Mission1 密告者
◇
颯霞とのお見合いの日から三日ほどが過ぎたある昼の日のこと。七海はある任務を遂行するため、森の奥に隠れて存在している、大きな屋敷の前にいた。門兵に用事を伝え、大きな門をにくぐり抜ける。
ここへ来るのにはまだ慣れていない。厳格な雰囲気が漂う屋敷全体に気圧されるのはいつものことだ。西洋の家の作りをしているこの屋敷は、いつもの綺麗さを保ったまま、何百年も存在し続けている。
私が屋敷の立派で豪華なドアを開こうとすると、それは勝手に開かれた。ああ、長くここに来ていなかったせいで忘れていたけれど、ここには少数だけれども立派な執事が待機しているんだったわ……。
屋敷の中に靴を履いたまま入る。広い玄関の正面には、大広間へと続く長い廊下があった。私はその廊下を通ることなく、螺旋階段を使った。その方があのお二人方のいる書斎に近いからだ。
書斎へと向かい、その扉の前で一つ深呼吸をする。ドアをノックしてから、こう告げた。
「
深く、深く頭を下げる。あのお二人方が顔を上げろと言うまで、私は一切動じてはならない。そういう決まりだ。
「七海。待っていましたよ」
「顔を上げなさい」
優しく声をかけてきたのはリリー様。そして、厳格な雰囲気を全身に纏い、顔を上げろと言ってきたのはこの屋敷の主であるノア様だ。
「氷織颯霞との婚約が決まったことを直接伝えに参りました」
「ああ」
ノア様は一瞬にして難しそうな顔になり、眉をひそめる。屋敷の外から聞こえてくる葉の揺れる音が妙に鼓膜に響いた。
「あちらは何も怪しんではいなかったか?」
「はい。その可能性は断じてありません」
「……ああ、それなら良いのだ」
ノア様は瞳を伏せて、机上に広げてある報告書に何やら書き足し始めた。おそらく、本部へと送る密告書だろう。それよりも、と七海は思った。リリー様とノア様は本当に日本語がお上手だわ……。
思わず感嘆の声を出しそうになったが、それは心の中だけに留めた。二人は、日本人ではない。それなら、一体何人だというのか。それはまだ言うことなんて、出来ない。
「七海」
よく通るノア様の声に私はそちらの方へ体の向きを変える。
「はい」
「お前に、次の任務が届いた。この封筒を確認しなさい」
ノア様が手渡してきた封筒にはとても高価であろう金箔が散りばめられていた。私はそれを慎重に受け取り、中身を取り出した。任務書が書かれた用紙に一通り目を通し終えて少し、安心した。これならば、まだ私に出来ることだったからだ。
『氷織颯霞との交際期間中に、お前は決して奴に入らぬ情など抱いてはならない。そして、必ず奴がお前に特別な情を抱くように仕向けろ』
少々荒々しい命令口調の任務書。この人は、一体いつになったら私を開放してくれるのだろうか。そこから逃げ出そうとしない私が悪いのかもしれない。でも、逃げたところで相手は帝なのだ。
私は逃げたところで帝に後を追われ、殺されるだろう。反逆者として認められ、手に入るかもしれなかった自由さえも、失ってしまうかもしれない。
そせん、私はその程度の人間だ。こうやって任務に従っていながらも、その本当の意味は自分にはそれが一番良い道だからだ。私は今日の用事を終え、屋敷を後にした。少しでも早く、ここから抜け出したかった。森から出たところで、何だか体から鉛のような重い感覚がなくなった。
「一体、何が正しいって言うのよ……っ」
泣きそうになるのを必死にこらえる。頭を抱え、しゃがみこんでしまった。昔から剣技を叩き込まれた私の手は、決して女性の手とは思えないほどに、分厚く丈夫になっていた。
女性のように、華奢な体でもない。長身の体に程よくついた筋肉。今は綺麗な着物を身に纏い、醜い本当の自分を隠しているがそんなことをしても意味がないのだ。
ああ、まるで私は───囚われた
絶望で覆い尽くされるのは、まだこの時ではないというのに。私の心は、こんなにも脆くて弱かったのだろうか。頭を抱え、随分と長い時間が経っていたその時、────
