第18話 王子と妖精と、放課後の図書館①



 約十日ぶりに、エリスは学園の図書館を訪れた。

 昼休みのため利用している生徒はほとんどいない。いつものように二階へ行き、奥のいつもの席に座る。この席に座ると、エリスの表情は和らぐ。

 教室で友人と話すのも楽しいが、三回目の学園生活ということをうっかり零さないように気をつけているため、教室では気が抜けない。


「――エリス」


 静かな図書館の中は声がよく響く。不意に名前を呼ばれて、振り返る。

 本棚でつくられた通路にアルウィンがやや緊張した面持ちで立っていた。その顔はまっすぐにエリスに向けられている。


「アルウィン様」


 アルウィンが図書館に――しかも二階の奥にまで来るなんてめずらしい。いったい何の用なのだろうか、エリスも緊張してくる。

 緊張の理由は、久しぶりに距離が近いこともあった。しかも騎士競技大会でのハプニングも思い出して、緊張と胸のどきどきが治まらない。顔がまともに見られずに、目を逸らしてしまう。


 いったい何の用だろうか。騎士競技大会で怪我をしたという腕はだいじょうぶだろうか。

 様々なことが気になって、視線をうろうろと彷徨わせる。だがエリスにはわからない。黙っている相手の心はわからない。


「あの、アルウィン様、どうなされました?」

「いや……身体の調子はどうかなって思って」

「お気遣いありがとうございます。もうだいじょうぶです。アルウィン様こそ、お怪我などはされていませんか?」

「僕はなんともないよ」


 怪我そのものを隠される。

 自分には言えないことなのかとエリスは悲しくなった。だが思い起こせばアルウィンは医務室でですら怪我を隠していた。誰にも言いたくない、誰にも弱みを見せたくないのかもしれない。ならばエリスにも踏み込めない。そんな勇気はない。


 そしてまたふたりの間に沈黙が訪れる。

 今回先に口を開いたのはアルウィンだった。


「エリス、その、もし悩み事とかがあるなら――」

「ありませんわ」


 エリスははっきりと答えた。アルウィンに言える悩み事はない。

 しかしどうしていきなりそんなことを聞いてくるのか、エリスは疑問に思った。いままでエリスのことを避けていたというのに。

 もしかして、誰かに何かを吹き込まれたのだろうか。それとも悩み事があるから図書館に引きこもっていると思われたのだろうか。それは良くない誤解だ。


「図書館にいるのは勉強のためです。アルウィン様、わたくしのことはどうかお気になさらないでください。それでは失礼いたします」


 エリスは一礼し、その場を去った。

 気にかけてもらえるのは嬉しかったが、アルウィンと仲を深めるわけにはいかない。彼が毒殺される姿をもう二度と見たくはなかった。


(やっぱり、婚約を解消してしまうのが一番なのではないかしら)


 前回は結局解消されることはなかったが。

 今回はいままでの反省を踏まえて平和的な婚約解消を行なえば、アルウィンが廃嫡されることも、毒殺されることもないのではないだろうか。エリスという便利な駒がいなくなるのだから。


(他の手段を取られる可能性もある、けれど……もう一度ちゃんと考えてみましょう)





 放課後の図書館二階のいつもの場所で、エリスは椅子に座ったまま物憂げな溜息をついた。

 その頭の上から、ひらひらと銀色の光が降ってくる。


「エリス、どうかしたのか」

「テオ――」


 テオが学園内で姿を見せることはめずらしい。銀色の羽の妖精は、ふわふわと飛び回る。


「わたくし、なにか変かしら」

「うん。最近はずっといたずらもしてないし、ため息ばっかりついてる」


 背筋にぞっとしたものが走る。魔法を使わなかったことで責められた前回の人生を思い出して。

 しかしテオはエリスを責めているわけではなさそうだ。純粋に不思議に思っているような雰囲気だった。


「――わたくしのこと、嫌いになった?」

「ううん。エリスのことは好きだよ。お菓子もくれるし」

「ありがとう。わたくしもテオのことが好きよ」


 エリスはスカートのポケットから、キャンディー入りのチョコレートを取り出し、テオに見せた。チョコレートもキャンディーも宝石のようにきらきら光る、テオのお気に入りだ。

 テオは顔を輝かせ、机の上にまで降りてくる。伸ばされた小さな両手の上にチョコレートを乗せた。


「悩んでいるの。どうやったら、アルウィン様に二度と顔も見たくないって言われるほど嫌われることができるかしらって」

「アルウィンって婚約者? だったらそりゃあ浮気だろうね」

「浮気……」

「愛がない相手でも、自分の女がよそにいったらそりゃあ嫌なものさ」


 俗っぽい話だが、確かに不貞は充分に婚約破棄の理由になり得る。だがその作戦には大きな問題があった。


(どうしましょう……アルウィン様より格好良い方なんていませんわ)


 そもそも相手がいない。公爵家の娘で第一王子の婚約者であるエリスにアプローチをかけてきてくれるような人間はいない。偽の恋人役を頼めるような友人もいない。

 どう考えても浮気なんてできない。

 誰かをいじめることも、もう絶対にできない。


(わたくしは全然ダメですわね……)


 何もかも、考えれば考えるほど気持ちが沈んでいく。

 毒についてはフィーネにも調べてもらっているが、もし解毒剤が見つかって、それで助かったとしても、また別の毒を使われたり別の方法で攻撃してこられたら、防げるとは限らない。

 敵が強い意志を持って殺そうとしてきたとき、エリスに何ができるだろう。

 このままではまた、すべて壊されてしまう。何も守れない。


(ダメよ、こんな弱気じゃ!)


 自分を奮起させようとするのだが。

 だが。

 頑張ろうと思えば思うほど、堪えようとすればするほど、ぽろぽろと、涙が溢れてきて止まらない。

 いくら強くあろうとしたとしても、エリスは弱い。弱さを認めたくないのに認めざるを得ない。それでも認めたくない。


 エリスは唇を噛みしめて、胸ポケットに入れているアルウィンのハンカチーフをポケットの上から押さえた。勇気が欲しかった。運命に立ち向かう勇気が。


 エリスの前ではテオが困ったような表情で座り込んでいた。不意にその目が見開かれ、怯えたようにエリスの指に抱きつく。

 不思議に思って振り返ると、そこには昼休みの時と同じようにアルウィンが立っていた。


「アルウィン様……?」


 アルウィンの目はエリスを通り越して、その向こうにいるテオを見ていた。


「……銀色羽……ああ、そういうことか」


 ぼそっと呟かれたいつもより迫力のある声に、エリスは息を飲んだ。

 その時エリスは思い出した。

 前回の人生で、アルウィンがテオを叩き潰した光景を。

 その鮮烈な記憶を。



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