリーにはあとでちゃんと話しておく」
「さあ、行こう」
躊躇いなく差し伸べられる手。だがエリスは迷った。本当にこの手を取る資格が自分にあるのかと。重要なことは何も話していない――離せない自分が。
戸惑っていたエリスの手を、アルウィンが握った。
「エリス。いまの僕にとって何より大切なのは、君を守ることだ」
手を引かれ、歩き出す。塔の上に向かって。
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