「七海、さん……?」
とても驚いたような声が私の鼓膜に響いた。私はその声を聞いた瞬間、はっとして慌てて立ち上がる。
「あ、あら……颯霞さん。こんにちは」
「七海さん。こんな所でどうしたのですか?凄く辛そうだったんだけど……」
その瞳は私を心配そうに見つめていた。頭を抱えてうずくまっていたところを見られてしまったというのか?私は、何という失態をしてしまったのだろう。どうやって取繕えばいいのか。さすがの私も、すぐには思いつけなくて愛想笑いを浮かべるしかない。
「今日はとても暑いではありませんか?それで少々暑さにやられてしまっただけなのです」
「本当に?今日はもう十一月です。暑さにやられるわけがありません」
「それよりも、颯霞さんこそなぜこんな所におられるのですか?」
「俺は今日隣町に行く予定なのです。車はあちらの方で待機させています」
確かに、彼はいつも着ていた和服ではなくて、洋装をしている。長身で細身の彼にその漆黒色のスーツはとても似合っていて女性顔負けの美しさだった。
おそらく、隣町へと行く際に私を見かけたのだろう。
「良ければ七海さんもご一緒にどうですか?」
彼は優しい微笑みを浮かべてそう言った。正直とても驚いた。先程のことで私への訝しさが増したと思っていたのに。
「……っ、はい!是非行きたいです」
「後、色々と七海さんのことに踏み込みすぎてしまい不快な思いをさせてしまいました。ただ、俺は心配だったんです」
「いえ、そんなことは全くございません。ただ、少し心が乱れてしまって……。
「そうなのですか……」
彼は再び心配そうに眉を下げ、こちらに向けて手を伸ばしてきた。彼の行動の意味が分からなかった。
「躓いてしまっては七海さんが怪我をしてしまいますので。お手をどうぞ」
その意味が分かった途端、私の頬はぽっと火が付くようにして赤くなった。でも、私の手など、とても女性のものじゃない。彼はそれに気づいてしまうかもしれない。でも、ここで身を引いてしまうのは何だか嫌だった。彼に触れたいと、思ってしまった。
「ありがとう、ございます」
恐る恐る手を伸ばし、ゆっくりと彼の手に重ねた。男の人の手というのは私が想像していた以上に大きくて、安心する。彼の手が私の手を優しく包み込む。今、私は真っ赤になってしまっているかもしれない。こんな小さなことで動じることなどなかった私が初めて、気恥ずかしさを覚えている。
「七海さんの手はとても綺麗な手をしていますね。剣術をしていたりしますか?」
彼は私の手を、綺麗な手だと言った。でも、それよりも、彼にはすぐに、この手に触れただけで剣術を叩き込まされた手だと分かってしまった。恥ずかしさとやるせなさのあまり胸が詰まり、思わず手を離そうとする。
けれど、どう力を入れても私の手は彼の手から逃れることが出来ない。私は思わず颯霞さんのこと睨んでしまった。
「七海さん」
「あ、あのっ!離して、…」
「もしかして君がさっき
「離してください……!」
自分にとって最大のコンプレックス。それを、颯霞さんに触れられてしまって、冷静でいられるわけがない。だって颯霞さんは、今までの人たちとは全く違ったからだ。
先程も、私のことを悪く言うことはなかった。心の底から心配してくれて、事情を聞き出そうとした。それに全く嫌悪を感じなかったのは、それは颯霞さんの優しさだと分かっていたから。でも、優しさ以外の言葉なんて聞きたくない。
───また、傷付きたくない。
「七海さんっ!俺の話を聞いてください……っ!」
颯霞さんの低くて怒ったような声が思ったよりも近くで響く。私ははっとして、颯霞さんの瞳を見つめた。
「貴女は、何をそんなに怖がっているのですか。貴女はもう、俺の恋人なんです。俺は、剣術を叩き込まれた七海さんに、決して女性のように傷一つない手ではない七海さんに、惹かれたのです」
その瞳は本気だった。私は、一体何てことを思ってしまったのだろう。颯霞さんのことを優しい人だと思った。そんな考えを押し捨てて、この人が私を悪く言い放つ未来を想像した。なんて愚かな行いなのだろう。
「で、でも、私の体は決して女性のように小柄ではありません。この手も、綺麗には程遠いほどなのです。私なんかが、颯霞さんに受け入れてもらえるわけが、……」
「七海さんは、初めてお会いした時からとても可憐で美しい
颯霞さんの温かい手が、私の手を優しく包み込んでいた。胸から溢れ出してしまうほどにいっぱいになってしまった嬉しくて、温かい気持ちを今すぐ誰かに伝えたい。
「信じても、よろしいのでしょうか……?」
「はい!俺は、嘘を一番嫌う人間だということを噂で聞いていないのですか?七海さんが誰に何と言われていようと、俺はそんなことを当てにしたりなんかしません。俺は、自分の見たものを信じようと、決めたのです」
「はいっ、……」
◇
彼女は一体、どんな秘密を抱えているのか。子規堂七海という女性が、一体どんな人なのか。初めて会ったあの日から、あの人のことを考えてしまう自分がいた。可憐でとても美しく華やかさを纏った彼女を初めて見た瞬間、正直とても驚いた。
そして同時に、嫌悪感をも抱いていた。今まで俺の周りにいた女性たちは皆、ケバケバしく、いつも鼻にくる香水の匂いが漂っていた。そのせいで、女性に対して嫌な印象を抱いてしまっていたのだ。
……だから彼女も、それらと同じだと、信じて疑わなかった。
「お初にお目にかかります。子規堂七海と申します」
一つ一つの所作がとても綺麗で美しい。彼女がゆっくりと顔を上げて、お互いに目が合った時。彼女の艷やかな黒髪が宙を舞い、ふと見えた寂しそうな微笑み。彼女は、今まで生きてきた中で出会った人たちとは、何かが違うと直感した。それが何かはまだ分からない。
けれど、計り知れないほどの、大きくて重い、責任を背負っているように見えたのは、気のせいだったのだろうか。
◇
いつの間にか、肌寒く感じる季節は予期する暇も与えないほどに早くやって来た。車の中は温かいと言えど、今日の外気温は十五度ほど。
「七海さん。体調は大丈夫ですか?寒くはないですか?もし体調が悪ければ気になさらずに言って…」
「あ、あの……本当に大丈夫ですから」
颯霞さんは先程からこの様子。1分経つごとに同じ質問をされている気がする。颯霞さんは重度の心配性だということが判明してしまった。それにとても過保護だ。これでは外の景色を楽しむことさえ出来ない。別に迷惑というわけではないが、何か策を考えなければ。
「颯霞さん。これからゲームというものをしませんか」
我ながら、突拍子もない提案だと心の中で苦笑する。でも、颯霞さんは少し興味を持ってくれたようだ。
「ゲーム、というと?」
「あっち向いてホイっていうゲームです!」
「七海さん。俺、ゲームというものを今までしたことがないのですが、…」
「ふふ、そうでしたか。でも、大丈夫ですよ。何せこれは私が生み出した遊びですからね」
それから私は颯霞さんに"じゃんけん"というものを教えた。じゃんけんの種類はグー、チョキ、パー。グーはチョキには強いけれどパーには弱い。チョキはパーに強くて、グーには弱い。パーはグーには強いがチョキに弱い。
じゃんけんというものを知らない人と出会うのは初めてで、少し新鮮な感じがした。でも、それもそうだと思い至る。颯霞さんは国内最高の隊を担う人で、家柄は由緒正しい氷織家。
任務遂行のため、氷織颯霞を調べるついでに氷織家のことも調べてみた時のことだが、氷織家の者は外界との接触を強く拒んでいるということだった。
その理由までは調べようとはしなかったけれど、知ってみるのも悪くないかもしれない。
「それでは、ゲームの説明も一通りすませたことですので、始めましょうか」
「七海さん。ここで少し提案があるのですが、ただあっち向いてホイをするだけでは何だか物足りないと思ったので…先手5点を取った方のお願いを聞く、というのはどうですか?」
「はい。とても良いと思います」
私が快く了承すると、颯霞さんはとても嬉しそうに微笑んだ。初めは少し冷たい印象を受けた颯霞さんの瞳は、今はとても柔らかく私を見つめている。少しずつ颯霞さんの気持ちが私へ向いてきているのを実感する。
私もそれに応えたい、だなんておこがましい願いなのだろうか。颯霞さんとなら、結婚しても良いというほどに、私はもう、こんなにも颯霞さんに特別な情を抱いてしまっている。でもその感情の名を口にすることは許されない。これは、決して許されることのない、儚い恋なのだから……。
「最初はグー、じゃんけん…ポン!」
「やった!七海さんに勝った!」
「じゃあいきますよ~!あっち向いて…ホイ!」
「うわぁ、……ハズレた」
「次は私の番です…!」
そうやって私たちは隣町へ着くまでの間、ちょっとしたゲームをして遊んだ。彼の意外な子供らしい一面を見ることが出来て、とても心が満たされた。
勝敗は颯霞さんの手に渡った。正確には、颯霞さんが勝つように仕向けた、という方が正しいのだろうか。颯霞さんは私が思っていたよりもとても良い人で、ただの時間つぶしのゲームにも快く、楽しそうに付き合ってくれた。
「七海さん。お願い事を、します」
「はい」
少し緊張した。颯霞さんの真剣な瞳に映る私の顔は緊張で固まってしまっている。颯霞さんも少し緊張しているのか、ごくんと唾を飲み、喉仏が大きく動いた。
「子規堂七海さん。これからも、ずっと、……俺の隣に居てください」
彼は愛おしいものを見つめるような瞳で、私を見つめていた。ずっと、一緒に…か。それは、私が応えることの出来る願いなのだろうか。
「そうなれると、いい……ですね」
颯霞さんの瞳を見て話すことが出来なかった。それは、私にやましいことがあるから?それは、きっと違う。
……もしも今、颯霞さんの瞳を見つめてしまったら、その瞳に全てを見透かされてしまいそうになるから。それは、何だか怖かった。
曖昧に答えた私に颯霞さんの表情に不安が滲んでいく。なぜ、この人はこんなにも真っ直ぐに生きられるのだろう。嘘偽りのない本当の自分をさらけ出しても、彼はきっと、沢山の人に好かれる。でも、自分はどうか。自分は、そんな彼の隣を歩けるほど良い人間ではない。
「あ、颯霞さん。着いたみたいです」
颯霞さんの私を見つめる真っ直ぐな瞳から逃れるように、私は車から外に出た。隣町は私の住んでいる都会よりもずっと離れたところにあった。颯霞さんは車を降りてから暫くの間、複雑そうな顔をしていたが、私はそれを見ていないふりをした。
「七海さん。これから軍の
「はい」
「あの、……ここまで来させてしまったのですが、迷惑ではなかったですか?」
颯霞さんは自信なさげに目を伏せる。いつも凛としていて少し冷たくも感じていた瞳に今は不安の色が滲む。私はそんな様子の颯霞さんを見て、一瞬だけれど目を見開いた。
「いいえ。迷惑などそんなことはありえません」
そう言って、自然と出てきた微笑み。我ながら、だめだなと思った。颯霞さんとの間に私情など一切抱いてはいけないのに、感情というものはそう簡単に制御できるものではないと、今、初めて知った。
もう、どうしたら間違いで、どうしたら正解なのかが分からない。真っ暗で何もない道を、一人で彷徨っているみたいだ。
そして、誰が、こんな展開を予想できていただろうか。屯所に向かう途中、颯霞さんは突然振り返って、私の方に目を向けた。その瞳は、真摯すぎて、何だか少し怖かった。気づかぬうちに背筋が伸びる。
「七海さん。…俺に、七海さんを抱かせてくれませんか」
空耳、だったら良かったのに。そうだったのなら、私はまだ、大丈夫だったのに。颯霞さんと隣町へ行った後、そこからどうやって自分たちの住む都会に帰ってきたのか、全く覚えていない。颯霞さんも終始真顔で、何を考えているのか分からなかった。
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